2026年5月10日説教「新しい教え」牧師 申定姫(シン・ジョンヒ、大韓イエス教長老会仁川東老会派遣宣教師)
使徒言行録 17:22-31 ペテロの手紙Ⅰ 3:13-22
1. 挨拶のことばと自己紹介
今日はイースター第六の主日であります。イースターがたった一日で終わるのではなくて、 7週間続くのは、その喜びがとっても大きいというのを示す教会の伝統でありますね。今日はその喜びを鹿児島加治屋町教会の皆さんと分かち合うこととなってなお喜んでいます。
私は今年、日本上陸11年目の韓国人の宣教師の申 定姫(シン ジョンヒ)と申します。‘日本上陸’というと笑う方もいらっしゃるのですが、実際に出入国の時、パスポートに押されるハンコには‘日本上陸’となっています。単なる入国、出国ではなくて‘上陸‘という表現を使うことから、日韓の差を見計らうことができます。
私は幼い頃から日本に興味があり、また好きだったので、いつかは日本で住んでみたいなと思っていました。そういったある日、ただ教会に通っていただけの私が、神に出会う経験をします。それから自分の人生を神に献げようと、宣教師になろうと決心しました。しかし、実際に日本に来るまでは時間が結構かかりました。2016年3月、私たち4人家族が鹿児島に上陸しました。
それから、あんなに憧れてやまなかった日本での生活が始まりますが、しばらくの旅行としての日本ではなく、外国人としての他郷暮らし、日本での生活はあんまり甘くなかったのでしょうね。戸惑ったり、つらかったり、時には涙を流したこともあります。そういう時間を貫き、今は日本基督教団鹿児島教会の協力宣教師となり、このように、鹿児島加治屋町教会の皆さんの前、み言葉を分かち合うこととなったのは、すべて神の恵みと導きであります。
2. 母の日、母の言葉
今日は特に母の日なんですよね。来月の第2週目は、父の日なのでしょう。韓国の場合は、 5月8日が‘両親の日’となっていて一気に祝うのです。それから、5月第2週目の主日は大体親子の関係に関した説教を行ったりします。
私たちは普通神をお父さんと呼んでいますが、たしかに、母親のイメージ、役割も含まれていますね。‘女が自分の胎の子を憐み、自分の乳飲み子を忘れないように、たとえ女が忘れるとしても、この私は忘れない’というイザヤ書(49:15)の御言葉が代表的なものです。
多くの場合、子どもたちは母の助言が自分の人生に役に立つと思いながらも、その当時には、それを拒んだり聞き流したりして、後年老いてから悟ることが多いでしょう。 これは、私たち信仰者たちと神との間でも同じではないでしょうか。私たちが幼い頃から教会に通っていて、聖書を知り、たくさんのことを学んで来たとしても、そのみことばの深みがわかり、そのみことばが自分の人生に力を発揮するまでには時間がかかります。
聖書をたくさん読んでいて、その内容が全部わかると思っても、そのみことばが本当に自分の人生を変えるまでは、聖書の内容はいつも‘新しい教え’となる理由がそこにあります。
3. パウロの第二伝道旅行、アテネでの説教
使徒言行録17章16節以下は、パウロがギリシアのアテネで活動する姿を見せてくれます。今日のみ言葉の22節から31節までは、アレオパゴスでの説教がその主な内容となっています。
パウロは第二伝道旅行で、自分の計画とは違って、聖霊の導きによっていきなりヨーロッパに渡して行きます。ピリピでの投獄、テサロニケでの3週間の働き、それによってユダヤ人たちの迫害が起きます。それを免れようとべレアに避難し、しかしそこにまでついて来たユダヤ人たちを避けてアテネに逃げてきたというのが、今日のみ言葉の背景となります。
アテネはかつてギリシャの都として、文化と哲学と芸術の中心地でした。ローマの植民地となった今も、自治を認められるプライドの高い都市でした。しかし、パウロから見ると全ての偶像の温床のように感じられ、パウロは憤慨します。
私は宣教師として日本を見るたび、このアテネととっても似ていると感じます。八百万の神の国、どこにでも神社があり、その神社を管轄する神々がある国。宗教心は厚いかもしれないけど、実は無神論者の国としてですね。
ここにいらっしゃる皆さんは、そういう国で神を信じ、イエスキリストの復活を信じる方々なので、皆さんこそ神の奇跡であり、イエス復活の証人ではないでしょうか。 そういう日本の状況で、‘どうやって伝道することができるか、どのように伝道すればいいのか?’というのが私の去る十年間の課題でした。全く神に関して、イエスキリストの復活について、教会に関して聞いたこともなければ、経験したこともない日本人の方々に、如何にして福音を述べ伝えるかということです。
韓国の場合、およそ人口の20%から25%程度がクリスチャンです。キリスト教は社会で受け入れられます。韓国では伝道する時、その福音の主な内容を人々がほとんど知っています。ただし、それを信じない、拒むだけなのです。
しかし、日本はどこからどのように説明すればいいのか漠然とするほど、神に対して、聖書の内容やイエスキリストに対して知らないのです。今のパウロの状況と同じです。
それにもかかわらず、使徒パウロは戸惑うことなく、聴衆たちの構成や特性などをよく把握した後、彼らにぴったり合う方法で福音を宣べ伝えています。
