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2022年5月1日説教「毎日、聖書を読もう」松本敏之牧師

出エジプト記20章1~17節、ルカによる福音書11章27~28節

(1)年間主題

2022年度が始まってひと月が過ぎました。2021年度は、「聖書に親しみ、み言葉を蓄えよう」という年間主題を掲げ、聖書通読の勧めをしてきました。2022年1月末で新約聖書を終わり、2月から旧約聖書に入っています。新年度は、「聖書に親しみ、み言葉を蓄えよう」という主題を続けることも考えましたが、そうした歩みの延長線上で、もっと直接的に「毎日、聖書を読もう」という年間主題にしました。

この年間主題を心に留めながら、それに関係のある聖書の言葉を、年間聖句として二つ選びました。一つは、旧約聖書からイザヤ書40章8節の「草は枯れ、花はしぼむ。しかし私たちの神の言葉はとこしえに立つ」という言葉です。

(2)絶望の中での慰め

この言葉が記されているイザヤ書というのは、大きな書物ですが、実は三つの部分に分けられ、その三つは著者も時代背景も違うのです。この言葉が出て来る40章から58章までは第二イザヤと呼ばれ、紀元前6世紀前半に書かれたと言われます。イスラエルの国はダビデからソロモンにいたる全盛期から大分年月が経ち、北イスラエル王国は紀元前8世紀後半に、すでに当時の大国アッシリアによって滅ぼされていました。それから100年あまり経った紀元前6世紀の前半、当時の大国バビロニアによって、都エルサレムが攻められて陥落し、主だった人がバビロニア帝国の都バビロンに連れて行かれて行った時代です。

そうした状態、つまり町も破壊され、人々の心も打ちひしがれているような状況の中で、預言者第二イザヤが立てられていくのです。その第二イザヤは、このように始まります。

「『慰めよ、慰めよ、私の民を』と、
あなたがたの神は言われる。
『エルサレムに優しく語りかけ
これに呼びかけよ。
その苦役の時は満ち
その過ちは償われた。
そのすべての罪に倍するものを主の手から受けた』と。」(イザヤ40:1~2)

打ちひしがれるエルサレムの民を立ち上がらせる言葉です。

そしてこう続けます。

「呼びかける声がする。
『荒れ野に主の道を備えよ。』」(イザヤ40:3)

これは、新約聖書でも、イエス・キリストの道備えをする洗礼者ヨハネを指す言葉として引用されますが、ここではそこまで広げないで、もともとの文脈で読んでいきましょう。少し飛ばして、こう続きます。

「『呼びかけよ』と言う声がする。
私は言った。『何と呼びかけたらよいでしょうか。
『すべて肉なる者は草
その栄えはみな野の草のようだ。
草は枯れ、花はしぼむ。
主の風がその上に吹いたからだ。
まさしくこの民は草だ。』」(イザヤ40:6~7)

(3)大国の栄枯盛衰、ロシアの終焉

「草は枯れ、花はしぼむ」というのは自然の摂理で、いわば当たり前のことですが、ここでは自然の営みのことを言おうとしているのではありません。自然の営みを見据えながら、人間の世界のことを述べているのです。どんなに栄えても、それはいつか終わりが来る。第二イザヤは知っていました。北イスラエルを滅ぼしたアッシリア帝国もすでに存在しないことを。そして同じように今、自分たちを苦しめているバビロニア帝国もそう長くは続かないことを。

その次に栄えるのはペルシャ帝国です。ペルシャ帝国の台頭により、イスラエルの主だった人々はバビロン捕囚から解放されることになります。歴史をたどってみると、イエス・キリストの時代からその後の時代に栄華を極めたのはローマ帝国でした。ローマ帝国の栄光は長く続きましたが、永遠ではありませんでした。スペイン帝国、大英帝国と、世界の覇者は交代していきました。「草は枯れ、花はしぼむ」というのは、そうした状況を語っています。

20世紀になって、1917年にロシア革命が起こり、その後ソビエト連邦が出現しました。スターリンの時代に、その力は頂点に達したかもしれませんが、その後衰退し、1991年にソビエト連邦は崩壊します。その中心はロシアが引き継ぐことになりましたが、今、プーチンを中心とするロシアの指導者たちは、ソビエト連邦の栄光を取り戻そうという幻想に取りつかれているように見えます。しかし歴史は元へ戻せません。今、私たちはソビエト連邦からロシアという大国の終焉、何とか衰退を食い止めようとすればするほど、泥沼にはまり、無謀な行動に突き進み、やがて力を失っていくという悪循環の状態を目の当たりにしているようです。

