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2022年5月29日説教「御もとに参ります」松本敏之牧師

ヨハネによる福音書17章1~13節

(1)昇天日

先ほどお読みいただいたヨハネによる福音書17章1~13節は、日本基督教団の本日の聖書日課です。この箇所が本日の聖書日課に選ばれているのは、先週の木曜日が教会暦で昇天日であったからでありましょう。この聖書箇所の中には、「私は御もとに参ります」という言葉が二度も出てきます。11節と13節です。

「私は、もはや世にはいません。彼らは世におりますが、私は御もとに参ります。」(ヨハネ17:11)

「しかし今、私は御もとに参ります。世にいる間、これらのことを語るのは、私の喜びが彼らの内に満ち溢れるようになるためです。」(ヨハネ17:13)

昇天日というのは、イエス・キリストが天に昇られたことを記念する日です。人が死んで天国に行くという時には「天に召される」という漢字を書きます。キリストの昇天の場合は、「天に昇る」という漢字を使います。

昇天日はイースターの40日後であり、ペンテコステの10日前です。このことは、イエス・キリストが、復活後40日間にわたって地上に留まられて、40日経った時に、天に昇られたという使徒言行録の1章の記述に基づいています。

「イエスは苦難を受けた後、ご自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、40日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。」(使徒1:3)

「こう話し終わると、イエスは彼らが見ている前で天に上げられ、雲に覆われて見えなくなった。イエスが昇って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い衣を着た二人の人がそばに立って、言った。『ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたを離れて天に上げられたイエスは、天に昇って行くのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またお出でになる。』」(使徒1:9~11)

(2)使徒信条の「天に昇り」

コロナ禍対応の礼拝になってから、礼拝中の使徒信条の朗読を休止していますが、週報の裏面に記載されています。使徒信条は三つの段落から成り立っています。最初の段落は、父なる神について。2番目の段落は子なる神、すなわちイエス・キリストについて。3番目の段落は聖霊なる神について、です。

2番目の段落は、とても長いです。「我はその独り子、我らの主イエス・キリストを信ず」という言葉で始まりますが、その後は「主は」と始まって、イエス・キリストがどういう方であるかを説明する言葉が続きます。原文(ラテン語)では、「主は」以降は、「イエス・キリスト」にかかる関係代名詞で一つの長い文章になっています。

その文章(というか段落)の終わりのほうに、「三日目に死人の内よりよみがえり、天にのぼり、全能の父なる神の右に座したまへり。かしこよりきたりて生ける者と死ねる者とを審きたまわん」とあります。この箇所がキリストの昇天についての信仰告白です。

「かしこより来たりて、生ける者と死ねる者を審きたまわん」というのは、キリストの再臨を指しています。先ほど読みました使徒言行録1章11節にも、「あなたがたを離れて天に上げられたイエスは、天に昇って行くのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またお出でになる」とありました。私たちは今、昇天と再臨の間の時代を生きていると言ってもよいでしょう。

「天に昇り」にはどういう意味があるのかについては、後でお話したいと思います。

(3)大祭司の祈り

では、本日のテキストである、ヨハネ福音書17章に耳を傾けましょう。ヨハネ福音書17章は、全体が「大祭司の祈り」と呼ばれます。イエス・キリストがここで弟子たちのために、大祭司として父なる神に執り成しの祈りをなさるのです。

イエス・キリストの祈りは、福音書のあちこちに記されています。主の祈りがそうですし、有名なゲツセマネの祈り(マタイ26・39他)もそうです。十字架上の「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです」(ルカ23・34)という祈りを数えることもできるでしょう。しかしそれらはすべて断片的な短いものです。その意味で、今日のこの祈りは、1章全体におよぶ長いものであり、イエス・キリストの祈りを知る上で、貴重なものと言えるでしょう。

これは「大祭司の祈り」と呼ばれると言いました。それは、ここでイエス・キリストが弟子たちのために、祭司の中の祭司、大祭司として、父なる神様に執り成しの祈りをしてくださっているからです。16章までは弟子たちに対する別れの言葉でした。これまで弟子たちに向けていた目を、今度は神様に向け、神様に向かって語り始められる。今度は人間の側の代表として、神に向き合っておられるのです。大祭司としてというのは、そういう意味であります。

