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2020年6月14日説教「顕現」松本敏之牧師

顕現
出エジプト記による説教(5)

出エジプト記3:13~22  フィリピ2:6~11

(1)アブラハム、イサク、ヤコブの神

 前回、「私たちの人生において最も大きな問いは『私は何者か』という問いではないか」と申し上げました。この問いに並ぶもう一つの大きな問い、あるいはもしかするとそれ以上の大きな問いは、「神とは何者か」「神はどういう方か」という問いではないでしょうか。出エジプト記第3章は、神様ご自身がモーセに語りかけ、自分が何者であるかを告げられた箇所であります。
 前回の箇所になりますが、燃える柴の中からモーセに現れた神様は、ご自分の方からこう言われました。「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」(6節)。これはいわば、神様の自己紹介です。
 聖書の神様は、歴史を貫く神です。アブラハム、イサク、ヤコブというのは、創世記に登場するイスラエルの父祖たち(族長たち)の名前です。その父祖たちの神が、今モーセに語りかけられるのです。この言葉は、15節に再び出てきます。聖書の神は、抽象的な、漠然とした神ではなく、何よりもまず、このように具体的に、イスラエルの歴史に現れた神です。もちろんその神は、ただイスラエルの神であるだけではなく、全世界の人々の神でありますが、そのことはやがてイエス・キリストを通してよりはっきりと示されることになります。

(2)「わたしはある、という者」

 神様の「わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ」(10節)という命令を受けて、モーセは神様にこう語りました。「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか」(13節)。
 このモーセの問いに対して、神様はこう答えられました。「わたしはある。わたしはあるという者だ」(14節)。何だかわかったような、わからないような謎のような言葉です。古来さまざまな解釈がありますが、その幾つかをご紹介いたします。
 まずこの言葉の原語ですが、「エヒエー・アシェル・エヒエー」というヘブライ語です。「エヒエー」というのは「私はある」、あるいは「私は何々になる」という両方の意味があります。英語で言うと、I am. または I will be. ということです。「アシェル」というのは、文法用語の関係詞です。英語の who あるいは whatというのに近い言葉です。その関係詞をはさんで同じ言葉が並んでいる。普通は関係詞の前後は違う言葉であり、うしろの言葉が前の言葉を説明するようになります。ところが、ここではただ同じ言葉を繰り返しています。説明ではなく、強調か、あるいは一種の言葉遊びのようになっています。
 まず新共同訳聖書は、これを「わたしはある。わたしはあるという者だ」と訳しています。「神は他の何者によっても左右されない、自分だけで存在し、自分の中にのみ存在基盤がある」という意味であろうと思います。存在ということを強調しているという解釈と言えるでしょう。
英語の標準的な訳のひとつNRSVでは I am WHO I am と訳していますが、これも、それに近いニュアンスです。以前の口語訳聖書は「わたしは、有って有る者」と、その前の文語訳聖書は、「我は有(あり)て在(あ)る者なり」と訳していました。これらも存在の強調、ということになるでしょう。
ちなみに新しい聖書協会共同訳は「私はいる、という者である」と訳しています。最初は「えっ」と思いました。「私はいる」だと、神様の存在が随分軽くなった感じがします。しかし考えてみると、日本語としては、人間や動物の場合には「いる」と言うのが自然です。「私には兄がいる」とか、「うちには犬がいる」と言います。「私には兄がある」「うちには犬がある」とは言いません。動物ではない場合には「犬の置物がある」と言います。
 また「私はいる」という訳で、神様の存在が軽く感じる分、逆に言うと、神は身近にいてくださる、また共にいてくださる、というニュアンスが増したのではないでしょうか。これは、新約聖書のイエス・キリストの呼称である「インマヌエル」(神は我らと共におられる)にも近いニュアンスがあります。そう考えると、これもなかなかよい訳だと思うようになりました。