(4)朽ちない種から

聖書は、この世界の始まりに、神の言葉があった、と告げます。

「初めに神は天と地を創造された。……神は言われた。『光あれ。』すると光があった。」(創世記1:1、3)

またヨハネ福音書の著者はこう語ります。

「初めに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった。この言葉は、初めに神と共にあった。万物は言葉によって成った。言葉によらずに成ったものは何一つなかった。言葉の内に成ったものは、命であった。この命は人の光であった。」(ヨハネ1:1~4)

もちろん聖書に書かれている言葉がそのままで固定された神の言葉として絶対だということではありません。そういう読み方は、かえって危険かもしれません。聖書の言葉自体が時代の中で書き記された人間の言葉でもあることをわきまえつつ、その中に輝く不変のものがあるのです。そして人間の言葉という「土の器」(コリント二4:7)の中に「神の言葉」という宝が入っているのです。

そしてこの言葉は、新約聖書でも引用されています。ペトロの手紙一1章24節です。

著者はこう語ります。

「あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生ける言葉によって新たに生まれたのです。こう言われているからです。
『人は皆、草のようで
その栄えはみな草の花のようだ。
草は枯れ、花は散る。
しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。』
これこそ、あなたがたに福音として告げ知らされた言葉なのです。」(ペトロ一1:23~24)

「毎日、聖書を読む」ことによって、その変わることない神の言葉と出会い、またきらりと輝く人生の指針のような神の言葉を発見していただきたいと思います。

(5)幸いと幸せ、山浦玄嗣氏の理解

もう一つ、新約聖書からの年間聖句は、ルカによる福音書11章28節の「幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である」という言葉です。これはイエス・キリストが語られた言葉です。

この段落は「イエスがこれらのことを話しておられると」と始まります。何を話しておられたのでしょうか。それは悪霊を追い出す話でした。その時、突然、一人の女性が声を張り上げたのです。そのこと自体(つまり、人の話の途中に、突然大声で叫び出すこと自体)、もしかするとこの女性も精神的な病を負っていたのかもしれないなと思います。そして「悪霊を追い出される」話に強く共感したのかもしれません。

そして女性ならではの視点で、「なんと幸いなことでしょう。あなたの宿した胎、あなたが吸った乳房は」と叫びます。その声は、イエス・キリストにも届いたのでしょう。まわりにいた人々の反応は記されていませんが、「その通りだ」と思った人もいたことでしょう。逆に、「変なことを言う女だ」と思った人もあるかもしれません。そこでイエス・キリストは、その言葉を肯定も否定もせず、こう応答されました。

「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。」(ルカ11:28)

ここでも何が幸いであるか、道づけられます。

ここに「幸い」という言葉が使われていますが、私にはひとつの思い出があります。東日本大震災の時、岩手の大船渡で津波の被害を受けられたお医者さんで山浦玄嗣(はるつぐ)という方がおられますが、一度、私の前任地で礼拝のメッセージをお願いしたことがありました。その時、ユーモアたっぷりに、とても深いお話をしてくださり、被災された方からこれほど多くの励ましと笑いを受けようとは思ってはいませんでした。

山浦さんは、東北地方の言葉、ケセン語訳聖書の翻訳者として有名です。礼拝メッセージの中でも、聖書翻訳にまつわるエピソードをたくさん話されました。その中の一つに「幸い」という言葉がありました。聖書の中の有名な言葉に、「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」(マタイ5:3)という言葉がありますが、山浦さんは、これについて以下のように述べられました。

「普通、日本人は、こういう時は『幸い』とは言わない。『幸せ』という。『幸い』というのは、『もっけの幸い』のように、あまりいい意味ではない。ちなみにインターネットで『幸い』という言葉を検索し、上から100件の内容をチェックしたら、その半分は、牧師さんの説教でした。つまりキリスト教世界だけがそういう使い方をするということでしょう。

そして、司会者席にいる私の方を向いて、にやりとされました。私も一緒になって大笑いしたのですが、家に帰って、翌月の予定表を見ますと、「説教『真の幸い』松本敏之」となっていて、どきっとしました。山浦さんにも翌月の予定表をお送りしていましたので、もしかして、それを知っておられたのかなと思いました。

(6)山浦玄嗣『ガリラヤのイェシュー』

ちなみに山浦玄嗣さんは、その後、全く新たな地平の福音書、『ガリラヤのイェシュー』という面白い翻訳聖書を出版されました(2011年、イー・ピックス出版)。山浦さんは「今の聖書は日本語になっていない、世間の言葉とかけ離れ過ぎている」と言われ、「これはケセン語ならぬ、セケン(世間)語聖書だ」とおっしゃいました。

