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2021年5月30日説教「著者の思い」松本敏之牧師

ヨハネ福音書20章30~31、21章24~25節

(1)聖書通読の追いつき方

鹿児島加治屋町教会の聖書日課、4月1日から、マルコ福音書、ローマの信徒への手紙、ヨハネ福音書と読み進めてきました。ヨハネ福音書もいよいよ終わりに近づいています。明日の20章と明後日の21章で終わりです。皆さんは一緒に読み進めていらっしゃいますか。「いいえ、やっていません。始めましたけど、続きませんでした」という方に、これからでも間に合う二つの方法をお話します。まずは、聖書日課表を入手してください。公式鹿児島加治屋町教会のホームページからダウンロードできます。あるいは教会に問い合わせくださっても結構です。

まず完璧主義のあなたは、明日、明後日のヨハネ福音書の終わりをウォーミングアップとして、水曜日の第一コリントから合流してくださるとよいかと思います。最後まで行ったら、またマルコ福音書に戻りますので、ヨハネ福音書の2巡目で読み終えることができます。これから「マルコ福音書にさかのぼってやり始めよう」というよりはハードルが低いのではないでしょうか。

次に、完璧主義ではないし、今後もいい加減になることが予測されるあなたは、それでも聖書日課表を用意してください。そして読んだところだけを塗りつぶしていけばどうでしょうか。そうすると、とびとびに印がつくことになるでしょうが、2巡目になった時に、1巡目の時に抜かしたところを中心に読んでいけば、完読できると思います。少しずつ、塗りつぶす快感を味わえるかもしれません。

私がやっているように、聖書そのものに鉛筆で日付を入れていくのもよいと思います。聖書日課表の紙を無くすことがあっても、聖書を無くすことはめったにないでしょうから、自分史のひとつの記録になると思います。

(2)ヨハネ福音書の「あとがき」

さて、今日は、明日と明後日の聖書日課の部分から、ヨハネ福音書の20章の終わりと、21章の終わりの短い言葉をお読みしました。21章は、ヨハネ福音書の元来の著者とは別の、編集者が書いたもの、「後代の付加」であると言われます。本来のヨハネ福音書は、20章30~31節で終わりとなります。ここに、聖書協会共同訳や新共同訳聖書では、「本書の目的」という題がつけられていますが、これはいわば「あとがき」のようなものです。

私たちは、新しい本を手にした時、「あとがき」から読み始めることが多いのではないでしょうか。「一体、何のためにこの書物は記されたのか。」「どういう風に読んでもらいたいのか。」「あとがき」には、そういうことがしばしば記されます。「まえがき」に、それが記されることもあります。

ルカによる福音書では、1章3~4節のところで、次のように記されています。

「敬愛するテオフィロさま、私もすべてのことを初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈するのがよいと思いました。お受けになった教えが確実なものであることを、よく分かっていただきたいのです。」(ルカ1:3~4)

ヨハネ福音書の場合には、著者は、「初めに言があった」という荘重な序文から書き始めましたので、最後のところで、その率直な思いを述べたのでしょう。20章31節にこう記しています。

「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じて、イエスの名によって命を得るためである。」(20:31)

(3)聖書自身が求めている聖書の読み方

この言葉は、二つのことを述べています。一つは、「あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるため」ということです。メシアというのは、「油注がれた者」という意味のヘブライ語ですが、ギリシア語では「キリスト」です。「救い主」を示す称号と言ってもよいでしょう。「ぜひイエスが神の子であり、キリスト、救い主であることを信じて欲しい。」そこにこそ著者の執筆意図があり、そこにこそ著者の願い、祈りが込められているのです。

書物には、いろいろな読み方があります。最初から「あら探し」を目的にした意地悪な読み方もあるでしょう。審査員が審査するために書物を読むこともあるでしょう。大学の先生が博士論文を読んだりする時は、採点をしながら読むでしょう。私は書評を書くために、しばしば本を読みますが、その時は、できるだけその本の魅力を探し出すようにして読みます。牧師の悪い癖は、「これは、説教に使えそうだ」という動機で読むことです。しかし書物というのは、本来、著者が執筆した動機、意図というものがあり、それに沿って読むのが本来的な読み方であると思います。

