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2020年11月29日説教「来たりたまえ、われらの主よ」松本敏之牧師・奏楽椎名雄一郎

来たりたまえ、われらの主よ

マタイによる福音書1章1~17節

(1)今年のクリスマス・テーマ

講壇のキャンドルに一つ火がともり、待降節第一主日を迎えました。
鹿児島加治屋町教会では、年ごとにクリスマスのテーマを決めています。ここ数年は、アドベント・クリスマスの賛美歌の中のワンフレーズを使い、その歌をその年のテーマソングのように歌ってきました。昨年は、「急ぎ来たれ、主にある民」という賛美歌の中の「うたえ祝え、天使らと共に」という言葉をテーマにしました。今年はどうしようかとクリスマス委員会で意見を出し合ったところ、「コロナ禍にある今年は、やっぱりこれでしょう」ということで、「来たりたまえわれらの主よ」(『讃美歌21』241番の初行)に、すんなり決まりました。
アドベントとクリスマスの説教題も、すべてこの賛美歌の歌詞の言葉にしました。詳しくはクリスマスのチラシの裏面や週報をご覧ください。
さて、この「来たりたまえわれらの主よ」という賛美歌は、スイス・ノエルというタイトルが付いていますが、さかのぼれば随分古く、16世紀からスイスのフランス国境近くで歌われていたメロディーのようです。スイス民謡と書いてあります。民謡によくあることですが、言葉もメロディーも歌い継がれながら変化していったようです。私たちが使っている『讃美歌21』の歌詞は、基本的に以前の『讃美歌第二編』112番を踏襲していますが、これは1958年に当時フランス大使館に勤務していたジャック・カンドウという人が書いたものです。『讃美歌21』に収めるにあたって、その歌詞をやさしく、またアドベントにあうように、翻案したものだということです。
アドベント(待降節)はクリスマスを待ち望む季節ですが、それは同時に、今の時代に、「イエス・キリストよ、再び来てください」そして私たちのただ中で、苦しみ悩みから解放してください」という祈りを新たにする時でもあります。

(2)イエス・キリストの系図

この「来たりたまえわれらの主よ」というテーマから、今日は、マタイ福音書の冒頭、同時に、新約聖書の冒頭に置かれている「イエス・キリストの系図」を心に留めたいと思いました。
舌をかみそうな名前の連なった、読みにくい系図です。聖書朗読者泣かせの箇所かもしれません。今日も、つまりそうになられたら、横で「がんばれー」と、応援する気持ちで聞いていました。「よし聖書を最初から読んでいこう」と思って最初のページでつまずいてしまう人も多いかもしれません。マタイはイエス・キリストについて書き始めるのに、どうして系図などをもってきたのでしょうか。
系図というのは、よく誰かを権威づける時に用いられます。日本でも天皇を「万世一系の系図」(かなりあやしいようですが)でもって権威づけます。イエス・キリストがお生まれになった当時のユダヤの王ヘロデは、自分の本当の血筋を知っている人を皆殺しにし、にせの立派な系図を作り上げたと言われます。人間だけではありません。犬でも猫でも血統書つきというのは、値段が高くなっています。マタイもこれと同じ発想で、まずイエス・キリストを権威づけようとしたのでしょうか。
私はそうではないと思います。そもそも血筋ということで言えば、大いなる矛盾があります。なぜならこの系図はアダムからマリアの夫ヨセフに至る系図であり、そのヨセフとイエス・キリストには血のつながりはないからです。マタイもそのことを十分承知しています。せっかく長々と記しつつ、最後の最後で「なんだ。つながっていないのか」ということになります。
ですからこれは「血統を示す系図」ではなく、「約束の系譜」だと言ってもよいでしょう。神の約束の担い手がこのように受け継がれてきたのです。

