2026年9月20日説教「イエスの焼き印」松本敏之牧師
エレミヤ書9:22~23
ガラテヤの信徒への手紙6:11~18
(1)自ら大きな字で
昨年から15回にわたって語ってきましたガラテヤの信徒への手紙も、今回でいよいよ最後です。パウロは、ここで結びの言葉と最後のあいさつを語っています。
「御覧のとおり、私はこんなに大きな字で、自分の手であなたがたに書いています。」6:11
この当時、誰かに手紙を書く時、本人が書かないで、口述筆記で記されることが多かったようです。このガラテヤの信徒への手紙もそうでありました。パウロが話したことを、書記か秘書かが記したのです。しかし最後のところで、パウロ本人が自分で筆をとって書き記しました。パウロがどうして大きな字で書いたのかについては、目が悪かったからだとか、あるいは字が下手で小さな字が書けなかったからだとか、いろいろな説がありますけれども、素直に読むならば、やはりパウロは最も言いたかったことを、最後に自分で、大きな字で記したかったのでしょう。
(2)人によく見てもらいたい
そのあとの12節、13節に記されていることは、パウロがこれまで何度も言ってきたことの繰り返しです。
「肉において見栄を張りたい人たちがあなたがたに割礼を強いています。彼らはただ、キリストの十字架のために迫害を受けたくないだけなのです。実際、割礼のある者自身、律法を守っていないのに、あなたがたに割礼を望んでいるのは、あなたがたの肉を誇りたいからです。」6:12~13
ここで批判されているのは、「肉において見栄を張りたい人たち」でした。「肉」というのは、「世間に対して」ということです。ですからこれは、「世間によく思われたがっている人たち、格好のいいところを見せたい人たち」と言い直せば、わかりやすいかも知れません。クリスチャンの中にもそういう人はたくさんいるでしょう。クリスチャンでない人と比べても、同じ位いるかも知れません。私自身、必ずしもそうした考えから自由であるとは言えません。牧師であっても、力のある牧師だと見てもらいたいという思いをどこかで引きずっているものです。ここで触れられている人々も、宗教者ですからそういう面をもっていたのでしょう。
そのように「肉において見栄を張りたい人たち」が、あなたがたに無理矢理、割礼を受けさせようとしている。そこには二つの理由がありました。一つは「キリストの十字架のために迫害を受けたくない」からと言うことです。キリスト教はユダヤ教の中から生まれてきました。この当時、ユダヤ教は誰もが認める、しかも唯一の宗教でありました。そしてキリスト教会自身、まだユダヤ教と決別して歩むことまでは考えていません。
「どうも最近あやしげな新興宗教が発生している。イエスという十字架にはりつけになった男を神の子として拝んでいるらしい」。みんながそんな噂をしています。そのことで変な目で見られたくない、と思っているのです。クリスチャンですから、確かにイエス・キリストは否定しないでしょう。しかし同時に、そのことで迫害もされたくない。だからとにかく、異邦人が改宗する時にはユダヤ人と同じように、割礼を受けさせる。「変な宗教だと思われたくない」という理由で、割礼を受けさせようと言うのです。「私たちもやるべきことはちゃんとやっています」という風に世間にアピールしたいのです。「譲れるところは譲ろうじゃないか。割礼を受けていれば迫害を受けないのだとすれば、彼らにも受けてさせればいいじゃないか」。できるだけ世間に対して、波風を立てたくないのです。
これは気持ちとしてわからないでもありません。キリスト教人口が1%にも満たない今日の日本においても似たようなことが起きうるでしょう。そうした時に、私たちがどのようなキリスト教を語っていくのかが問われます。十字架というのは、あるいは十字架と復活クリスチャンではない人々には、つまずきの大きいものでしょう。そうであるならば、私たちは世間に受け入れられやすい十字架ぬきのキリスト教、つまり道徳的、倫理的なメッセージを前面に出したキリスト教を語っていくことになりがちです。「人を愛しなさい」であるとか、「兄弟と仲直りしなさい」とか、「地の塩になりなさい」とか、そういうことだけを語っていれば、「キリスト教もなかなかいいことを言っているじゃないか」と世間に受け入れられやすいということになります。
(3)外面的成果を誇りたい
もう一つ、彼らが割礼を受けさせようとする理由は、13節にあります「あなたがたの肉を誇りたいから」だというのです。「肉を誇る」というのは、これも「世間に対して誇る」ということです。つまり教会のリーダーたちが、自分の仕事として外面的成果を誇りたいということです。彼らも、「自分はこれこれの仕事をした」という目に見える成果が欲しかったのでしょう。洗礼というものが、まだ定着していない時期としては、異邦人を改宗させた、目に見えるしるしが割礼であったのかもしれません。あるいは、ユダヤ教会に対しても「私はあなたたちのやり方に反することはやっていませんよ」。そういう風にアピールしたかった。「自分はこれこれの仕事をしています」と、手柄を誇りたいために、割礼を受けさせるのだ、というのです。