(4)キリストの三職

ちなみに旧約聖書では、神と人間の間に立つ職務として、預言者、祭司、王という三つがありました。神の言葉を人間に取り次ぐ預言者、人間を神に執り成す祭司、神に代わって人間を治める王、この三つです。預言者が神から人間に向かう方向の仕事であるとすれば、祭司というのは、人間から神に向かう方向の仕事であると言えるでありましょう。

イエス・キリストというお方は、この三つの職務、預言者、祭司、王の三つを兼ね備えた方として、私たちの世界に来られました。まことの預言者、預言者の中の預言者、言葉の中の言葉、神の言葉そのものが肉となった(受肉)お方として来られた。

祭司の中の祭司、大祭司。祭司というのは、犠牲の供え物をして、執り成しの祈りをしていましたが、イエス・キリストは動物の犠牲ではなく、ご自身の体を唯一無比の犠牲の捧げものとして、人間のために執り成し、十字架に向かわれた方であります。

そして王の中の王、(キング・オブ・キングズ)として、私たちのまことの支配者となられたお方であります。

このところでは、そうした言い方をすれば、これまで預言者として弟子たちのほうに向かって語っておられていたお方が、今度は祭司として神様のほうに向き直って祈られたと言ってもよいでしょう。もちろんここでもなお、預言者としてその言葉を通して、私たちに父なる神の御心を伝えておられるのは言うまでもありません。

ついでに言うならば、この後「御もとに参ります」という言葉が出てきますが、父なる神のもとに帰られたイエス・キリストは、もっとはっきりと「王」として、「王の中の王」として、天から私たちを統治される、支配されると言ってもよいでしょう。

(5)「時が来ました」

イエス・キリストは「時が来ました」と厳かに祈り始められました。これまで「私の時はまだ来ていない」と言われていましたし、福音書記者ヨハネも「イエスの時はまだ来ていなかったからである」と、何度も記していました。(ヨハネ2:4、7:6、7:30、8:20など)。しかしその後、12章23節では、「人の子が栄光を受ける時が来た」と厳かに語られました。そして続けて、「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(12・24)と言われました。主イエスが栄光を受ける時というのは、死ぬ時に他ならなかったのです。そして、それがいよいよ実現しようとしているのです。

イエス・キリストは、こう祈られました。「あなたの子があなたの栄光を現すために、子に栄光を現わしてください」(ヨハネ17:1)。少しわかりにくい言葉です。父なる神が栄光を受けるために、父が遣わされた子(イエス・キリスト)が栄光を受けなければならない。子なるイエス・キリストが栄光を受けることによって、父なる神に栄光が帰せられるというのです。そのようにして父なる神様が本当に神として立てられるということでしょう。

しかし、それは先ほど申し上げたように、「栄光を受ける」という言葉から思い浮かべられるような華々しいことではなく、実際には、先ほど述べたように、十字架にかかって死ぬことを指しています。それを通してでしか、神に栄光が帰せられないのです。そのことをイエス・キリストは、ここで心して受けとめておられたのです。しかしそれは人の目には隠されていました。

人の目に「今こそ」と思えても、神様にとってまだその時ではないこともしばしばありますし、人の目に早すぎると思えても、神様にとっては、「今」ということもあります。物事に成果が表れない時など、私たちはいらいらしたり、失望してしまったりすることがあります。しかし神様が必ず、よい時を定めておられると信じて、今自分にできること、与えられたことを一生懸命励むことが大事であると、私は思います。

(6)イエス・キリストを知ること

「あなたは、すべての人を支配する権能を子にお与えになりました。こうして、子が、あなたから賜ったすべての者に、永遠の命を与えることができるのです。」(ヨハネ17:2)

なかなか難解な言葉です。前半の言葉は、子(キリスト)が父なる神によってまことの支配者として立てられたということでしょう。そうであるがゆえに、キリストは、すべての人に永遠の命を与えることができるようになりました。

「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」(ヨハネ17:3)

