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2022年3月6日説教「荒れ野の試み」松本敏之牧師

マルコによる福音書1章12~15節

(1)受難節(レント)の始まり

今日は、日本基督教団の本日の聖書日課で説教させていただきます。マルコによる福音書1章12節から15節までです。先週の水曜日、3月2日から、受難節、レントに入りました。受難節は、イースターの前の、日曜日を除く40日間と定められています。特に、イエス・キリストが十字架にかかる苦しみを受けられたこと、それによって私たちの罪をも担ってくださったことを覚える季節です。私たち自身も、主イエスの受難を覚えて、悔い改めと克己の時として過ごします。この40日間というのは、本日の聖書にあります記事、「イエス・キリストが40日間、荒れ野にあって、サタンから試みを受けられた」ということに基づいています。

ちなみに今年のイースターは、4月17日ですが、それから平日のみさかのぼって、先週の水曜日から受難節、レントに入ったということです。

(2)マルコの簡潔な記述

さて本日の聖書箇所、マルコによる福音書1章12~15節は、他のさまざまな教派の聖書日課でも、受難節、レント第一主日に読むように定められています。

マタイ福音書とルカ福音書は、マルコ福音書を資料の一つとして書かれているので、共通の話が多く、共観福音書と呼ばれます。ただしマタイ福音書とルカ福音書では、それぞれ第1章と第2章に、違ったクリスマスの物語を記しているのですが、マルコ福音書にはそれがありません。それらは、マルコ福音書以外の資料から、それぞれにマタイとルカが知っていた伝承でありました。そのクリスマス物語の後、つまりそれぞれ第3章から、イエス・キリストの公生涯と呼ばれる、福音書の本文が始まるのですが、マルコ福音書では、短い序文の後、いきなり最初から、福音書の本文に入っていきます。

短い序文というのは、1章1節の「神の子イエス・キリストの福音の初め」という言葉です。それに続いて、洗礼者ヨハネの「悔い改めの洗礼」を促す活動、そして「イエス・キリストの洗礼」について短く、簡潔に述べられます。これらは、マタイ福音書やルカ福音書では第3章で述べられていることです。

そしてその後に記されるのが、本日の聖書箇所である、「イエス・キリストが荒れ野でサタンから試みを受けられた」という話です。これもまた、マタイ、ルカと比べると、随分短いのです。

マタイもルカも、順序は少し違いますが、このところにサタンからの具体的な三つの「誘惑」を記しています。マタイでは、一つ目が「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」というものでした。二つ目は「(神殿の端に立たせ)神の子なら、飛び降りたらどうだ」というものでした。そして三つめは「(世界中の栄えを見せて)もし、ひれ伏して私を拝むなら、これを全部与えよう」というものでした。ルカでは、二つ目と三つ目の順序が逆になっているのですが、内容はほぼ同じです。これらの「誘惑」はそれぞれに深い意味があり、究極の誘惑であるとも言えます。私も『マタイ福音書を読もう』という本の中では、ひとつひとつの誘惑に焦点をあてて、3回に分けて語りました。しかしどういうわけか、マルコ福音書では、その具体的な内容が記されていません。「あれ、あれ、あれ」というふうに、たった2節で終わってしまいます。

どうしてでしょうか。もちろんマタイやルカは、マルコを元にして書いており、その逆ではないので、マルコはその三つの誘惑については知らなかったのかもしれません。しかし、「いやマルコは知っていたのではないか。知っていたけれども、それを書かなかったのではないか」という説もあるのです。確かにマルコでは、その具体的な内容が記されないことによって、かえって本質的なことが見えてくるようにも思います。

(3)荒れ野に追いやられた

そしてこの度の「聖書協会共同訳」では、それがより明確になるように工夫して訳されています。こう始まります。

「それからすぐに、霊はイエスを荒れ野に追いやった。」(マルコ1:12)

新共同訳聖書では、こう訳されていました。

「それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。」(新共同訳、マルコ1:12)

一番の違いは、これまで「荒れ野に送り出した」と訳されていたのは「荒れ野に追いやった」と変わったことです。もうひとつは「すぐに」という言葉が付け加えられたことです。「追いやった」というのは、マルコ福音書独自の表現ですが、確かに、新しい訳のほうが原文のニュアンスをよく伝えています。

「荒れ野」というのは、「人里離れたところ」という意味もあります。ひとりぼっちの寂しいところ、何の助けもないように思えるところです。「霊」というのは、神さまの霊でしょう。悪霊ではありません。神様の霊が、イエスをそこへ追いやったのです。しかも「洗礼を受けられてから、すぐに」ということです。「送り出した」という、これまでの訳ですと、「よしがんばって来いよ」「はい、がんばります」という感じがしますが、そうではない。霊が、イエスを追い出すようにして「荒れ野に追いやった」のです。

(4)「試み」「誘惑」「試練」

続きを読んでみます。

「イエスは四十日間荒れ野にいて、サタンの試みを受け、野獣と共におられた。」(マルコ1:13)

これまでの新共同訳聖書はこういう訳でした。

「イエスは四十日間そこにとどまり、サタンの誘惑を受けられた。その間野獣と一緒におられた。」(新共同訳、マルコ1:13)