これも実は、今日の牧師であっても、しばしば同じような考えに陥ります。「私の教会では、今年何人の人が洗礼を受けました」。「私がこの教会に来た時は、礼拝出席は何人だったのですが、今では何人になりました」。それがその牧師の実力の証明のようになります。そういう意味では、「昔も今も人間の発想は大して変わっていないなと思います。パウロの批判はそのまま今日の教会、今日の牧師にもあてはまります。パウロは、「そういう考え方は間違っている。それはこの世的な考えだ」と批判するのです。
(4)十字架のみを誇る
そのように、間違ったあり方を指摘したあとで、パウロは次のように語ります。
「しかし、この私には、私たちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この方を通して、世界は私に対し、また私も世界に対して十字架につけられたのです。」6:14
これこそがパウロが最も大事なこととして、ガラテヤの人々に告げたかったことでしょう。大きな字で、肉筆で記した最後の文章の中でも、この言葉は、特に大きく書いたのではないかと想像します。
パウロにとって、イエス・キリストを知るということは、まさしく十字架にかけられたイエス・キリストを知るということでした。イエス・キリストを信じるということは、十字架にはりつけにされたイエス・キリストを信じることに他なりませんでした。イエス・キリストの言葉と行いのすべてが、この十字架の中に集約されているのです。
パウロは、こう言います。彼らは肉を誇ろうとする。しかし私はそうではない。誇るとすれば、キリストの十字架のみを誇る。パウロ自身、肉について、つまりこの世の価値観からすれば、誇るべきものをたくさん持っていました。これについては、パウロ自身が別のところで、もっと丁寧に、もっと熱く語っています。それはフィリピの信徒への手紙3章4~8節です(356頁)。
「とはいえ、肉の頼みならば、私にもあります。肉を頼みとしようと思う人がいるなら、私はなおさらのことです。私は生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義に関しては非のうちどころのない者でした。しかし、私にとって利益であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、私の主イエス・キリストを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失と見ています。キリストのゆえに、私はすべてを失いましたが、それらを今は屑と考えています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。」フィリピ3:4~8
いかがでしょうか。パウロの熱い思いが伝わってきます。パウロも人間ですから、肉について、つまり世間に対して誇りたいと思う気持ちが時に出てくることもあったかもしれません。誇らないと言いながら、ちょっと自慢しているようにも聞こえますが、まあそれはいいでしょう。素直に読んでおきましょう。
(5)パウロの決意表明
ガラテヤ書のほうの「しかし、この私には、私たちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません」という言い方は、一種の決意表明のように聞こえます。つまりパウロ自身、そうした考え方から全く自由ではないけれども、それは間違っているのだ、そうしてはならないのだ、と宣言しているようです。クリスチャンといえども、そのようにこの世に対して、自分を誇ろうとする気持ちがでてくるかもしれない。しかしその瞬間に、私たちは、キリストから遠ざかり始めている。キリストがあってもなくてもよいようなものになり始めている。死んだはずの古い自分が頭をもたげているということなのでしょう。
エレミヤ書9章22~23節にこのような言葉があります。
「主はこう言われる。
知恵ある者は自分の知恵を誇るな。
力ある者はその力を誇るな。
富ある者はその冨を誇るな。
誇る者はただこのことを誇れ。
目覚めて私を知ることを。
悟りを得て、私を知ることを。
私こそ主、この地に慈しみと公正と正義を行う者。
これらのことを私は喜ぶ――主の仰せ。」エレミヤ9:22~23
(6)三本の十字架
パウロはここで、キリストの十字架上に触れながら、別の二つの十字架について語っています。
「この方を通して、世界は私に対し、また私も世界に対して十字架につけられたのです。」6:14
