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2020年5月31日説教「水、霊、風」 松本敏之牧師

エゼキエル書37章7~10節  ヨハネによる福音書3章1~10節

讃美歌346、343  松本 敏之

(1)ペンテコステ

本日は、ペンテコステです。イースターから数えて50日目です。イエス・キリストは復活した後、何らかの体をもって地上に留まられた。そして40日目に、天にあげられた、というのです。それが今年のカレンダーで言えば、5月21日の木曜日でありました。そしてその10日後、つまりイースターから数えると、50日目に天から聖霊が降り、その日から弟子たちは力強く宣教をし始めたというのです。そうしたことからペンテコステは教会の誕生日であるとも言われます。

(2)ニコデモ

今日は、ペンテコステを心に留めて、ヨハネ福音書3章1~10節を読むことにしました。こう始まります。
「さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった」(1節)。
ここにニコデモという人が登場します。この人は、一体どういう人物であったのでしょうか。まず彼は「ファリサイ派に属する」人でありました。きちんとした厳格な律法教育を受けた人です。学歴がしっかりしている。次に「ユダヤ人の議員」というのは、サンヘドリンと呼ばれた、ユダヤの最高議会の議員です。時の権力者とも近い位置にいたかもしれません。さらに10節の主イエスの言葉から「イスラエルの教師」でもあったことがわかります。つまりニコデモは学識があり、社会的地位があり、尊敬され、評判も得ていた人物でした。
そういう人がイエス・キリストを訪ねてきたのです。決して冷やかし半分ではありません。また別のファリサイ派の人がしたように、「罠にかけよう」としてイエス・キリストに近づいたたわけでもありません(マタイ22:15参照)。彼なりに真剣に、「この人こそ神の子なのかも知れない」と思ってやってきたのです。それはニコデモの次の言葉からもよくわかることです。
「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです」(2節)。
これは、彼なりの精一杯の信仰告白であるということができるでありましょう。

(3)夜

2節のところに、見落としてはならない言葉があります。最初の「ある夜」という言葉です。ニコデモという人は、夜こっそりイエス・キリストを訪ねてきました。これは一つには、ニコデモが本気であったということを示しております。つまりみんなの前で何かをしてみせるのではなく、自分の問題として、本当に必要だと思ったから訪ねてきたのです。ところがそれは同時に、彼はだれにも見られたくなかったということでもあります。彼には地位もあり、名誉もあります。評判もあります。そういう人であればこそ、人に何と言われるか、どう見られるかを恐れたのでしょう。
もう一つは「夜」という言葉には象徴的な意味もあるかと思います。まず彼がイエス・キリストを訪ねた時が「夜」のように暗い時代であったということです。そういう時代であったから、イエス・キリストは神殿の中で怒りを爆発させて、清めようとされたのでしょう。
さらに、ニコデモの心自身が内面に夜のような闇を持っていた。そのことを暗示しているようにも思えます。

(4)何が必要かを察知して

そのニコデモに対して、イエス・キリストは次のように答えられます。「はっきり言っておく。人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」(3節)。彼は主イエスに何かを質問したわけではありませんが、ニコデモを迎えたイエス・キリストは、今ニコデモにとって必要なことは何であるかを察知して、このような言葉で答えられたのではないかと思います。
ニコデモは、自分が今普段やっていることは基本的に正しいと思っています。ですから彼は自分のやっていることを捨ててまで、イエス・キリストに従う気はありません。根本的に新しくなろうとは思ってはいない。今やっていることの上に、より高いことを求めているのです。もっと完全になりたい。そして彼なりに真剣に本気でイエス・キリストを訪ねたのです。そのニコデモに対して、イエス・キリストは、「新しく生まれ変わらなければならない」と語られました。「あなたの信仰の拠り所としているものは何か。あなたはしるしを見て、ここに来たのだろうけれども、本当に大事なのはそこから先だ」ということです。ニコデモはこう答えます。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母の胎内に入って生まれることができましょうか」(4節)。この少しピントはずれの答えをきっかけにして、イエス・キリストはもう一つ深い真理を語られます。ヨハネ福音書独特の語り口です。

