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2021年4月25日説教「キリストの真実」松本敏之牧師

ローマの信徒への手紙3章20~28節、5章1~5節

(1)聖書日課

4月から、聖書日課に即して、聖書を通読しようと呼びかけていますが、最初の「マルコによる福音書」が終わり、先週4月20日から第二の書物「ローマの信徒への手紙」に入りました。今後日曜日の礼拝説教でも、月に一度の「出エジプト記による説教」を除いて、できるだけその日曜日前後の聖書日課を取り上げて説教するようにしたいと思っております。またその書物についての全体的なこと、概説的なことや、聖書協会共同訳で訳が変わった点なども、あわせてお話しできればと思います。

聖書を通読するにあたって、それぞれの文書について簡単に説明したような本がないかと思って探していました。ないと思って、ほぼあきらめかけていましたが、ちょうどよいものがありました。日本聖書協会発行の『はじめて読む人のための聖書ガイド』という1,320円の小さな本です。教会でも何冊か取り寄せておこうと思います。この本は「新共同訳聖書」に準拠したものですが、「聖書協会共同訳」の通読に際しても十分役に立つでしょう。特に旧約聖書には難解なものもありますので、手元に置いておかれるとよいと思います。

(2)ローマの信徒への手紙

さて今日は、ローマの信徒への手紙について、少しお話しいたしましょう。

ローマの信徒への手紙は、パウロという人物によって書かれたものです。冒頭に、「キリスト・イエスの僕、使徒として召され、神の福音のために選び出されたパウロから-」とある通りです。

この手紙は、パウロがこれからローマに行くに際して、ローマの教会の人々に対して、前もって信仰的な自己紹介をするために書いたものと言われています。パウロの手紙の中で最も詳細に、イエス・キリストの福音について述べられています。手紙であると同時に、一つの神学論文とも言えるものです。事実、後代の神学者たち、ルターやカルヴァン、20世紀ではカール・バルトといった人は、これを一つのモデルにして神学を展開していると言ってもよいほどです。

大きく言えば、1~8章はキリスト教の教え(教義)が述べられている。教義というのは、「私たちは何を信じるのか」ということです。12章から16章はキリスト教の倫理が述べられている。倫理というのは、「私たちはいかに生きるか」ということです。難しい言葉で言えば、「教義学」と「倫理学」、「何を信じるか」ということと、「いかに生きるか」ということが対になっているのです。そしてその中間の9章から11章は、壮大な間奏曲のようなものです。テーマは「イスラエルの運命について」です。この9~11章については、次回、5月2日にお話しいたします。

(3)律法を守ることによっては誰も義とされない

さて、今日はローマの信徒への手紙前半の中で、特に注意したい言葉について語りたいと思い、3章20~28節と、5章1~5節をお読みいたしました。

ローマの信徒への手紙3章21節から31節までは、「人は行いによってではなく、信仰によって義とされる」ということを高らかに宣言した箇所として知られています。事実、その通りです。宗教改革者のルターも、この言葉に注目し、宗教改革の3本柱のひとつ「信仰のみ」という教義の根拠ともなりました。しかし私たちは自分の信仰によって自分を正しい者とすることはできませんので、私は「『信仰のみ』というのは、『恵みのみ』ということと同じだ」といつも補足説明してきました。

ちなみに20節までで、パウロが述べていたことは、「人は律法を守ることによっては誰も義とされない」ということでした。「義とする」というのは聖書の中のわかりにくい言葉、概念の一つでしょう。「正しい者と認める」というような意味です。正しい者として生きるようにと、神様はモーセを通して律法を与えられました。その最もまとまった形は十戒であると言ってもよいでしょう。しかしその律法を完全に遂行できる人間などいないのだから、律法によって得られるのは「それを守り切ることはできない」という罪の自覚だけだと言うのです。次の20節の言葉がそれをまとめて語っています。

「なぜなら、律法を行うことによっては、誰一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。」(3:20)

それだけだと、「誰も義とされない。誰も救われない」で終わってしまいそうですが、次の21節で大逆転が起こるのです。

「しかし今や、律法を離れて、しかも律法と預言者によって証しされて、神の義が現わされました。」(3:21)

(4)キリストへの信仰か、キリストの真実か

そう述べた後、こう宣言いたします。

「神の義は、イエス・キリストの真実によって、信じる者すべてにあらわされたのです。」(3:22)

この大事な言葉、これまでの翻訳と大きく違っていることにお気づきでしょうか。

新共同訳聖書では、こう訳されていました。

「すなわちイエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です」(3:22、新共同訳)。

「神の義は、イエス・キリストを信じること」つまり、「イエス・キリストへの信仰によって与えられる」とされていたのが、新しい翻訳では「イエス・キリストの真実によって与えられる」と変わったのです。びっくりいたしました。そして私は「よくやった」と思いました。「イエス・キリストへの信仰」と訳すか、「イエス・キリストの真実」と訳すか。これは文法的にはどちらも可能なのです。

「信仰」と「真実」では随分違うように思えます。英語でも「faith」と「truth」では随分違います。しかし元のギリシア語では、「ピストゥス」というひとつの言葉です。「ピストゥス・イエスー・クリストゥー」と書いてある。

確かに、後半の27節から31節の文脈の中では、パウロが「人は信仰によって義とされる」、つまり「人は律法を行うことによってではなく、ただイエス・キリストを信じる信仰によって義とされる」ということを述べています。それは28節で、「人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです」と述べている通りです。

しかしその前の21節から26節では、神の義は、キリストの恵みによって無償で与えられるということを語っています。それは私たちの信仰に先立つものでしょう。ですから、ここでは、神の義は私たちの信仰によってではなく、キリストの真実によって与えられるという訳のほうがふさわしいと、私も思います。