(3)神の決意の表明

二つ目の解釈ですが、たとえば岩波書店版の聖書では、「わたしはなる、わたしがなる者に」と訳されています。英語の聖書にも I will be What I will be という、これに近い訳がありました。別の訳では、「私は有るところの者になるであろう」という訳もありました。それはただ単に神は存在するということではなく、彼らのために誠実に神であろうとするという神の意志を指しているという解釈なのです。フレットハイムという注解者は、さらにこう説明します。「神はいつでもどこでも、民と共にあり、また民に味方する神になろうとする。この表現は神の自己自身への忠実さを示す。すなわち、どこにおいても神が神であり続ける限り、神は現にある神の本質であろうとするのである。」また鈴木佳秀氏の注解書では、「わたしはあろうとして、わたしはあろうとするのだ」と訳しています。神はモーセに対して、「わたしは必ずあなたと共にいる」と約束されましたが(12節)、ここではそれを継承して、救いのために働きかける神の意志と揺るぎない決意を伝えているのであって、名前を明らかにすることに力点があるのではないと、鈴木氏は言うのです。私は、こうした解釈に心惹かれます。
 「モーセと共にいる」という約束・決意は、同時に「モーセが遣わされる先のイスラエルの人々と共にいる」という約束・決意であると言ってもよいでしょう。だからこそ、神様はこう続けるのです。
「イスラエルの人々にこう言うがよい。あなたたちの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主がわたしをあなたたちのもとに遣わされた。これこそ、とこしえにわたしの名、これこそ、世々にわたしの呼び名」(15節)。
ここで神様は、自分がどういう神であるかを示される。「私はあなたと共にいる」と約束したけれども、それを決して裏切らない。どこまでもあなたたちと共にいる神だ。私の名前を聞かれたら、「そういうふうに告げよ」と言ったということです。

(4)虐げられた者を解放する神

 モーセが遣わされる先のイスラエルの人々とは、どういう人々であったでしょうか。それは、16節に示されるように、「エジプトで奴隷にされ、苦しい目に遭わされている民」です。「わたしは、あるところの者になるであろう」ということは、具体的には、この苦しむ民と共にある、ということになると思います。その人たちの叫びを聞き、その人たちを見捨てはしない、という神様の決意です。
神様はこう言われます。「あなたたちの先祖の神、アブラハム、イサク、ヤコブの神である主がわたしに現れて、こう言われた。わたしはあなたたちを顧み、あなたたちがエジプトで受けてきた仕打ちをつぶさに見た。あなたたちを苦しみのエジプトから、……乳と密の流れる土地へ導き上ろうと決心した」(16~17節)。
そしてこの言葉は、ただ単にイスラエル民族と共におられるということだけではないでしょう。歴史的なことを踏まえつつ、それを超えた言葉であると、私は思います。それは、誰かが誰かの犠牲になっている時、誰かに苦しめられている時、あるいはある民族が別の民族に苦しめられている時、神様は苦しめられている人の側に立って、そういう抑圧をなくし、不正をなくし、公正な社会に向けて働かれるということを指し示しています。私はそういう者だと、自分をあらわしておられるのです。
神様は、決して中立的に、第三者的に、存在するというのではない。立場をとって、つまり苦しめられている人の側に身をおいて、そういう人たちの解放のために働かれるということを、この神様の名前は高らかに宣言しているのです。

