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2021年8月22日説教「喜びと感謝の手紙」松本敏之牧師

フィリピの信徒への手紙1章1~11節

(1)愛情に満ちた手紙

鹿児島加治屋町教会は、新型コロナウイルスの感染症拡大のために、集まる形式の礼拝は、先週の8月15日から休止しております。ほぼ同時に、8月16日から礼拝堂の改修工事が始まり、現在は礼拝堂の中がビニールシートで覆われた状態になり、かなりほこりっぽくなっていますので、礼拝が中止になる時期としては、ちょうどよかったのかなと思っています。

さて鹿児島加治屋町教会の聖書日課は、昨日からフィリピの信徒への手紙に入りました。フィリピの信徒への手紙は4章だけの短い手紙ですが、パウロの重要な手紙のひとつです。これはパウロが獄中、つまり牢屋の中からフィリピの教会に宛てて書いた手紙です。そのことは、1章13節の「私が投獄されているのはキリストのためである」という言葉からも分かります。

フィリピの教会は、パウロにとって特別な思い入れのある教会でありました。フィリピはギリシアの北部マケドニア州にあり、パウロが第二次伝道旅行で訪れた町であります。その時のことは、使徒言行録16章に記されていますので、興味のある方は、どうぞ後でご覧ください。

パウロは、愛情をもって、この手紙を書きました。パウロはローマの教会に宛てても手紙を書きましたし、コリントの教会に宛てても、ガラテヤの教会に宛てても手紙を書きました。それぞれに重要な、そして大きなものです。

ローマの信徒への手紙は、全体がひとつの神学論文のようであります。彼は、この時まだローマへ行ったことがなく、これから行こうとしている。そのような時に、事前に、福音の中心について自分がどのように考えているかを述べたような手紙です。重々しく、少し身構えたところがあります。

コリントの教会は多くの問題を抱えていました。分裂があり、信仰から離れていっている人もいる。それを無視できず、やむにやまれずこれを書きました。「福音に立ち返りなさい」と叱責するような手紙です。

ガラテヤの信徒への手紙もまた、「戦いの手紙」と呼ばれるように、論争するような面があります。そのことは、8月8日の説教で申し上げました。

フィリピの信徒への手紙は、それらに比べれば小さなものですが、パウロの愛情と喜びに満ちあふれた手紙です。

「私は、あなたがたのことを思い起こす度に、私の神に感謝し、あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。」(フィリピ1:3~4)

こう書きながら、パウロは多くの人々の顔を思い起こしていたことでしょう。具体的な名前は、他の手紙に比べると、あまり出てきません。恐らく知っている人の名前を出すまでもなく、信頼関係ができあがっていたからでしょう。あるいは、特定の人の名前を出して挨拶をすると、かえって他の人々が「どうして自分の名前が出ていないのだ」とひがむ可能性があったからかも知れません。

(2)いつも喜びをもって

さてパウロは、ここで「いつも喜びをもって祈っています」と書きます。「喜びをもって」。これが、この手紙を貫くトーンです。この手紙には、何度も何度も「喜び」という言葉が出てきます。喜びに満ちあふれている。この時のパウロは、客観的に言って、とても素直に喜ぶことができる状況にあったわけではありませんでした。獄中にいるのです。

パウロが、この手紙をどこの牢屋から書いたのかは、よくわかりません。従来はローマと言われていましたが、最近ではエフェソという説、カイサリアという説もあります。いずれにしろ身柄を拘束され、自由がない状況です。フィリピの人々のように親しい相手であれば、いかに自分が苦しい状況にあるかを訴えてもよさそうですが、それらを超越したように、喜びと感謝を語るのです。それはどんな状況にあっても、キリストが共におられることを知っていたからでありましょう。