聖書もいろいろな読み方がなされます。さまざまな分野の専門家がそれぞれの視点で読む。聖書くらいの書物になると、さまざまな研究の材料・対象にもなります。歴史学者は歴史学者の立場で、文学者は文学者の立場で読みます。建築学者、動物学者、植物学者、服飾の専門家、食べ物の専門。もちろん神学者の場合には、さまざまな神学的の立場で読みます。ユダヤ教の神学者とキリスト教の神学者でも違うでしょう。他宗教の学者はそれぞれの宗教の立場で、無神論者は無神論者の立場で、聖書を読みます。それはそれでよいいのです。当然、許されることです。聖書は奥が深い書物です。

しかし聖書には聖書そのものが求めている本来的な読み方というのがあるのです。著者は一体何のために、これを書いたのか。ヨハネ福音書の場合は、「あなたがたが、イエスは神の子メシアであることを信じるため」というのです。

福音書というのは、単なるイエス・キリストの伝記ではありません。福音書は、イエス・キリストの言葉と業を記したものですが、内容的にも、時間配分の上でも大きな偏りがあります。最後の受難と復活に集中しているのです。ヨハネ福音書は、特にそうです。13章からすでに、十字架にかかられる前夜の物語であります。分量的には、福音書全体の半分近くがそれに当てられています。そのようにして、イエスが神の子であることを告げようとするのです。

それは、福音書だけではなく、新約聖書全巻に共通することでもあります。どの著者も、メッセージの強調点こそ違っても、ひとつのことを指し示しています。それは「イエスこそは神の子キリストである」ということです。ですからそう読むことが、聖書そのものが求めている読まれ方であり、それが聖書を「聖書」として読むということなのです。一旦は、批判的対象、研究の対象としながらも、最終的にその研究がその一点に仕えているかどうか、それが鍵となるでしょう。

もちろん、新約聖書と旧約聖書では、事情が少し違います。新約聖書は、直接的に「イエスが神の子キリスト、救い主である」ことを告げますが、旧約聖書はそうではありません。イエス・キリストという名前は全く登場しません。しかしそれでも、私たちクリスチャンは、旧約聖書も間接的にイエス・キリストを指し示している、イエス・キリストが預言されている、と読むのです。逆に言えば、旧約聖書で指し示され、待ち望まれたメシア(救い主)こそがイエス・キリストであったということです。そのことがユダヤ教の人たちと私たちクリスチャンの旧約聖書の読み方の違いと言ってもよいでしょう。

(4)イエスの名によって命を受けるため

「イエスは神の子メシアであると信じる」ことには、さらに、究極の目的があります。それは、「信じて、イエスの名によって命を受けるため」ということです。そのことに促されて、ヨハネ福音書の著者は、この書物を書きました。

「命を受けること」は、永遠の命そのものであるイエス・キリストに連なることであり、そのためにこそ、イエスが神の子メシアであることを明らかにしようとしたのです。そこには、これを読む人の救いに対する熱い思いがあります。それは、ヨハネ福音書に限らず、聖書の他の書物にも通じることです。

使徒パウロは、こう言っています。パウロも、ひとが救われることへの強い情熱を持っていた人です。

「私は、誰に対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷となりました。より多くの人を得るためです。ユダヤ人には、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。……律法を持たない人には律法を持たない人のようになりました。律法を持たない人を得るためです。弱い人には、弱い人になりました。弱い人を得るためです。すべての人に、すべてのものとなりました。ともかく、何人かでも救うためです。福音のために、私はすべてのことをしています。福音に共にあずかる者となるためです。」
(Ⅰコリント9:19~23)

