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2020年5月17日説教
「私も憎まれた」
松本敏之牧師

私も憎まれた

エレミヤ書26章7~13 ヨハネによる福音書15章18~27節

(1)イエス・キリストと「世」

「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前に私を憎んだことを覚えておくがよい」(18節)。
これまでの1~17節では「愛」という言葉が軸となっていましたが(9、12、13節など)、このところでは、一転して「憎しみ」という言葉が軸になっています。ちなみに「憎む」という単語は、新約聖書全体では40回、またヨハネ福音書全体で12回出てくるそうですが、そのうち7回がこの段落に集中しています。
イエス・キリストと「世」、ひいては、弟子たちと「世」の対立関係がここに示されるのです。イエス・キリストと「世」の関係は、二面的です。「世」はイエス・キリストの伝道の対象であり、愛の対象でした。しかし「世」はイエス・キリストを知らず、イエス・キリストを憎み、迫害し、殺そうとします。
それは、イエス・キリストが真実な光であるがゆえに、「世」の偽善性を見抜き、その「罪」を明らかな光のもとに置くからでしょう。イエス・キリストの存在や言動は、当時の人々にとって、大きな脅威でした。その言葉は真実であるがゆえに、無視できない存在なのです。イエス・キリストという光がまぶし過ぎたのです。イエス・キリストは、太陽のような神の光をこの「世」という場所で映し出す鏡のような存在であったと言えるかもしれません。そこでは何もかも映し出されてしまう。だから人はその鏡を壊してしまえば、もう安全だと思い込むわけです。

(2)国益を損なう者は憎まれる

旧約聖書の時代には、主なる神の意志を伝える人として、預言者が立てられました。しかし彼らは真実を告げたがゆえに憎まれ、迫害されたのです。預言者エレミヤもそうです。エレミヤは、ある日、主なる神から「主の神殿の庭に立って語れ」と命じられました。
「もしお前たちがわたしに聞き従わず、わたしが与えた律法に従って歩まず、……わたしの僕である預言者たちの言葉に聞き従わないならば、……わたしはこの神殿をシロのようにし、この都をすべての国々の呪いの的とする」(エレミヤ26:4~6)。
エレミヤのこの言葉を聞いた人々は、二つのグループに分かれます。一方は祭司と預言者たち(宗教的指導者)、もう一方は、高官たちと民のすべての者です。民衆は民の高官の側にまわりました。祭司と預言者たちは、エレミヤの正しさを見抜いていた高官たちと民衆に向かって、彼は都に敵対する発言をしたから死刑だと言いました(26:11)。それが本当のことかどうかということより、その都、あるいは国に対して敵対的かどうかということが判断基準となるのです。
国益を損なうような発言、国の体制を脅かすような発言をする者は憎まれ、時には殺されそうになります。たとえば、私が住んでいたブラジルをはじめとするラテンアメリカは、1960~80年代に、(反共産主義の)軍事政権下、厳しい迫害がありました。国の体制を批判する人々が誘拐されて行方不明になったり、殺されたりしました。
日本においても、戦前、戦中においてはそのような言動の規制がなされていました。国に対して、町に対して、敵対する発言をするまいと思っても、国や町を愛するがゆえに批判的に語らざるを得ないということが出てくるのではないでしょうか。

(3)内村鑑三の「二つのJ」

無教会の指導者であった内村鑑三は、「二つのJを愛する」と言いました。二つのJというのは、Japan と Jesus です。彼にとって、イエス・キリストを徹底して愛するということと日本を愛することは一つのものでした。表面的には、日本に敵対しているように聞こえる言動も日本への愛のゆえでした。
彼のお墓には
I for Japan.
Japan for the World.
The World for Christ.
And all for God.
と刻まれています。日本語にすると、こうなります。
「我は日本のため、
日本は世界のため、
世界はキリストのため、
そしてすべては神のために」

(4)イエスの弟子ならば

イエス・キリストを愛するがゆえに、信仰者として、憎まれることも起こり得る。それはイエス・キリストご自身とこの世との関係においてすでに起こったことでした。
「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい。あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである」(18~19節)。
イエス・キリストの弟子であろうとするクリスチャンであれば、当然そういうことは起こってくるであろうとおっしゃった。そうでなければ本当のクリスチャンではないということまでは言えないでしょうが、この時、ヨハネ福音書を読んでいた人々は、実際にそうした迫害の最中にありました。その時に「イエス様もそうだった」ということを思い起こしたのです。それは大きな励ましと慰めであったでしょう。
「『僕は主人にまさりはしない』と、わたしが言った言葉を思い出しなさい。人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたをも迫害するであろう」(20節)。
イエス様に従おうとする時、私たちは自分の十字架を担って従っていくのだということを思います(マタイ16:24参照)。

(5)自己正当化せずに

さてそれらを踏まえながらですが、私はこれらの言葉を、自己正当化するように聞いてはならないと思います。私たちが誰かと敵対する時に、安易にそれをイエス・キリストの弟子として正当化することもあるのではないでしょうか。自分のことを「イエス様の僕」と名乗ったり、あるいは実際に、そう書いて手紙を送りつけてきたりする人も出てきます。そこまで来ると、直感的に、「これはあやしいぞ」と思うかもしれません。私たちはそうした形で、また別の間違いを犯し始める。勘違いをし始めるのです。
「自分はイエス様に従っているから、こういう目にあうのだ」と、自分を正しい側に置き、自分の敵対者を悪者にしてしまう。そのようにして、かえって神様のみ心から離れていくこともあるでしょう。
現在起きている世界中の戦争も宗教戦争のような様相を呈していますが、本当に自分、あるいは自分たちはみ心に従っているだろうかと、徹底的に吟味しなければならないと思います。
また、ここでのイエス・キリストの言葉を自分にあてはめてみる時に、自分の中にイエス・キリストに属する部分と、「世」に属する部分があることを思います。並列しているのです。そして自分自身の中で対立が起きている。それをきちんと自覚しつつ、「世」に属して「世」に従っていこうとする古い自分を、イエス・キリストと共にいることで克服することが求められているのだと思います。
そうは言っても、自分でできることではないでしょう。主イエスは、「私はぶどうの木、あなたがたはその枝である」(5節)と言ってくださいました。ぶどうの木に必死にしがみつくのではなく、すでに連なっているのだという事実を、福音として聞き取りたいと思います。

(6)真理の霊

「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出てくる真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである」(26節)。最後に、聖霊について触れられています。この聖霊こそが、まことの弁護者であり、私たちがいかなる状態にあっても、励まし、力づけてくださいます。また間違いをおかしていたら、ただしてくださるでしょう。
パウロは、「“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきか知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです」(ローマ8:26)と言いました。
そういう風に「聖霊が私たちを導いてくださる。イエス・キリストと一つにしてくださる」という信仰を持って、自分を謙虚に見つめながら、苦しみにあう時には、イエス様の姿を思い起こしながら、苦難に打ち勝っていきたいと思います。

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