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2022年5月8日説教「新しい戒め」松本敏之牧師

ヨハネ福音書13章31~38節

(1)人の子讃歌

先ほどお読みいただきましたヨハネ福音書13章31節から35節までは、本日の日本基督教団の聖書日課です。あわせて、その続きの36節から38節までを、本日のテキストとしたいと思いますので、その箇所を読ませていただきます。

今日の箇所は、このように始まります。

「さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた。」(13:31)

実は、このところから「別れの説教」と呼ばれる長い部分が始まります。実際には、これらの言葉が、最後の夜に全部一息に語られたということではなく、イエス・キリストが遺言のようにして弟子たちに語られた言葉が、ここに集められているのでしょう。主イエスは、このように語り始められました。

「今や、人の子は栄光を受け、
神は人の子によって栄光をお受けになった。
神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、
神もご自身によって人の子に栄光をお与えになる。
しかも、すぐにお与えになる。」(13:31~32)

これは整った5行詩の形になっています。また「人の子讃歌」と呼ばれて、ヨハネ福音書冒頭の「ロゴス讃歌」(ヨハネ1:1~18)に対応していると言われます。「ロゴス讃歌」とは、「初めに言(ことば、ロゴス)があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。」(1:1~2)というものです。そして少し離れて、14節で、「この言は肉となって、私たちの間に宿った」(1:14)続きます。

あの「ロゴス讃歌」はクリスマスを指し示していると言えますが、それに対して、今日の箇所の「人の子讃歌」は、十字架と復活を指し示していると言えると思います。

「人の子が栄光を受ける時が来た」という言葉は、すでに12章33節に出てきました。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(12:24)という言葉と一緒に語られた言葉でした。

ですから、「栄光を受ける」と言っても、内容的に言えば、人々からあざけられ、唾を吐きかけられ、ののしられながら、極悪人として十字架にかけられて死んでいく、その出来事を指しています。それがどうして「栄光を受ける」ということと関係があるのか。それはまさにその出来事によって「神として立てられた」からであります。

もっともこの時には、まだ実際には十字架にかかっておられません。弟子たちもこれから何が起ころうとしているのか、全く理解していません。しかし父なる神様とイエス・キリストの間では、決定的な事柄はもうすでに始まっているのです。イスカリオテのユダがこの部屋から出て行った時に、スタートボタンが押されたと言ってもいいでしょうか。実現に向けて動き出したのです。「人の子は栄光を受け(た)」というふうに過去形で書いてありますが、これはギリシャ語のアオリストという特殊な過去形で、「やがて起こることが確実である場合の預言」として用いられる時制です。

「神も人の子によって栄光をお受けになった」ということは、イエス・キリストが十字架にかかることによって、父なる神様の方も、私たちの神であることが明らかにされた、ということでしょう。そして「神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神もご自身によって人の子に栄光をお与えになる」(32節)。ちょっと頭がこんがらがりそうですが、こちらのほうの「栄光をお与えになる」は、十字架の後のことだとすれば、恐らく復活を指し示しているのでしょう。「しかもすぐにお与えになる」と続きます。これは、イエス・キリストの隠れた復活預言と言えるのではないでしょうか。

(2)別れの言葉

「子たちよ、今しばらく、私はあなたがたと一緒にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。『私が行く所にあなたがたは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今あなたがたにも同じことを言っておく。」(13:33)

かつてイエス・キリストは、当時のユダヤ人たちに対して、「あなたがたは、私を捜しても、見つけることがない」(7:34)と語られました。どんなに殺そうと思って捜しも、神様が定められる時までは決して捕まえられないということでした。しかし今はその同じ言葉を弟子たちに向かって語られるのです。もちろん、弟子たちはイエス・キリストを殺そうとしているわけではありません。イエス・キリストを慕い、どこまでも一緒にいたいと思っています。しかしそのように願ってもそれがかなわない日が来るということ、別れの言葉なのです。ただそのように別れの言葉を語りつつ、慰めの言葉、励ましの言葉を、これから次々と語られることになります(14:18~19、16:7~8等)。

(3)「互いに愛し合いなさい」

さてここから始まる長い別れの説教の最初に語られたのが、「あなたがたに新しい戒めを与える」という言葉でありました。

「あなたがたに新しい戒めを与える。互いに愛し合いなさい。私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(13:34)