聖書協会共同訳では、段落の小見出しも二つに分けました。新共同訳聖書では3章21節から31節まで全体が一つの段落になっていて、「信仰による義」という小見出しが付けられていましたが、聖書協会共同訳では、二つの段落に分けて3章21節から26節に「神の義が現わされた」という小見出しを付け、27節から31節に「信仰による義」という小見出しを付けております。

(5)私たちの信仰生活に即して

実際に私たち自身の信仰に即して考えてみても、今回の翻訳のほうがふさわしいのではないでしょうか。「信仰によって義とされる」と言います。あるいはそれを「信仰によって救われる」と言い換えることもあります。しかしよく考えてみてください。私たちは自分の信仰によって救われるのでしょうか。もしもそうだとすれば、私が「もう信じるのはやめた」と言えば、「義とされない」ことになってしまいかねません。それでは私の救いも不確かなことになってしまわないでしょうか。「ただイエス様を信じるだけでよいのです」とよく言います。しかしそのハードルが高いのです。そうではなく、私の信仰以前に、キリストの真実があり、そのキリストの真実が私を義とするのであり、そのキリストの真実が私を救ってくれるのです。そこではじめて救いの確かさが出てきます。

実は、この3章22節の翻訳は、どちらがよいのか、随分古くから議論されてきたことでした。多くの注解書や聖書の註の部分では、「イエス・キリストへの信仰」の部分で「イエス・キリストの真実」と訳すことができる、と書いていますが、実際にそれを聖書本文に入れたのを、あまり見たことがありません。今回も、日本語、英語、ポルトガル語の10種類以上の聖書を見ましたが、「イエス・キリストの真実」と訳している聖書はありませんでした。唯一、田川建三という人の個人訳が「イエス・キリストの信による」(信仰の「信」)と訳していました。日本語としてはちょっと無理があるように思いますが、どちらとも取れる直訳に近い訳にしたのでしょう。

その意味で、この協会共同訳は画期的な翻訳であると言えます。聞くところに寄ると、翻訳委員会で多数決をした結果、僅差で「イエス・キリストの真実」になったとのことでした。私は「よくやった」と思いました。これで「安心して死ねる」というのはちょっと大げさですが、そんな感じもいたします。

(6)「練達」から「品格」へ

さて、ローマ書前半でもうひとつ注目したいのは、5章最初のほうの言葉です。

3節から読みますと「そればかりでなく、苦難をも誇りとしています。苦難が忍耐を生み、忍耐が品格を、品格が希望を生むことを知っているからです」とありました。ここでこの度「品格」と訳された言葉は、これまでの新共同訳聖書では「練達」という言葉でした。それはその前の口語訳でも、さらにさかのぼって文語訳聖書でもそうでした。一つの定着した訳と言ってもよいでしょう。しかし「練達」という言葉は、今日ではほとんど使いません。私自身、中学生の頃だったでしょうか。聖書で初めて「練達」という言葉を見て、どういう意味かと辞書で調べたりしました。しかも「練達の士」とかいう使用例を見ると、聖書で使ってある意味と少し違うように思いました。この言葉、前から何とかならないかなと思っていましたので、この度、「品格」になってよかったと思います。しかしそれでもそれがまだどういう品格なのか、わかりにくいところもあります。

「苦難が忍耐を生む」。これはよくわかります。その忍耐が「何か」を生んで、その「何か」が希望を生むというのです。ですから、忍耐が希望を生むと言ってもよいのですが、その中間にある「何か」をどう訳すか。これは日本語でも英語でもみんな苦労しているようです。これはもともと「ドゥキメー」というギリシア語ですが、直訳すれば「保証」というような意味です。さきの田川建三訳ではそのまま「保証」と訳しています。岩波書店版の聖書もそれに近く、「確証」と訳しています。

ちなみに英語の聖書でも、proof, approval, character, tested character など、さまざまな訳がありました。

また日本語聖書でも、さきの岩波書店版の他にもいろいろと見てみました。新改訳聖書は「品性」と訳しています。なかなかよい訳だと思います。柳生直行という文学者の個人訳では、さらに「品性」に一言付け加えて、「神に嘉(よみ)せられる品性」となっています。またフランシスコ会訳でも、やはり一語で訳すのをあきらめて、「試練に磨かれた徳」となっています。私は、「試練に磨かれた徳」という訳が好きです。英語のtested character はこれに近いかもしれません。

今回の聖書協会共同訳では「品格」になりましたが、フランシスコ会訳のように補足するとすれば、「試練に磨かれた品格」とすれば、どういうものであるか、よりはっきりするかもしれません。もっとも「品格」というものは、忍耐や試練によって磨かれてこそ、できあがってくるものだとすれば(つまり忍耐や試練に磨かれていない品格などないとすれば)、あえて「試練に磨かれた」という必要もないかもしれません。新改訳聖書の「品性」という言葉は、これに近いのですが、試練によってできあがるというよりは、その人の出自などによって(たとえば貴族とか)、生来備わったものというニュアンスがあるように思いますので、それよりは「品格」のほうが、この場合、ふさわしいように思いました。

(7)コロナ禍にあって忍耐する

私たちはコロナ禍にあって、今まさに、このパウロが述べたプロセスの経験をしていると言えるのではないでしょうか。かつてないほど、日本全体が、そして世界全体が苦難を負っています。そして忍耐を強いられています。しかしその忍耐から、品格が生まれてくるのです。試練と忍耐によって磨かれた品格と言ってもよいでしょう。そしてそこから確かな希望が生まれてきます。それは裏切られることのない希望です。なぜなら、そこには聖霊によって、神の愛が注がれているからです。そのことを信じて、忍耐の時を耐え抜いていきましょう。

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