(5)「水」と「霊」と「風」

「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」(5節)。否定的な表現ですが、裏返して言えば、「人は水と霊とによって新しくなれるのだ」というふうにも言えるでしょう。「水」というのは、後の人が挿入したのではないか、と言われていますが、この言葉は、私たちの洗礼を象徴する言葉でありましょう。「水によって新しくなる」とは、あの「ノアの洪水」(創世記6~9章)と、出エジプトの際に、紅海の水が真っ二つに分かれた(出エジプト記14章)という水のイメージがあるのかも知れません。
私が感じたもう一つの水のイメージがあります。母親の胎内には羊水という水があります。ですから私たちはいわばその羊水の中から生まれてきたのです。ニコデモは「もう一度母親の胎内に入って生まれることができましょうか」と言っていますが、私たちは水を通して、あたかも胎内に戻るように新しく生まれ変わるのだという含みがあるのではないでしょうか。これは、洗礼、バプテスマを暗示する言葉のようでもあります。
そしてもう一つ大事なのは、「霊」という言葉です。この「霊」という言葉が次のように引き継がれていきます。「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである」(8節)。ここで「風」と「霊」が対比されています。ちょうど霊というのは、風のようなものだ。目には見えないけれども、私たちはその音を聞くことができるし、体で感じることもできる。さらにまた風があることによって初めて、風がない時にもそこに空気があるということがわかる。空気がなければ私たちは生きることができませんが、風によってその存在を確認するのです。
この「風」と「霊」はただ単に性質が似ているだけではありません。実はギリシャ語では、両方とも同じ言葉です(プニューマ)。

(6)神の霊は共同体を生かす

今日は、このヨハネ福音書とあわせて、エゼキエル書の37章を読んでいただきました。もう一度その中の8節以下を読んでみます。
「わたしが見ていると、見よ、それらの上に筋と肉が生じ、皮膚がその上をすっかり覆った。しかし、その中に霊はなかった。主はわたしに言われた。『霊に預言せよ。人の子よ、預言して霊に言いなさい。主なる神はこう言われる。霊よ、四方から吹き来たれ。霊よ、これらの殺されたものの上に吹きつけよ。そうすれば彼らは生き返る』。わたしは命じられたように預言した。すると、霊が彼らの中に入り、彼らは生き返って自分の足で立った。彼らは非常に大きな集団となった」(エゼキエル書37:8~10)
霊が死んだ人間を生き返らせたというのです。最初のペンテコステ(聖霊降臨)の出来事は、このように記されています。
「一同が一つになって集まっていると、突然激しい風が吹いてくるような音が聞こえて、彼らが座っていた家中にその音が響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」(使徒2:1~3)。
ここでも「風」が出てまいります。
私は、霊が一人一人の上にとどまったということと、弟子たちが一つの群となっていたということ、この両方が大事ではないかと思います。神様の霊は、私たち一人一人のもとに来て、一人一人を生かすものであると同時に、共同体、教会、信ずる群の中に降るのです。先ほどのエゼキエル書にも、「彼らは非常に大きな集団となった」とありました。一人一人を生かしながら、それを集団として生かす。それが神様の聖霊であります。

(7)人の信仰を裁くな

さてこの時のニコデモの信仰は、確かにまだ十分なものではありませんでした。しかしながら、このニコデモという人は、これで終わるわけではありません。ヨハネ福音書の最後に、もう一度出てきます。アリマタヤ出身のヨセフが、イエスの遺体を引き取りたい、ピラトに願い出た時のことです。ヨハネ福音書19章39~40節に、こう記されています。
「そこへ、かつてある夜、イエスのもとに来たことのあるニコデモも、没薬と沈香を混ぜた物を百リトラばかり持ってきた。彼らはイエスの遺体を受け取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従い、香料を添えて亜麻布で包んだ。」
最後の瞬間に、ニコデモはペトロやヨハネにはできない貢献をしました。つまり彼はお金も地位も信用も持っている者として、権力者ピラトと話ができる者として、貴重な働きをしたのです。
私は、ニコデモの歩みを見ていると、ある一時の状態で、人の信仰を勝手に判断して、「あの人の信仰は中途半端だとか、本物ではない」などと裁いてはならないと思うのです。人の信仰には、それぞれの時、それぞれの段階があり、その人がこれからどうなっていくか、わからないわけです。それは、私たちの共同体の中でも同じでありましょう。神様がその時その時にふさわしい形で、その人の信仰を深め、用いてくださるのです。
そしてまたどんな人間であっても、神様がかかわられる時に、私たちは新しくなることができるのです。水と霊とによって、新しく生まれ変わることができる。ニコデモは、「どうしてそんなことがありえましょうか」と言ったけれども、それは神様からすれば可能なのだということを、私たちは心に留めたいと思います。そして人を裁かず、その人に現れる神さまの意思、御心というのを信じて、つまり自分の視野を超えた神様の視野があることを信じて歩んでいきたいと思います。

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