この熱意です。この熱意が、伝道者を動かし、聖書の著者たちを動かしていったのです。

(5)神の熱意が著者たちを動かした

しかし私は、そこにもう一つ深い配慮があったことを思わざるを得ません。言い換えるならば、そのように聖書の著者の熱意を促したものは、一体、何だったのかということです。そこには、直接の著者を超えた、もう一人の著者、と言いますか、誰かを動かして、福音書や手紙を書かせた方、すなわち神様の熱意があるのではないでしょうか。その方の思いが真実であればこそ、それに促されて聖書を記した人の思いも真実なのです。

そこには、ただ単にこの福音書の目的だけではなく、神様の大きなご計画の目的があります。その目的のためにこそ、御子イエス・キリストは、遣わされたのだと言えるでしょう。ヨハネ福音書は、それを次のように述べていました。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」(ヨハネ3:16)

この神様の熱意が、ヨハネ福音書の著者の熱意へとなだれ込んでいると言えるでしょう。私たちもこの熱意を受けとめ、イエスの名によって命を得たいと思うのです。

考えてみますと、牧師も、ただこの一事のために、説教を語っているのです。説教というのは、ただひとつ、イエスが神の子、救い主であることを指し示すものです。それがなければ、どんなに有益な話がなされても、あるいはどんなに面白い話がなされても、説教とは言えないでしょう。説教も「イエスは神の子メシアであることを信じるため」、そして「信じて、イエスの名によって命を受けるため」に仕えるものなのです。

(6)著者は誰か

ところで、この著者とは一体誰であったのか。これは、5月9日にもお話しましたが、そう簡単な問いではありません。伝統的には、「イエスの愛しておられた弟子」(13:23、19:26、20:2)が、ヨハネ福音書の著者であるとされてきました。しかし聖書学者たちの研究によれば、イエスの愛しておられた弟子(恐らくヨハネ)が、この福音書を書いたとするのは、年代的に見ても、他の点でもかなり無理があるといいます。それ故にこの福音書の著者は、イエスの愛しておられた弟子を特別視する教会の中の、無名の誰かであろうと言われています。

また、先ほど申し上げたように、最後の21章は後代の付加であると言われていますが、この21章7節にも「イエスの愛しておられた弟子」が出てきます。そして21章の筆者は、21章24節のところで、「これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である。私たちは、彼の証しが真実であることを知っている」と述べるのです。「これらのこと」とは、そこまでの福音書全体(1~20章)と読むのが自然でしょう。ですから、これは、ヨハネ福音書元来の著者以外の人(編集者)の手による、もう一つの「あとがき」と言えるでしょう。

(7)書き切れない程の恵み

20章30節には、こう記されています。

「このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。」(20:30)

「自分はイエス・キリストの言葉とわざ、そして不思議なしるしをすべて書き記すことはできない」という無力な思いであったのでしょうか。むしろ、「イエス・キリストのなさったことは、とてもここに収まりきれない程の恵みに満ちた、あふれ出る程のものだ」という喜ばしい思いでありましょう。21章の筆者も、同じようなことを、もっとスケールの大きな表現で語っています。

「イエス・キリストのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。私は思う。もしそれらを一つ一つ書き記すならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう。」(21:25)

すごい言葉ですね。イエス・キリストのなさったことは、世界よりも大きいというのです。私は、これは決して誇張ではないと思います。イエス・キリストのしるし、イエス・キリストのわざは、私たちのところまで脈々と連なっております。そのことを思う時に、このヨハネ福音書の言葉は、時代を超えて、私たちに実感として響いてくるのではないでしょうか。イエス・キリストが2000年前より今日までになさったこと、それはとても、とても数え切れないものであります。

それは、私たちのこの鹿児島加治屋町教会の歴史においても同じことが言えるのではないでしょうか。私たちは、6月に創立143周年を迎えますが、そこにあらわされた神様の恵みは、どんな大きな本を作ろうとも納めきれないものであると思います。

また今日は5月召天者記念の祈りの時を持つ予定でした。オンライン礼拝によって、それができなくなりましたが、先に天に召された方々を通して、証しされた神様の大きな恵みを思い起こしたいと思います。そうしたこと、そのような方々を通してれによって、私たち自身がイエス・キリストの永遠の命に連なることを、神様ご自身が求めておられるのでます。

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