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2023年7月16日説教「愛とゆるし」松本敏之牧師

ルカによる福音書7章36~50節 

(1)どこへでも赴くイエス

先ほど読んでいただいたルカによる福音書7章36節から50節は、本日の日本基督教団の聖書日課であります。今日は、この箇所から御言葉を聞いていきましょう。ルカ福音書の7章は、最初に「百人隊長の僕を癒す」という話があり、続いて「やもめの息子を生き返らせる」という話が続きます。この話については、8月の召天者記念礼拝で取り上げる予定です。そして「洗礼者ヨハネとイエス」という話があり、その後本日の「罪深い女を赦す」という話です。このような流れで、一つのテーマとなっているのは、「イエス・キリストとは一体誰なのか」ということです。それについては、また後程、申し上げましょう。

イエス・キリストは、いろんな人の招きに応えて、その食事に連なられました。どんな人の招きにも臆せず応じられました。当時の普通の宗教者はそうではありませんでした。特に、今日のテキストでも出てくるファリサイ派の人々は、「こういう人々は清い人々」、「こういう人々は汚れている」という風に、人を分け隔てしていました。「ファリサイ派」という言葉自身が、「分け隔てる人」という意味であります。そのようにして汚れた人々と交って、自分たちにも汚れが及んでこないようにと、注意していたのです。汚れた人々の代表格は、徴税人たちと娼婦たちでありました。しかしイエス・キリストは、このような当時の社会から排除されていた人々とも交わりをもたれました。

そういうイエス・キリストの行動は、当時の宗教者たち、しかるべき地位の人たちからすれば、秩序をみだすものとして快く思われていなかったことでしょう。その一方で、イエス・キリストがただならぬ不思議な力をもっていることも伝わっていました。先ほど申し上げたルカ福音書7章のテーマ、「イエス・キリストとは一体誰なのか」ということが、この箇所でも基調になっているのです。

(2)ファリサイ派シモンの招き

「さて、あるファリサイ派の人が、一緒に食事をしたいと願ったので、イエスはその家に入って食事の席に着かれた。」ルカ7:36

この直前の34節のところで、イエス・キリストが「大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ」という評判であったことが記されていましたが、ここでも食事に招かれる話であります。ただしここでイエス・キリストを招いたのは、聖書の中では珍しく、「汚れた人々」との交わりを厳しく断っていたファリサイ派の人でありました。後の問答から、このファリサイ派の人はシモンという名前であったことがわかります(ルカ7:10参照)。

当時、巡回する教師(ラビ)を、食事に招くこと(特に安息日に招くこと)は、一つの功績と見なされていました。この直後の8章1節からもわかるように、イエス・キリストは神の国をのべ伝える巡回教師でありました。

このシモンにもイエス・キリストが誰であるか知りたいという興味はあったでしょう。ただ敵意や悪意はなさそうです。イエス・キリストを素直に「先生」と呼び、聞こうとする姿勢がよく表れています。7章16節に記されているイエス・キリストについての評判、「偉大な預言者が我々の間に現れた」(7:16)という評判の真偽を確かめたいという思いもあったのでしょう。その一方で、批判的に距離をおいているような部分も見受けられます。相混ざった気持ちでしょうか。

(3)「罪深い女」の登場

そこに一人の闖入者が現れます。

「この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家で食事の席に着いておられるのを知り」(ルカ7:37)とあります。

「罪深い女」とありますが、どういう罪であったのか、はっきりとは書いてありません。娼婦であったのであろうという解釈が多いのですが、断定もできません。その場にいた人々は、みんな彼女がすぐに「罪深い女」だと悟ったようですから、娼婦でなかったにしても、彼女が「罪深い女」であったということは町の人の共通認識であったと思われます。あるいは服装で、そのように見たのかもしれません。

敬虔なファリサイ派の人々にとっては、そのような人間が自分の開いた食事の席に現れたこと自体が許し難い行動であったに違いありません。この場の客人たちも軽蔑のまなざしで彼女を見たことでしょう。しかしこの食事の主人であるシモンは、何も言わずに、イエス・キリストがどうされるかを見守るのです。彼女は、まっすぐにイエス・キリストのもとへ来ました。