この聖書は、幕末時代の日本語で訳されています。当時のパレスチナ地方を日本各地にあてはめて、ガリラヤの人たちとイェシュー(イエス・キリスト)は岩手県気仙地方の言葉(山浦さんにとっては、当然そうでしょう)、カファルナウムの人々は仙台弁、ガリラヤ北部は盛岡弁、デカポリス地方の異邦人は津軽弁、イェルサレム(エルサレム)の人々は京都弁、ローマ人は鹿児島弁(幕末当時は薩摩の人は偉そうにしていましたから)、地の文は幕末期の日本語風公用語という具合です。

ちなみに、山浦さんは、この箇所を幕末の世間語で、こう訳しておられます。

「イェシューさまがこんな話をしていたときのことでござる。聞いていた人の中からある女子(おなご)が声を上げてこう言ってござる。
『そなたさまをその腹に孕み申して、そなたさまにお乳を吸わせ申したお方はなんと幸せなことでござりましょう!』
しかしイェシューさまは言いなさった。『いやいや、それよりも、神さまの言葉を聞いて、それを守る人の方がもっと幸せでござるよ。』」

さて内容のことを言いますと、私たちの中には、立派な親戚、立派な子どもや立派な親によって、幸い(幸せ)を得る人があります。反対に、いやな親戚、だめな親戚によって不幸になったと感じる人もあるかもしれません。しかしそういうことよりももっと大事なことがあると、主イエスは指摘されるのです。それは神の言葉を聞き、それを守ることだと。ここにも私たちの真の幸い、いや真の幸せがどこにあるかが語られていると思います。

(7)十戒とは、幸せへの指針

さて、鹿児島加治屋町教会の旧約聖書の聖書日課は、4月から出エジプト記に入っています。今年度も、この聖書日課による説教を月に一度くらい行いたいと考えていますが、出エジプト記に関しては、2年位前から主日礼拝の説教でも、月に一度くらいのペースで取り上げてきました。先週、今週あたりで、聖書日課の箇所が、ゆっくりペースで進んでいる出エジプト記の説教箇所に追いつき、追い越そうとしているところです。昨日の箇所が、ちょうど先日説教をした出エジプト記16章の「マナの奇跡」の箇所でした。今回も、どこかを読むとすれば、せっかくなので、有名な十戒の言葉を読むことにしました。

十戒とは、「何々してはならない」という言葉が並んだ規則集、あるいは神様と人間の間のルール本という風に思われる方もあるかも知れません。しかしながらこれはそういうことをはるかに超えて、神様と人間の生きた関係を示すものであります。

神様が私たち人間に興味を持ち、かかわりを持とうとされる。そして私たちの歴史の中に直接入ってこられて対話をされる。人間がどのようにすれば、神様の前にも、隣人の前にも正しく生きることができるかということを、神様の方から明らかにされたものであるということができるでありましょう。

東京神学大学教授で友人の小友聡さんが、前任地の経堂緑岡教会夏期全体修養会に来てくださったことがありましたが(2001年)、小友さんは、十戒は束縛するためのものではなく、自由を与えるためのものであると述べられて、一つのたとえを語られました。

「こんな風に考えるといいと思います。子どもを例にとって考えますと、広い遊び場があり、神様は柵を設けられた。これより先へ行くと危ないよ、と柵を設けられた。この柵を十戒と考えてみてください。広い遊び場の中に柵がある。この柵はむしろ神様が私たちの自由を擁護するものです。この柵を越えたならば、自由どころか、命を失うことになります。命を失うならば、自由の意味が全くなくなってしまう。神様は私たちの自由を保障するために、十戒を与えてくださった。要するに十戒は、私たちが神様から自由を与えられている証拠であるという風に考えることができます。いずれにしても十戒は、私たちから生きる自由を奪うものではない。」

これはよくわかる的確なたとえではないでしょうか。大人と子ども、あるいは親と子。お父さん、お母さんが子どもに「これこれ、こういうことをしてはならない」というのは、子どもを束縛するためではなくて、ましてや虐待するためではなくて、その子どもが自由に、活き活きと、伸び伸びと生きるためのものである。ちょうど、神様がエデンの園にいたアダムに対して、「園の中央にある木からだけは取って食べてはならない。それを食べると、死ぬことになる」と言われた延長線上に十戒を見ることができるのではないでしょうか。その意味で、この十戒も私たちの幸せがどこにあるのかを指し示す指針であるということができるでしょう。

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