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2022年6月26日説教「分 担」松本敏之牧師

出エジプト記18章13~27節 使徒言行録6章1~7節 

(1)多忙な生活

今日私たちに与えられた出エジプト記18章の物語は、いわば働き盛りのモーセが何でもかんでも自分でやろうとして、過労で倒れる寸前の状態になっていた、という興味深い話であります。

私も東京にいた頃、結構、いろいろな仕事を抱え込み過ぎて、身動きが取れないような状況でした。それらを振り切って鹿児島に来て、一旦すべてリセットして、少し時間にゆとりができました。ただ鹿児島で長くなりますと、再びさまざまな役を引き受けるようになってきています。コロナ禍の間は仕事も少なめでしたが、今年度に入って、再び出張も増えてきました。

忙しくて身動きが取れない時というのは、本当はペースダウンしなければならないのでしょうが、なかなか自分ではそれができませんし、そういう状況に陥っていることも、自分では気づかないことが多いものです。何でも自分でやらないと気がすまなくて、抱え込んで、結局自滅してしまったり、ということがよくあると思います。そういう時に、尊敬する先輩、年長者から、冷静な立場で、ちょっと助言をされると、「そうか、そんなにがんばらなくていいんだな」と、何か呪縛から解き放たれたような感じがすることもあります。

モーセもそういう状況に陥っていたということを、このエピソードから推察することができます。

(2)家族と再会したモーセ

17章において、モーセたち出エジプトの一行はアマレクの人々から攻撃を受けましたが、何とかそれを逃れることができたということが記されていました。今度はミディアン地方かあるいはその近くまでやってきています。ミディアン地方は、かつてモーセがエジプトから逃れて一時避難していた場所でありました。そして後に妻となるツィポラと出会い、長男ゲルショムが生まれ、しゅうとエトロ(別名エウレル)の羊飼いの仕事を手伝っていました。その時に、燃える芝の中から呼びかける声を聞き、エジプトに戻る決心をした場所でありました。

ミディアン地方では、アマレクとは違って、一行は攻撃されることはなく、温かく迎え入れられました。エトロの娘婿だとわかっていたからでしょうか。

モーセはこの妻のツィポラをミディアン地方の実家へ里帰りさせていました。なぜかは書いてありません。そして今、彼女の父親、つまりモーセのしゅうとであるエトロが娘のツィポラと二人の孫を連れてモーセを訪ねてきたのです。長男はゲルショムという名前でした。「私は異国で寄留者となった」という意味です。次男の名前は、エリエゼルでした。「私の神は助け」という意味です。両方とも、モーセのこれまでの歩みをよく表している名前です。

エトロが「あなたのしゅうとである私エトロは、あなたの妻とその二人の息子を連れて来ました」(6節)と伝えますと、モーセは出てきて、ひれ伏し、そして口づけしました。恐らく「お久しぶりですね」などと言ったのでしょう。安否を尋ね合いました。モーセはこれまで自分たちが経験したさまざまなこと、エジプト脱出以来の大きなドラマを、エトロに報告いたしました。途中であらゆる困難に遭遇したけれども、神様がイスラエルの民を救い出されたことを証しいたしました。

モーセとエトロは再会を祝し、神様に捧げ物をして、神様の御前で食事を共にいたします。このエトロの方も、神様と人々の間に立って執り成しをする祭司でありました。もちろんヤハウェの神の祭司というのではありませんが、いわばモーセと同職種の先輩であったわけです。ただしもう隠居の身分であったでしょう。

(3)しゅうとエトロの助言

その翌日のことです。モーセには久しぶりに再会した家族とゆっくり過ごす時間などありません。モーセに面会を求めて、大勢の人々が列を作って待っていました。モーセは朝から夕方まで彼らの話を聞いて、その裁きをしていました。それを傍らで見ていたエトロはたまりかねて、こう言うのです。

「あなたが民のためにこうして行っていることは何ですか。どうしてあなた一人が座に着いて、民は皆朝から夕方まであなたのそばで立っているのですか。」(18:14)