「香油の入った石膏の壺を持って来て、背後に立ち、イエスの足元で泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛で拭い、その足に接吻して香油を塗った。」ルカ7:38

彼女が、なぜここに来たのか、何かに駆られてこのような行動に出たのか、なぜ泣いているのか等について、ルカは何も書いていません。名前も記されていません。

この当時の食事というのは、床に敷物をしいてその上に食事を並べ、肘をついて、半分寝そべったような形で、とったようです。今の日本人の常識からすれば、少し行儀が悪いということになるでしょう。彼女が背後から近づいて云々というのは、突飛な行為ではありましたが、姿勢としてはありうることでした。

彼女は周囲の目におどおどした様子もなく、こんなことをしてよいのかという思いもなさそうです。場をわきまえない無礼を恥じる気持ちもない。ただキリストへの思いを、今表さなければいられない情熱に突き動かされているようです。そしてただ泣いている。

(4)イエス・キリストとの出会い

彼女は、すでにどこかでイエス・キリストと出会っていたのでしょう。それまでは身も心も汚れて死んでいた。途方にくれていた。しかしイエス・キリストとの出会いによって変わった。死につながれていたのが生命を得た。前を向くことすらできなかったのが、上を見上げることができるようになった。祈ることすらできなかったのが、感謝することができるようになった。

彼女の眼から涙があふれ出ました。その涙がぽたりとイエス・キリストの足の上に落ちました。彼女はそれを失礼なことと思ったのでしょうか。自分の髪の毛であわててそれを拭い、その上にキスをするのです。

(5)周囲の反応

彼女は、もってきた石膏の壺から香油を流して、イエス・キリストの足に塗りました。もしも彼女が娼婦であったとすれば、それは彼女の商売道具であったかもしれません。それを自分のために用いたか、あるいは客が来た時のもてなした道具であったか。それをイエス・キリストのために注ぐということは、今後、そういう生き方をやめるという決意が含まれていたのかもしれません。

イエス・キリストは、彼女の好意を喜んで受けられました。「何をするんだ。ここから出て行け」とはおっしゃらなかった。ファリサイ派の人々もその様子をじっと見守っています。というよりも様子を伺っています。

「この人がもし預言者なら、自分に触れている女が誰で、どんな素性の者か分かるはずだ。罪深い女なのに。」ルカ7:39

この家の主人シモンは、この時、イエス・キリストがなされるがままになっていることにためらいを覚え、「この人はやはり預言者ではない」と思い始めているようです。彼には、この女性のひたむきな気持ちはわからないようです。イエス・キリストに対する喜びや感謝の気持ちから遠いところにいるのでしょう。「この人には期待できない。この女の正体をすら見抜くことができないでいる。」

彼は、自分にも確かに罪はあるかも知れないけれども、彼女ほどには、あるいはあの連中ほどには悪くないと信じることで、自分を保っています。相対的に見れば自分はましな方だ。私たちクリスチャンの中にも、同じような思いがあるのではないでしょうか。「自分にも罪はあるけれども、ああいった人たちほどではない。」

(6)イエス・キリストの応答

そこでイエス・キリストは、初めて口を開いて、あるたとえを話されるのです。

「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。」ルカ7:41

1デナリオンというのは、当時の労働者の一日の賃金であったと言われます。仮に五千円だとすれば、五十デナリオンは二十五万円。五百デナリオンは二百五十万円になります。もうちょっと高いかもしれません。仮に1万円だとすれば、五十万円と五百万円です。

「ところが、返すことができなかったので、金貸しは二人の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。」ルカ7:42

わかりやすいたとえだと思います。シモンも、「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」(7:43)と答え、イエス様も、「あなたの判断は正しい」と言われます。そして彼女のほうを指して、こう言われるのです。

「この人を見ないか。私があなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水をくれなかったが、この人は涙で私の足をぬらし、髪の毛で拭ってくれた。あなたは私に接吻してくれなかったが、この人は私が入ったときから、私の足に接吻してやまなかった。あなたは頭に油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、私に示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」ルカ7:44~47