詩編23編4節の言葉「たとえ死の陰の谷を歩むとも、私は災いを恐れない。あなたは私と共におられ、あなたの鞭と杖が私を慰める」

という信仰のとおりです。
私たちは、フィリピの信徒への手紙を通して、何よりもパウロの喜びの秘訣を学び取りたいと思うのです。逆境にあっても、喜んで生きることができる。死を目前にしても、それを恐れない。どうしてなのか。もちろん信仰のゆえですが、その信仰とはどのようなものなのを聞き取りたいと思うのです。

パウロはこの時、フィリピの教会の人々に感謝すべきことがありました。フィリピの教会はパウロの伝道活動を経済的に支援していたのです。フィリピの教会の人々はエパフロディトという代表を送って、贈り物を持たせました。エパフロディトはしばらくパウロのもとに滞在しましたが、病気になり、フィリピに帰ることになった。その時にエパフロディトに託したのが、このフィリピの信徒への手紙であります。

しかしパウロは、フィリピの人々に、直接感謝するというよりは(もちろんそれは当然のこととしているわけですが)、彼らをそのような信仰者に育ててくださった神様に感謝を捧げるのです。「あなたがたを思い起こす度に、私の神に感謝し(ています)」(3節)とある通りです。

(3)キリストと共なる歩み

「それは、あなたがたが最初の日から今日に至るまで、福音にあずかっているからです。」(フィリピ1:5)

最初の日とは、パウロがフィリピで伝道していた頃のことでしょう。信仰生活をずっと続けるのは、そう当たり前のことではありません。だんだんと道を逸れていき、教会から離れていってしまうこともしばしばあります。

人がある事柄にずっとかかわり続けるというのは、なかなか難しいことです。学者であれば、生涯、ある事柄を研究し続けるということはあるでしょう。牧師もまた、説教をするために必要に迫られて、学びを続けることになります。

しかし趣味となると、なかなかそうはいきません。飽きてしまい、また別のものに熱中する、というのが多いのではないでしょうか。信仰生活というのも、そういうレベルで受けとめる人もあるかも知れません。「聖書はなかなかいいことを言っている。何かそこから学びたい。」しかしそれだけですと、興味がなくなれば、自分で見切りをつけて「卒業」していくということもあるでしょう。

私たちを信仰生活にとどまらせるものは、そのようなこちら側の興味というのではないのです。むしろ、その興味をも含めて、それを促す福音というものが根底にある。そこに神様がおられ、イエス・キリストがおられる。神様、イエス・キリストとの共なる歩みなのです。

こちらの側の信仰というレベルで言えば、確かに波があります。熱心な時もあるけれども、少しペースがおちることもあります。しかし最初の日に、信仰に導いてくださった方が、終わりの日には、それを完成してくださるという信仰が大事であろうと思います。

パウロも、フィリピの人々について、そのような信仰をもっているのです。

「あなたがたの間で善い業を始められた方が(過去)、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると(将来)、私は確信しています。」(フィリピ1:6)

この「善い業」というのは、経済的援助などを含んでいるでしょうが、単なる慈善事業ではありませんし、パウロを助けるということでもありません。支援している人たち自身がそれによって喜びに満たされる、パウロの言葉で言えば、「福音にあずかる」ことなのです。

(4)パウロの祈り

パウロは、ここで再び、自分がどんなにフィリピの人々のことを思っているかを語ります。

「私があなたがた一同についてこのように考えるのは、当然です。というのは、獄中にいるときも(パウロは今まさに獄中にいます)、福音を弁明し立証しているときも(パウロは何度も宗教裁判の場で、イエス・キリストを立証する立場に立たされました)、あなたがた一同を、共に恵みにあずかる者と思って心に留めているからです。私が、キリスト・イエスの深い憐れみの心で、あなたがた一同のことをどれほど思っているかは、神が証ししてくださいます。」(フィリピ1:7~8)

この思いを何とかして、フィリピの人に伝えようとしている。私はここに教会があると思います。パウロは、たとえ一人であっても、獄中で一人でいても、祈りにおいてフィリピの教会の人々とつながっているのです。

私たちも、今、礼拝堂での礼拝を中止して、教会に来ることができず、たとえたった一人で、動画で礼拝に参加している方もあるでしょう。そうであったとしても、祈りでつながる時に、そこに教会があるのです。