この言葉は、後の時代に挿入されたのであろう言われます。イエス・キリストが、ご自分のことを指して「イエス・キリストを知る」と言われるのは不自然ですし、ヨハネ福音書記者にしても、普通は「イエス」と言い、「イエス・キリスト」という言い方はほとんど出てきません(例外は1章17節)。文体も他の部分と少し違うようです。しかしいずれにしろ、内容的にいえば神を知ることとイエス・キリストを知ること、それこそが永遠の命だと、ここで宣言されているのです。

(7)「昇天」の意義

では「昇天」にはどういう意味があるのでしょうか。

「父なる神の右に座して」とありますが、「右」というのは空間的な象徴的な言葉です。ですから本当は、右でも左でもいいのです。神様と一緒に、この世界を統治されるということです。今まで身近な親しかったイエス様が、急に偉そうに、よそよそしくなったという意味ではありません。

古来、信仰の基本を学ぶのに大切にされてきた「ハイデルベルク信仰問答」という問答形式の本があります。その中に、昇天について以下のような言葉があります。

「問49 キリストの昇天は、わたしたちにどのような益をもたらしますか。」

言い換えれば、「どういうよい意義がありますか」というようなことでしょう。

そう問うたあと、こういう説明をしています。

「答 第一に、この方が天において御父の面前で、わたしたちの弁護者となっておられる、ということ」(です)。

つまり先ほど申し上げたように、それまで親しかった方が、急に遠い存在になるということではありません。私たちの「弁護者」をやめるわけではないのです。むしろ父なる神様のすぐそばで、私たちのためにとりなしをしてくださる。それが昇天の一つの意義だということです。

「第二に、わたしたちがその肉体を天において持っている、ということ。

それは頭であるキリストが、この方の一部であるわたしたちをご自身のもとにまで引き上げてくださる、一つの確かな保証である、ということです」

これはちょっと難しい言葉です。この言葉の背景にあるのは、「キリストは私たち(教会)の頭(かしら)であり、私たち(教会)はキリストの体である」という信仰表現があります(コロサイ1:18)。キリストと私たちはひとつの頭と体として結ばれている。その頭であるキリストが天にのぼったということは、私たちも天とつながっているということです。キリストが昇天されたということはその体である私たちも天とつながっているということです。

「第三に、この方がその保障のしるしとして、ご自分の霊をわたしたちに送ってくださる、ということ。

その御力によってわたしたちは、地上のことではなく、キリストが神の右に座しておられる天上のことを求めるのです」

そう述べます。これもさっと聞いただけではわかりにくいかもしれません。これはペンテコステの前触れのような言葉です。キリストが天に昇られたことによって、ご自分の霊を、そこから送ってくださる。そのことによって、私たちは地上のことではなく、天を見上げて天上のことを求めるようになるというのです。

「ハイデルベルク信仰問答」は、どちらかと言うとわかりにくい「昇天」という教義を、そういうふうに説明しています。難しい表現もありますが、一言で言えば、イエス・キリストが天に昇られたことによって天と地がはっきりつながったということ。私たちにとても天が身近になったということができるでしょう。

(8)天の住まい

イエス・キリストはヨハネによる福音書14章では、こう言われました。

「私の父の家には住まいがたくさんある。もしなければ、私はそう言っておいたであろう。あなたがたのために場所を用意しに行くのだ(これが昇天の大事なひとつの意義です。)行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたを私のもとに迎える。こうして、私のいる所に、あなたがたもいることになる。」(ヨハネ14:2~3)

今日は、この後、短く、4月5月の召天者を覚えて祈りのひと時を持ちます。私たちは親しい人の死に直面する時に、悲しみの淵に立たされます。どうして助けてくださらなかったのか、と割り切れない複雑な思いをもつこともあります。ぽっかりと穴があいてしまったような空虚感をもつこともあるでしょう。そうした時にこそ、イエス・キリストが天にあって、私たちを迎える準備をしてくださっていること、そして実際に迎え入れてくださることを思い、また私たちの考える「時」を超えて、神様の「時」があることを思い、きっと最もよい時を備えてくださっているのだという信仰をもつことによって悲しみやつらさ、空しさを乗り越えていく力が与えられていくのではないでしょうか。

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