ちょっとわかりにくいかもしれません。世界が自分に対して十字架につけられたということは、先ほどのフィリピの信徒への手紙の言葉がよく説明しています。この世のさまざまなもの、この世において価値があるもの、それがパウロにとっては、もはや価値がなくなったということ、それが自分に対して世が死んだということではないでしょうか。自分はそれを無価値なものとみなしている。いや無価値であるどころか、損失と思うようになったとさえ言うのです。キリストの十字架は、自分にとってそれ程大きな意味を持つものだということを、そのように表現しているのです。
もうひとつ、世界に対して自分が死ぬということは、私自身が古い自分に死ぬということかなと思います。このすぐ後で、大切なのは私自身が新しく造られることです、という風に書いています。「新しく造られる」というのは、天地創造を彷彿とさせる言葉です。新共同訳聖書では「新しく創造される」と訳していました。私たちがそれまでの自分に死に、新しく生まれ変わるということは、神様がこの世界をお造りになった創造に匹敵するような出来事であると言いたいのでしょう。
私はこのパウロの言葉を読むときに、イエス・キリストが十字架にはりつけにされたときの情景を思い浮かべるのです。イエス・キリストの十字架の両側には、二人の強盗がはりつけにされていました。三本の十字架が立っていたのです。このところでも、キリストの十字架を真ん中にして、「世界の私に対する十字架」と「私の世界に対する十字架」、そういう三本の十字架を、重ねて思い浮かべました。
(7)迫害の傷あと
「終わりに、誰も私を煩わせないほしい。私は、この身に、イエスの焼き印を帯びているのです。」6:17
パウロは「焼き印」ということで、何を指していたのでしょうか。パウロは、イエス・キリストの福音を宣べ伝えたがゆえに迫害を受け、その結果として傷あとを身におびていました。パウロは、第二コリント11章24節で、「ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度、棒で打たれたことが三度、石で打たれたことが一度」あったと記しています。実際に、パウロの体にはそのような傷あとがあったのです。その傷あとを指して、パウロは、「イエスの焼き印」と呼んだのではないかと思います。
焼き印というのは、奴隷に対して、あるいは家畜に対して、その持ち主がつけるものです。「これは自分のものだ」という証明のために、そのようにして焼き印をつけるのです。パウロはこの自分の傷あとを、イエス・キリストが自分につけてくださったしるしだと、理解したのです。
パウロの場合には、そのように実際の傷あとがあったわけですが、この「イエスの焼き印を帯びている」というのは、一人パウロにだけあてはまることではなく、クリスチャンのだれでもが身に帯びているしるしではないかと思います。
洗礼を受けることには、二つの意味があります。一つは私たちの側の決断のしるしです。幼児洗礼の場合には、その子の親の決断のしるしです。「私はイエス・キリストに従っていきます」。「私はクリスチャンとして生きます」。あるいは「この子をクリスチャンとして育てます」。そういう決断のしるしなのです。
しかしそれは同時に、私たちの意志を超えたところで、神様が私たちにつけてくださるしるしではなかったでしょうか。私たちがいくら願っても、その時が来なければ、私たちは洗礼を受ける決心をすることができません。しかしながら時を定めて、神様が、そしてイエス・キリストが私たちに「しるし」をつけてくださるのです。「これは私のものだ。他のだれの者でもない。私のものだ」。そのようにして、私たちひとりひとりにしるしをつけてくださるのです。クリスチャンとして生きるということは、自分の決心だけで成り立つものではありません。イエス・キリストのそのようなしるしを身に帯びていることによって、私たちの決心が揺らぐ時にも、あるいは私たちの生き方が揺らぐ時にも、「確かに私は何年何月何日にしるしをつけられたものだ」という事実が私たちの信仰を支え、クリスチャンとして生き抜くことができるのではないでしょうか。
(8)最後に祝福を祈る
「終わりに、誰も私を、煩わさないでほしい。」6:17
ガラテヤの教会はパウロに心配をかけてきましたので、パウロはそのような言い方をしましたが、このことをもう少し一般的な言い方でいうならば、「これからもしっかりとキリストとつながって生きてほしい」ということでしょう。
「きょうだいたち、私たちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にありますように、アーメン。」6:18
最後は、祝祷の言葉で終わります。私たちも、キリストと共にある者として、今後ともそのような祝福を祈りあって、共に歩んでまいりましょう。