(5)本当に重要なことを見分ける

パウロは一体、どんな祈りをしていたのか。それが、この後に記されています。

「私は、こう祈ります。あなたがたの愛が、深い知識とあらゆる洞察を身に着けて、ますます豊かになり、本当に重要なことを見分けることができますように。」(フィリピ1:9)

自分の置かれている困難な状況はさておいて、フィリピの人たちが信仰において成長することができるように、と祈るのです。この祈りは、内容的にとても興味深い祈りです。

「深い知識とあらゆる洞察を身に着ける」。知識と洞察。その目的は、「本当に重要なことを見分けることができるように」なることだと言うのです。

これは、今日の世界に生きる私たちにも、とても重要なことであると思います。今日ほど、多様な価値観が氾濫している時代はないでしょう。そこで、私たちは何が重要であるか、何が重要でないか。あるいは何が私たちに益となるものであり、何が私たちをスポイルする(だめにする)ものであるか。何が危険な考えであり、何が安全なものであるか。何が私たちを真に幸福にするものであり、何がまやかしの表面的なものであるか。あるいはそこにどんな落とし穴があるか。それを見分けなければなりません。一見、よいように見えて、危険なものに満ちあふれています。「キリストの福音」という装いで、近寄ってくる危険思想もあります。パウロは別の箇所で恐ろしいことを述べています。

「サタンでさえ光の天使を装うのです。だから、サタンに仕える者たちが、義に仕える者を装うことなど、大したことではありません。」(コリント二11:14)

「大したことではありません」というのは、お茶の子さいさいだということでしょう。これは恐ろしいことですね。

救世主を装って、あるいはよき助言者を装って、人を破滅に導く。でも現実にそういうことがあるのではないでしょうか。それを見分ける力、洞察力、観察力というのは、とても重要です。祈りによって、神様から与えられる、とも言うこともできるのではないでしょうか。

特にキリストの福音もそういう面があると思います。聖書の言葉を語っているからと言って、それが必ずしも人を養うものとは限らない。かえって知らず知らずのうちに、人をマインドコントロールしたり、スポイルしたりするものに満ちあふれています。事実、そのような宗教がたくさんある。「聖書にこう書いてある」と言って、自分の考え方や国の考え方を押し付けるということもあります。その時に、「イエス様の言っていることと違うのではないか」というセンス、アンテナを身につけるのは重要なことです。同じような言葉を語っているけれども、トーンが違う。そういう感覚です。

(6)愛を身に着ける

「深い知識とあらゆる洞察を身に着けて」という言葉を挟んで、「あなたがたの愛が」「ますます豊かになり」という言葉があります。私は、これが隠れた鍵ではないかと思うのです。それが本物を見分けるセンスを持つための鍵、アンテナを持つための鍵です。

パウロは、有名な愛の賛歌で、こう言っています。「(たとえ)山を移すほどの信仰を持っていても、愛がなければ、無に等しい」(コリント一13:2)。

ですから「そこに愛があるかどうか」が、「本当に重要なことかどうか」「それが福音に根ざしたものであるか」を見分ける基準になるのではないでしょうか。

(7)信仰の成長

パウロはその後、さらに三つのことを祈ります。まず「キリストの日には純粋で責められるところのない者となる」こと、次に「イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされ」ること、そしてそれらを通して「神を崇め、賛美する」こと(10~11節)でありました。フィリピの人たちの信仰がそのように育てられるようにと、パウロはとりなしの祈りをしたのでした。ここに教会があります。祈りあう共同体、とりなしをしあう共同体、愛し合う共同体です。

パウロは、この手紙の初めに祝福の祈りを置きました。「私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平和があなたがたにありますように。」(フィリピ1:2)

そのような祈りの中に、パウロの手紙全体、交わり全体が包み込まれています。フィリピの教会だけではなく、私たちもまた、そして私たちの教会もまた、その祈りに包み込まれていることを感謝したいと思います。

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