モーセはしゅうとエトロにこう答えました。

「民は、神に尋ねるために私のところに来るのです。彼らに問題が起こると、私のところにやって来ます。私は双方の間を裁いて、神の掟と律法を知らせます。」(18:15~16)

エトロはさらにこう言いました。

「あなたのやり方は良くない。あなたも、一緒にいるこの民も、きっと疲れ切ってしまう。これではあなたに負担がかかりすぎ、一人でそれを行うことはできない。」(18:18)

ありとあらゆる問題がモーセのところに持ち込まれていました。そこには人生相談のようなこともあったでしょう。隣の人とのいざこざ、家庭内の問題、何でも「神に問うために」モーセのところへやってきました。今日で言う民事訴訟の事柄と宗教的事柄が未分化の状態で、すべてをモーセが一手に引き受けていたのでしょう。

エトロは「さあ、進言するので、私の声に耳を傾けなさい」(18:19)と言って、次のような提案をしました。

「あなたは、すべての民の中から、有能な人、神を畏れる人、誠実な人、不正な利得を憎む人を選び出し、千人隊の長、百人隊の長、五十人隊の長、十人隊の長として民の上に立てなさい。ふだんは彼らに民を裁かせ、大きな問題が生じたときだけ、あなたのところに持って来させ、小さな問題はすべて、彼らが裁くのです。こうしてあなたの負担を軽くし、彼らもあなたと共に分担するのです。もし、あなたがこのやり方を実行し、神があなたに命じてくださるなら、あなたはその任に堪えることができ、この民も皆、安心して自分の場所に帰ることができるでしょう。」(18:21~23)

モーセはエトロの進言を受け入れ、言われるとおりにしました。そしてエトロは自分の地へ帰っていきました。そういう話です。

(4)仕事の組織化、分業化

このエピソードは、いろいろな意味でおもしろいものです。

ひとつには、歴史的な意味で興味深いと思います。最初はモーセによるワンマン組織であった出エジプトの共同体が、だんだんと組織化されていくのです。それがどのような形で、あるいはどのような動機でなされたかということを語っているからです。もちろんここまで秩序だった組織ができるのは、本当はもっと後の時代のことであると思います。またこのところでモーセはエトロに「神の掟と律法を知らせます」と言っていますが、この時点ではまだ神の掟の基本である十戒も与えられていません。次の19章で、シナイ山に登り、20章で十戒が与えられます。

ですからもっと後の時代、つまりこれが書かれた当時には、ほぼそういう組織ができていて、そのルーツを探るというか、その組織をこうした形で権威づけるという意味合いもあったのではないかと思います。いずれにしろ、仕事の組織化、分業化がこのようになされていったというのは興味深いことです。昔は何でもかんでも祭司がやって、いちいち神様にお伺いを立てていたものを、いわば裁判所の仕事と宗教的な仕事が分業化されていくプロセスを見るような気がいたします。

(5)ワンマン共同体はよくない

二つ目は、ワンマンの共同体はよくないということです。その本人にとってもよくないし、そのもとにいる他の人にとってもよくない。できるだけ負担は大勢の人で負いあわなければならない。それが、共同体が健康であるための一つの条件であるように思います。教会であれ、会社であれ、家庭であれ、学校であれ、すべてそうではないでしょうか。それはある意味で当然のことですが、責任をもっている当人は、なかなかそのことに気づかないものです。そしてもしもその人が倒れてしまった時には、誰も代わりがいないわけですから、それで終わりになりかねません。もちろん、責任放棄してよいということではありません。きちんとそれができる人を育てて、その人たちを立て、だんだんと仕事を任せていくということが必要です。ワンマンで何でもできる人にとっては、むしろそれは忍耐のいることでしょう。しかしそのほうがお互いのためによい、そして将来のためによい、ということを告げているような気がします。