イエス・キリストは弟子たちの足を洗われた後で、「あなたがたも互いに足を洗い合うべきである」(13:14)とお命じになりましたが、ここではそのことをより普遍的な言葉で、「私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と語られるのです。これはヨハネ福音書全体の主題であると言ってもいいでしょう。この言葉は繰り返し出てきます。15章12節にも、「私があなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これが私の戒めである」と語られます。本当に伝えたいことであるからこそ、繰り返されるのです。

「新しい戒め」と言っても、「互いに愛し合わなければならない」というのは、みんな昔から知っていることであり、当たり前のことのように聞こえます。ヨハネの手紙一の中にも、こういう言葉があります。

「愛する人たち、私があなたがたに書き送るのは、新しい戒めではなく、あなたがたが初めから受けていた古い戒めです。その古い戒めとは、あなたがたがかつて聞いた言葉です。しかし、私は、あなたがたに、これを新しい戒めとしてもう一度書き送ります。それは、イエスにとっても、あなたがたにとっても真実です。闇が過ぎ去り、すでにまことの光が輝いているからです。光の中にいると言いながら、きょうだいを憎む者は、今なお闇の中にいます。きょうだいを愛する者は光の中にとどまり、その人にはつまずきがありません。」(ヨハネ一2:7~10)

これは、「互いに愛し合う」ということが、昔から聞いてよく知っていることであるにもかかわらず、それを実行するのがいかに難しいかを示していると思います。だからこそ、イエス・キリストという光のもとで、イエス・キリストに愛されていることを出発点にしながら、新しい戒めとして聞かなければならないのです。この文章はずっと先まで続きますが、最後にこう結ばれます。

「子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いと真実をもって愛そうではありませんか。」(ヨハネ一3:18)

このイエス・キリストの新しい戒めが私たちの世界に実現するならば、それこそ、世界平和が実現する時でしょう。特に、ロシアがウクライナに侵攻している今、まさにこの時、そのことを強く思うのです。イエス・キリストは、模範として、それを私たちに示されたのでした。

(4)『クオ・ヴァディス』

その先を見てみましょう。ペトロは主イエスの言葉や態度の中に、いつもと違う何かを感じ取ったのでしょう。そして「主よ、どこへ行かれるのですか」(36節)と尋ねました。

この「主よ、どこへ行かれるのですか」という言葉は、ラテン語では「クオ・ヴァディス、ドミネ」という言葉です。これを聞いてぴんと来る方もあろうかと思いますが、『クオ・ヴァディス』というのはポーランドのシェンキェヴィッチという作家が1896年に書いた小説の題名です。ノーベル文学賞を得た小説であり、何度も映画化されています。サイレント時代にもイタリアで3回映画化されましたが、一番有名なのは1952年にアメリカで製作された映画でしょう。私も子どもの頃にはらはらしながら観た記憶があります。さらに2001年にもリメイク版が作られています(ポーランド・アメリカ合作)。

『クオ・ヴァディス』はローマ帝国の皇帝ネロがキリスト教徒を迫害した時代の話です。その中に男女の恋愛とか、いろんなドラマが盛り込まれていますが、最後の方は、こういうストーリーです。

ネロは新しい首都ネロポリスを建設するために、ローマを灰燼に帰そうと決心します。そして火をつけて、それをキリスト教徒のせいにするのです。リギアというクリスチャンの女性に恋をしたマルクス・ウィキニウス(彼もリギアの影響を受けて、クリスチャンになります)は、ローマが燃えていると知って、戦車を駆って火の海に飛び込んでいきました。群衆を安全な場所に避難させて、リギアを無事に探し出します。ネロの極悪非道のふるまいに、とうとう群衆もついに耐えかねて反逆の狼煙をあげていくのです。ネロはキリスト教徒に弾圧を加え、彼らをコロセウム(大闘技場)に引き出し、ライオンの餌食にしようとします。マルクスも捕らえられてしまいました。