4. 妥協できる話、妥協できない福音
パウロはひとまず満ちた偶像崇拝を非難するより、彼らの熱い宗教心を認めつつ、話の扉を開きます(22)。相手を認めることが何より優先されるべきなのでしょうね。興味深いのは、パウロはユダヤ人たちの会堂に入って、ユダヤ人たちに説教する時とはかなり違う話し方で説教を行ないます。
普通パウロはユダヤ人たちに対しては、旧約聖書の内容とイスラエルの歴史の話から始まります。彼らがよく知っている旧約聖書の預言とその成就という観点で説明します。神の契約と律法など、旧約の箇所を用いますね。例えば、イザヤの主の僕の苦難と復活のメッセージをイエスの物語につなげます。
しかし、このアテネの異邦人たちには、人間と世界を見るたび感じられる自然啓示で説明します。確かな創造主があるということ、この世はただ偶然的に流れていくのではなくて、歴史の主観者があるということ、それから、人間の仕えや助けなどを必要ともしない、むしろ、命の主となるまことの神がいらっしゃるというのを言い負かします。
パウロは当時名乗ったらみんなわかるほどの詩人の有名な詩を用いて、彼らを説得します。全く聖書に関した知識のない人に対しての話し方なのでしょう。
とは言え、パウロは決して福音の内容を妥協してはいません。神の送られたひとり、イエスキリストによる悔い改めと審判を述べ伝えます。 最終の審判の日があるのを明らかにします。神は十字架で死なれたイエスを甦らせ、そのイエスこそメシア、キリストであるのを確証します。
たぶん、この部分でアテネの人々は笑い出したかもしれません。自分たちの言葉で、自分たちの文化に合わせてよく説明してきたパウロが、いきなり余計なことを言うと感じたかもしれません。それに居合わせた哲学者たちには全く論理的でもない話に聞こえたかもしれません。
文化が異なり、聖書に関した知識のない人々には、彼らの言葉で彼らの文化で福音を聴かせるのが良いと思います。しかし、嘲笑い、誤解を受けても決して妥協できないのは、イエスの贖いの死と復活なのです。これこそ人間の言葉や知恵では到底説明できないものであります。ただ宣言するしかない、宣教の愚かなものであって、神の特別な啓示によって悟られる福音の中心なのでしょう。
5. 新しい教え
19節、20節を見ると、パウロの言葉をアテネの人は‘新しい教え’といいます。ギリシャこそ神話の国であって、彼らが言われてきた数多くの神話とか物語などを全部振り返ってみても、それはなかなか受け入れがたいので、彼らはそれを奇妙な話とも言います。
たぶん、この日本でキリスト教を受け入れられない理由も同じだと思います。日本の八百万の神の中、唯一な神という概念こそがおかしいですよね。それから、ある神が人間を愛するというのも馴染みのない話なんですか。それから、神が人間の罪を背負い死ぬというのもそうですよね。主君が民のため自分の命を与えることなんて、日本では想像もつかない話なんですよね。何より死んだ者のよみがえりこそ、とってもおかしい話に聞こえるかもしれません。
しかし、私たちは福音、イエスの十字架での死と復活の物語を語り続けます。私も試行錯誤を繰り返しながら、日本人の方々に福音を述べ伝えています。宗教心の厚い日本人、ただ漠然とした神の存在に頼る彼らにこう言います。‘あなたがたが知らずに拝んでいるものを、この私がお知らせしましょう。その方はイエスキリストです’と。
それで何人が反応してのか、教会に登録したのかなどは重要ではないです。パウロはアテネで何人かを得たのですが、それでその宣教が効率的ではないとか、失敗だなど言えますか。今日一緒にお読みしたほかの箇所のペテロの手紙では何を語っていますか。救われたのはただ8人でした。今、日本のキリスト者が全人口の0.8%と言われますが、すくなくないと思います。福音を聞いた一人の力は偉大です。
皆さんは最初、どのようにしてクリスチャンになれたのでしょうか。クリスチャンホームで生まれ、自然に信じることとなったとか、人生のある時点で神に出会ったとか、皆さんが誰であって、どういうありさまで信仰生活をするとしても、それはいずれも全部いいです。私たちそれぞれの人がイエスキリストを頭として、教会のからだであるのを自覚するとき、私たちの差は教会をなお豊かにします。
しかしただ一つ、唯一な創造主の神とその御子イエスキリストの贖いの死と復活、それは決して妥協できない私たちの信仰告白であり、教会の土台であります。 皆さんは今、皆さんの人生で、日常で、キリストの復活、その力と喜びの中を歩んでいますか?キリストの復活というのが、ただ誰か死んで、後よみがえったという驚くべき奇跡のイベントではなくて、すべてがおしまいになったような状況で、再びすべてが新しく回復され、希望が保たれるという神の愛と力のしるしとして、皆さんに体験されているのでしょうか。
私たちが年をとるに伴って、母の言葉を改めて悟ることと同じなんです。いつも聞いていた御言葉、復活の話が改めて悟られることが必要です。私たちが毎週集い、同じ礼拝を繰り返しているように見えても、それは決して同じではない。毎週、毎朝新しい神の教えであり、イエスキリストにあって私たちに与えられた福音、この上ない喜びの便りであります。
イエスはよみがえられました!復活の力と喜びの中を歩むみなさんとなりますように!