(6)祈りと御言葉の奉仕のために

これとよく似た話が新約聖書の中にも出てきます。先ほど読んでいただいた使徒言行録の6章1~7節であります。

「その頃、弟子が増えてきて、ギリシア語を話すユダヤ人からヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情が出た。日々の分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじられているというのである。そこで、十二人は弟子たち全員を呼び集めて言った。『私たちが、神の言葉をおろそかにして、食事の世話をするのは好ましくない。そこで、きょうだいたち、あなたがたの中から、霊と知恵に満ちた評判の良い人を七人探しなさい。彼らにその仕事を任せよう。私たちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします。』」(使徒言行録6:1~4)

初代教会の人たちは、最初は組織を整えることをあまり考えていなかったようです。世の終わりがすぐに来ると考えられていたからです。しかし「これはもしかすると、そうすぐには来ないぞ」ということになり、だんだん教会を組織として整えていくことになります。「こうして、神の言葉はますます広まり、弟子の数はエルサレムで非常に増えて」(使徒言行録6:7)いきました。

この使徒言行録の記述の中にとても大事なことが記されています。それは、このように組織化、分業化したのは、彼ら(使徒たち)が「祈りと御言葉の奉仕に専念する」(4節)ためであったということです。ただ単に肉体的に限界だから、このままで行くと体がもたないから、ということだけではなかったのです。あまりにも忙しく仕事をしていると、つい最も大事なこと、「祈りと御言葉の奉仕」がおろそかになってしまうのです。

モーセの場合もそうでありました。モーセが、より忠実に神様の委託に応えることができるために、その業務を分担する必要があったのでした。そうすれば、「あなたはその任に堪えることができ……るでしょう」(出エジプト18:23)というのです。

私たちも必ずしも上に立つ仕事をしていなくても、あまりにも忙しいと、つい最も大事なことをおろそかにしてしまうことがあるのではないでしょうか。今日何をするべきかということを考える時に、私もどうしても締め切りのある原稿や、形になる仕事を優先せざるを得ないことになります。それは「これをした、あれをした」というふうに、目に見えるもの、印をつけられるものです。しかしそこで大事なことがすっぽり抜けてしまうということがあるように思います。

(7)心静まって神の御前に出る

エトロが、モーセが仕事をする様子を見て憂えたのも、実はそういうことではなかったでしょうか。たくさんの仕事に忙殺されることによって、一番大事なことが後回しになってしまうのです。

このことは何もモーセやキリストの弟子たちだけの問題ではないでしょう。モーセにとっては神様の前に立つということが大事な事柄であり、イエス・キリストの弟子たちにとっては御言葉と祈りの奉仕に専念するということが大事な事柄であったように、私たちにとっても、御言葉の前に静まる時を持つというのは、クリスチャンとしての生活をするために欠かすことのできないことでありましょう。

イエス・キリストご自身が、どんなに忙しく働かれても、一人山に退いて祈る生活を確保しておられたということは、非常に大事なことを示唆していると思います(マタイ14:23など)。自戒の念をこめて、そのように思うのです。

ルカ福音書の中にマルタとマリアのエピソードがあります(ルカ10:38~42)。マルタは、一生懸命イエス様のためにおもてなしの奉仕をしている。その横で、マリアはじっとイエス様の御言葉に耳を傾けている。それを見ていて、マルタはとうとうたまりかねてこう言いました。

「主よ、妹は私だけにおもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」(ルカ10:40)

その言葉に対して、イエス・キリストは、こう答えられました。

「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことに気を遣い、思い煩っている。しかし、必要なことは一つだけである。マリアは良いほうを選んだ。それを取り上げてはならない。」(ルカ10:41~42)

私たちは、それぞれ忙しい生活を送っていると思いますが、そうした中で、心静まって、神様の御前に出る。祈りをする。教会で御言葉に耳を傾ける。そういう生活を大事にしていきたいと思います。

出エジプト記は、本日の第18章をもって前半を終えることになります。 19章以下では、旅を一旦休止して、モーセはシナイ山に登り、十戒をいただき、神と契約を結ぶ話へと移って行くことになります。

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