(3)四人の女性

イエス・キリストの系図の意味を理解するために、ひとつの特徴に目を向けてみましょう。この系図の中には、イエスの母マリア以外に四人の女性が出てきます。タマル(3節)、ラハブ(5節)、ルツ(5節)、ウリヤの妻(6節)の四人です。
3節に出てくる最初の女性タマルという人は、夫の死後、子どもがないのを嘆き、顔を隠して娼婦になりすまし、自分のしゅうとであるユダと交わり、ユダの子を産みました。いわば執念で子どもを産んだ女性です(創世記38章参照)。
その次に5節に出てくる女性、ラハブは「遊女」でした。しかもユダヤ人ではありません。ユダヤ人たちは、自分たちは神から選ばれた特別な民族であると考えていましたから、ユダヤ人以外の人を異邦人と呼んで、退けていました。その異邦人であり、しかも「遊女」であるラハブの名前が出てくるのです(ヨシュア記2、6章参照)。
3番目の女性(やはり5節)はルツです。この人は最初の夫の死後、しゅうとめのナオミに従い、苦労をしながら、ナオミをよく助けました。後にボアズと再婚をしますが、彼女はユダヤ人が最も嫌ったと言われるモアブ人でした(ルツ記参照)。
6節に出てくる最後の女性は「ウリヤの妻」という人です。この人は本人の名前が記されていません。名前が分からないわけではありません。本当はバト・シェバという名前です。マタイが名前を書かず、わざわざこういう書き方をしたのは、ダビデの罪を思い起こさせるためでした。ダビデはある日、王宮の屋上から一人の女が水浴びをしているのを見て、彼女に一目ぼれをします。彼女はダビデの部下であるウリヤの妻でした。ダビデは、故意にウリヤを激しい戦いの最前線に出し、戦死させてバト・シェバを自分のものにしたのでした(サムエル記下11章参照)。
これら四人の女性の名前は、イスラエルの歴史の中では暗い過去を思い起こさせる名前でした。彼女たち自身が罪の女性であったという意味ではありません。この四つの名前が、イスラエルの歴史の恥と悲惨さと不条理と生々しい罪の現実を象徴しているのです。
もしもこの系図が権威づけのためのものであるとすれば(そもそも女性の名を掲げることなどしなかったでしょうが)、アブラハムの妻サラやイサクの妻リベカの名を掲げたほうがよかったでしょう。マタイが、サラでもなくリベカでもなく、あえてこれらの女性の名前を掲げたのは、イエス・キリストが、このような人間の恥と悲惨さと不条理と罪の現実を身に負い、その流れの中にお生まれになったことを示すためでした。
その他のひとつひとつの名前にも何十年という歴史があり、さまざまなドラマがあったに違いないと思います。この中には、どういう人であったか、全くわからない人もたくさんあります。しかしそれらはすべて救い主を待ち望む歴史でありました。イエス・キリストは、そういうこの世の現実をくぐり抜けるようにして、天からこの地上に降りて来られました。そのことを思う時に、この味気なく映る系図の中に、すでに大きな福音が語られていることがわかるのではないでしょうか。

(4)待望と成就

マタイ福音書の大きな特徴は、旧約聖書との深い結びつきです。その意味では、1節に代表的に記されたアブラハム、ダビデという二人の名前は見逃せません。
アブラハムとは神様の命令に従って故郷を出発し、旅の人生を送った人でした。

 「あなたは生まれ故郷
父の家を離れて
わたしが示す地に行きなさい。……
地上の氏族はすべて
あなたによって祝福に入る」(創世記12:1~3)

マタイは、イエス・キリストを「アブラハムの子」と呼ぶことで、「アブラハムに与えられた祝福の約束が、何度も人間の罪のために断ち切られたように見えつつも、決して破棄されることなく、今イエス・キリストによって成就した」と宣言したのです。
一方、ダビデはイスラエルの歴史の頂点です。17節のところに、14代ごとに三つに区切った書き方がなされていますが、アブラハムからダビデまでの十四代はイスラエルの成長の時代、ダビデからバビロン捕囚までの十四代は没落の時代、それ以降の十四代は暗黒の時代であったと言えようかと思います。グラフのようなものを想像していただくと、最初のダビデまでの14代は上昇のライン、次のダビデからバビロン捕囚までの14代は下降のライン、そしてバビロン捕囚以降の14代は、低いままのラインです。17節の区切り方には、そういう意味があります。イスラエルの民は、没落の時代、暗黒の時代にも、ダビデ王を振り返りつつ、それに匹敵するメシア(救い主)を待ち望みました。
そしてこの暗黒に光がさしました。それがイエス・キリストの誕生です。イエス・キリストは彼らの期待をはるかにしのぐ方でした。イスラエルだけではなく、全人類の救い主、全人類の祝福の源として、まさに私たちの歴史の真ん中に立たれたのです。
私は今、これらのひとつひとつの名前にも、さまざまなドラマがあったに違いないと述べました。考えてみれば、それは私たち自身のドラマでもあるでしょう。栄光があると同時に、没落がある。そこには多くの苦しみと悲しみがあります。遊女をしなければ生きていくことができない人も含まれています。貧しい生活のために、ルツのように落ち穂拾いをしなければならない人もいます。お金はあってもダビデのように自ら深い罪のために、泥沼の中にある者もいます。
イエス・キリストは、そういう人生、そういう歴史というものを突き抜けて、「来たりたまえわれらの主よ」という祈りに応えるようにして、天からこの地上へ降りて来られました。そうであればこそ、「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らす」(ヨハネ1:9)のです。マタイはこの系図によって、何よりもまずそのことを私たちに伝えようとしたのです。

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