一方、ペトロは他のクリスチャンたちから、「このローマにはもう羊はいないから、どうかあなたは生きのびて、他の羊のいる町へ逃げください」と告げられ、ナザリウスという少年と共に、夜明け前に、そっとローマを出て行こうといたします。ところがその途上で、ペトロは向こうからやって来るキリストに出会うのです。その時ペトロが語ったのが「クオ・ヴァディス、ドミネ(主よ、どこへ行かれるのですか)」という言葉でした。イエス・キリストは、こう答えられました。「おまえが私の民を見捨てるなら、私はローマへ行って、もう一度十字架にかかろう。」ペトロは、その言葉を聞き、悔い改めて、ローマへ引き返していきました。そして捕えられ、晴れやかな表情で十字架にかかって死んでいくのです(シェンキェヴィッチ作、吉上昭三訳『クオ・ヴァディス』福音館書店参照)。

「主よ、どこへ行かれるのですか」という言葉は、もともとは今日の聖書の箇所に由来するのでしょうが、ペトロは何度も何度もこの言葉を、主イエスに向かって発したのではなかったでしょうか。ちなみに、ローマ郊外の旧アッピア街道には、「クオ・ヴァディス教会」が建てられています。

(5)ペトロの信仰の原点

ペトロは、「主よ、なぜ今すぐ付いて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます」(37節)と言いました。私は、この時のペトロの気持ちに、うそはなかったと思います。しかし主イエスは、ぴしゃりとこう言われました。

「私のために命を捨てると言うのか。よくよく言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度、私を知らないと言うだろう。」(13:38)

これは、聖書の中では有名な問答です。福音書というのは、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ、それぞれ別の視点で書かれています。特にヨハネは他の三つの福音書と全く違う書き方で記されていますが、この話は、四つの福音書全部に出てくる数少ない話の一つなのです。ペトロは、福音書が書かれた時には、当時の教会で最も権威ある存在でした。ローマ・カトリック教会にとっては初代教皇です。そうであれば、ペトロの恥になるようなことは、あまり歴史に残さない方がいいと考えるのが普通ではないでしょうか。しかし恐らくペトロ自身が、どこへ行ってもこの問答と自分がイエス・キリストを否定したという出来事を、自分の信仰の原点として語っていたのではないでしょうか。それで福音書記者たちもこぞってこれを記したのではないかと思うのです。

(6)復活の主の言葉

イエス・キリストは、ペトロに向かって「私の行く所に、あなたは今付いて来ることはできないが、後で付いて来ることになる」(36節)と言われました。これも不思議な言葉です。イエス・キリストは、ペトロが自分を否定するということを預言するだけではなくて、その先まで読んでおられるのです。ヨハネ福音書の最後のところで、復活のイエス・キリストが、シモン・ペトロと話をされる場面が出てきます(21:15~19)。

ペトロに対して、「ヨハネの子シモン、この人たち以上に私を愛しているか」と尋ねられました。ペトロは、「はい、主よ、私があなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答えます。イエス・キリストは「私の小羊を飼いなさい」と命じられました。主イエスは、再び尋ねられました。「ヨハネの子シモン、私を愛しているか。」ペトロは答えます。「はい、主よ、私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。」「私の羊の世話をしなさい。」二回目です。もう一度言われます。「ヨハネの子シモン、私を愛しているか。」ペトロは三回も聞かれたので、悲しくなりました。「主よ、あなたは何もかもご存じです。私があなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」主イエスは「私の羊を飼いなさい」(17節)と命じ、最後に「私に従いなさい」(19節)と告げられるのです。

主イエスはきっと、ペトロが三回自分を否定したそのことを、一つ一つ数えながら赦していかれたのでしょう。ペトロはやがて主イエスが「後で付いて来ることになる」と言われた通りに、殉教の死を遂げていくことになります。しかも彼は、聖書新約外伝のひとつ、『ペトロ行伝』によれば、自ら希望して、頭が下で、足が上になるように、逆さはりつけになったと伝えられています。

私たちも、時々、取り返しのつかないような過ちを犯してしますことがあります。私も、何度かそういうことを繰り返しています。何度も、と言ったほうがよいかもしれませんが、はっきりと記憶にあるだけでも何度かあります。それでもイエス・キリストは、ペトロを赦し、そして立ち上がらせてくださったように、私たちをも赦し、立ち上がらせ、新たに従う者としてくださるのです。そのことを信じて歩みだしていきたいと思います。

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