このシモンが本来、ホスト(主人)としてなすべきこと(それは通常は召し使いにさせることですが)をしなかったが、彼女はそれ以上のことをしてくれたというふうに対比されます。

シモンは信仰をもっていました。そしてイエス・キリストを半信半疑であるかも知れませんでしたが、何かしらメシアとして期待をしていました。しかしこの女性に対しては、いわゆる「上から目線」で、罪の女として退けようとする思いがありました。

イエス・キリストは、そのシモンとは全く違う形で、愛をもって彼女を見つめ、彼女を受け入れ、彼女を生かす。そうした道を示されたのであります。

パウロは、有名な愛の賛歌の中でこう語っています。

「たとえ私が、預言する力を持ち、あらゆる秘儀とあらゆる知識に通じていても、また、山を移すほどの信仰を持っていても、愛がなければ無に等しい。」コリント一13:2

まさにシモンに求められていたのは、この「愛」ではなかったでしょうか。彼女は、自分が赦されたということから、自分にできる限りの、また自分にできる形での愛を、イエス・キリストに示したのです。

イエス・キリストは、この女性に「あなたの罪は赦された」(7:48)と言われます。同席の人たちは、「罪まで赦すこの人は、一体何者だろう」(7:49)と考え始めました。「イエス・キリストとはいったい誰か」という7章を貫くテーマが、ここにも現れています。

(7)彼女はどこへ行けばよいのか

最後にイエス・キリストは、この女性のほうを振り向いて、こう言われました。

「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」7:50

皆さんは、この言葉をどう思われますか。私たちは信仰をもってイエス・キリストに従います。しかし私の信仰が私を救うのであれば、不安になってしまうのではないでしょうか。牧師といえども、自分の信仰の将来についてはわかりません。不安に満ちているものです。私は、「私の信仰が私を救う」のではなくて、むしろ救いの権威をもつイエス・キリストがそう宣言してくださったことの中に意味があるのだと思います。つまり「あなたの信仰があなたを救った」という言葉の内容ではなくて、イエス・キリストがそういうふうにおっしゃってくださっている事実の中にこそ意味があり、安心があるのです。そしてまさにそのお方が、「安心して行きなさい」と言ってくださるのです。

私たちは礼拝に来て、イエス・キリストの赦しと平安の宣言を聞いて、再び自分の持ち場へと帰って行くのです。

ただしこの女性は、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われても、一体どこへ行けばいいのでしょうか。彼女には行く場所、帰る場所があるのでしょうか。また冷ややかな目線の中を通り抜けていって、ひとりぼっちに生きるのでしょうか。仮に娼婦だったとして、自分の商売すらもやめてしまったとすれば、一体この先どのように生きていけばいいのでしょうか。

私は、この言葉の中に、「安心して行きなさい」という言葉の中に、暗に、教会というような共同体が想定されているのであろうと思います。彼女が出て行った時に、彼女を受けとめる共同体が想定されているのです。そうでないと、この言葉は空しく響きます。その意味でこの言葉は、まわりにいた、彼女以外の人にも向けられているのです。同時に、今を生きる私たちにも迫ってきます。

私たちは、自分自身の罪を赦された者として、教会という信仰共同体の一員となっていますが、「あなたがたは、こういう人も受け入れてあげなさい」ということを、裏側から示されているのではないでしょうか。「彼女が安心して生きられるように、受け入れ、助けてあげなさい」。

そのようにして新しい関係が始まっていくのです。イエス・キリストと私たち、イエス・キリストとこの女性の関係だけではなく、そこではイエス・キリストを頂点とする三角形の共同体が隠されている。すべての人が受け入れられるべき共同体が隠されているのだと思います。

実は、私たち自身も罪人です。私は五十デナリオン、あの人は五百デナリオンと思うかも知れません。このシモンもそう思ったことでしょう。しかし本当は一人一人、みんな五百デナリオンの借金をゆるしていただいているのではないでしょうか。それに気づいていないだけです。それに気づく時に、ゆるしの大きさを悟り、そこからまたイエス・キリストのように、愛に生きる共同体を形成するようにと促されるのではないでしょうか。

私たちの教会、信仰共同体も、そのようにイエス・キリストの愛にならって、共に生きる共同体でありたいと思います。

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