(5)労苦の報い

第3章の終わりには、少し戸惑うようなことが書かれています。「出国に際して、あなたたちは何も持たずに出ることはない。女は皆、隣近所や同居の女たちに金銀の装身具や外套を求め、それを自分の息子、娘の身に着けさせ、エジプト人からの分捕り物としなさい」(21~22節)。
 略奪、強奪を正当化しているようにも聞こえます。しかし私は、これは、むしろこれまで無償で働かされてきた奴隷たちに、「当然の労苦の報いを得てよいのだ」と保証されたのだと思います。働きに対して何も報いが与えられないというのは間違っている。あなたたちはその当然のものを得て、ここから出ていくのだということを言われたのでしょう。
 旧約聖書に続編(外典)の中に「知恵の書」という書物があります。この「知恵の書」の著者は、イスラエル人がエジプト人の物を奪い取ったことを、奴隷として長年無償で働いた「労苦の報い」だと、はっきり書いています。(「知恵」というのは、人格化された、いわば神様のような存在であるとお考えください。)「知恵は清い人々に労苦の報いを与え、驚くべき道を通らせ、昼間は彼らの避難所となり、夜は彼らの星明かりとなった。彼らに紅海を渡らせ、大量の水の間を通らせた。」(知恵の書10:17~18)。奴隷として働いてきたその労苦は、報われるというのです。

(6)新約聖書における神の名

 さて新約聖書では、この「神の名」はどのように引き継がれているでしょうか。
 マリアがイエスを身ごもった時、天使がヨセフの夢に現れて、こう言いました。「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である」(マタイ1:21~23)。
 イエスという名前には「ヤハウェ(神)は救い」という意味があります。またその子は、「インマヌエル」(神は我々と共におられる)と呼ばれるというのです。それは、出エジプト記3章であらわされた神の名に通じるものでしょう。特に聖書協会共同訳の「私はいる、という者だ」というのは、これと重なってきます。
 神は、私たちと共にあるために、それをはっきりと示すために、人間イエスとなって歩まれたということができるでしょう。それが新約聖書のメッセージです。
しかも人間の中でも最も苦しめられる形を取り、最も忌み嫌われる十字架という形で殺されることになりました。しかしそのように低く低くなることによって、神は反対にそのお方を高く高く引き上げられました。そしてそのお方に「あらゆる名にまさる名」をお与えになったのです(フィリピ2:6~11参照)。

(7)白人警官による黒人暴行殺人事件

5月25日、米国ミネアポリスにて、白人警官による黒人の暴行致死(殺人)事件が起きました。そしてその後、これに対する抗議活動がアメリカ全土に広がっていきました。その背景には、長年にわたるアメリカにおける黒人差別があります。ブラック・ライブズ・マター(黒人の命は大切)という言葉がスローガンとして掲げられ、そう名付けられた通りもできました。
私は、最近、黒人神学の創始者と言われるジェイムズ・コーンの遺著『誰にも言わないと言ったけれど』という本の書評を書きましたが、そのために、この本を精読しました。まさに、今という時期に最も読まれなければならない本だと思いました。著者のコーンは、私がニューヨークのユニオン神学校時代の恩師でもあります。彼は、授業中でも「今日の北アメリカにおいて、イエスが最も抑圧された民と共にあるというならば、イエスは黒人だ(ジーザス・イズ・ブラック)」と言い切っていました。
コーンは、主著とも言える『十字架とリンチの木』において、黒人たちがリンチを受け、ポプラの木に吊り下げられた姿とキリストの十字架を重ね合わせました。ポプラの木に吊り下げられた黒人の姿の中に、キリストの十字架を見たのです。
コーンは、黒人以外のさまざまな抑圧された人々と出会うことによって、その神学の幅を広げていきました。新著『誰にも言わないと言ったけれど』では、自分の神学は、黒人にとどまらず、国境目前で足止めされた移民、ビザを持たない労働者たち、LGBTQの人々、虐待されている者、周縁に置かれた者、忘れ去られた者など、人間であることを守ろうとしているすべての人々のためにあるのだと述べています。
これらのことは、出エジプト記にあらわされた神様の姿、「苦しみ、抑圧されている民を決して見捨てず、その民と共に歩み、その民を解放する」という姿に通じます。私たちも、それを知ることによって、神がどういう方であるか、神とは誰かが、より鮮やかに見えてくる。そして私たちは、自分がどこにいるかを見極め、何をなすべきかが示されてくるのではないでしょうか。

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