「誘惑を受けられた」という言葉が「試みを受けられた」に変わりました。日本語ではどうでしょうか。同じようにも思えるし、違うように思える。原文では同じ言葉です(ペイラゾー)。さらに言えば、「試練を受けさせるために」と訳すこともできるのです。名詞にするとペイラスモスですが、それは「誘惑」とも「試練」とも訳せるのです。その点日本語の「試み」という言葉は、「誘惑」と「試練」の両方のニュアンスをもっていて便利な言葉ではあります。

主の祈りでも、新しい言葉では「私たちを誘惑におちいらせず」ですが、以前の文語体では「われらを試みにあわせず」でした。

実際に、私たちが何か私たちを苦しめる事柄にぶつかった時、あるいは私たちを戸惑わす事柄にぶつかった時、それは今日でも起きます。教会の中ですらおきます。そういう時に、それが果たして「サタンの誘惑」なのか「神の試練」なのか、区別がつかないのではないでしょうか。神が試練としてお与えになるもの、まさにその同じものをサタンが横から誘惑として用いるということもあるでしょう。それを乗り越えた時に、あれは「神の試練だった」のだということになるでしょうし、それに負けて、私たちが堕落してしまったり、神から離れてしまったりする時に、「サタンの誘惑だった」のだと言えるのかもしれません。

私たちが今、直面しているウクライナ危機についても、皆さんも毎日、心配でニュースを注視しておられることと思いますが、そういうことを思います。これは神の試練なのか、サタンの誘惑なのか。神様は、このことをご存じなのか。積極的にかかわっておられるのか。なぜ早くロシアの軍隊を止めてくださらないのか。なぜ早くプーチンを失墜させてくださらないのか。神様ならば、止められるのではないか。

ヤコブの手紙にはこういう言葉があります。

「誘惑に遭うとき、誰も『神から誘惑されている』と言ってはなりません。神は、悪の誘惑を受けるような方ではなく、ご自分でも人を誘惑したりなさらないからです。」(ヤコブ1:13)

その意味で、「誘惑を受けさせるため」にというよりは、「試みをうけさせるため」という言葉のほうが、「試す」「テストする」「試練を与える」という意味も含めたニュアンスの言葉であるように思います。特にマルコ福音書では、マタイやルカのようなサタンの具体的な「誘惑」の言葉がありませんので、「試み」のほうが広く解釈できるでしょう。

(5)ヨブ記に登場するサタン

またサタンという存在そのものも聖書では決して神に対等な存在としては描かれていません。その代表的な例がヨブ記です。「信徒の友」3月号はヨブ記の特集をしていますが、ヨブ記の1章と2章に、サタンが登場します。

「ある日、神の子らが来て、主の前に立った。サタンもその中に来た。主はサタンに言われた。
『あなたはどこから来たのか。』サタンは主に答えた。『地を巡り、歩き回っていました。』
主はサタンに言われた。『あなたは私の僕ヨブに心を留めたか。地上には彼ほど完全で、正しく、神を畏れ、悪を遠ざけている者はいない。』
サタンは主に答えた。『ヨブが理由なしに神を畏れるでしょうか。あなたは彼のために、その家のために、また彼のすべての所有物のために周りに垣根をめぐらしているではありませんか。あなたが彼の手の業を祝福するので、彼の家畜は地に溢れています。しかし、あなたの手を伸ばして、彼のすべての所有物を打ってごらんなさい。彼は必ずや面と向かって、あなたを呪うに違いありません。』
主はサタンに言われた。
『見よ。彼のすべての所有物はあなたの手の中にある。ただし、彼には手を出すな。』
サタンは主の前から出て行った。」(ヨブ記1:6~12)

それでもヨブは神を呪うことはありませんでした。神様がサタンに向けて「どうだ。見たか」というような趣旨のことを言われます。しかしサタンはさらにヨブの体が健康だからだと神に告げます。神は

「では、彼をあなたの手に委ねる。ただし、彼の命は守れ」(ヨブ記2:6)

と言われます。詳しくは、どうぞヨブ記をお読みください。ヨブ記のテーマの一つは「義人の苦難」ということです。正しい者がどうして苦難を受けなければならないのか。その意味で、ヨブもイエス・キリストの予表だと言えるかもしれません。

ヨブ記の物語においては、このサタンは決して神と対等ではなく、神の働きをよりはっきりと示すために用いられているという記述です。しかもこのやり取りからわかることは、神は決してヨブを誘惑しようとはしておられないということです。「試みている」つまり信仰のテストをしているのです。それはアブラハムに与えられた「イサクをささげなさい」という試練においても同様でした。

ウクライナ危機についても、このヨブ記を重ね合わせて考えると、何か考える道筋ができるかもしれません。

(6)野獣と共に過ごされた

マルコ福音書がマタイやルカと違う点は他にもあります。マタイやルカでは、「(荒れ野で)四十日四十夜、断食した後に、試みる者(サタン)が近づいて来る」のですが、マルコでは、四十日間そのものが「試み」の期間でした。ずっと試みを受け続けられたということです。

またその間、「野獣たちと共に過ごされた」というのです。野獣は、イエスの命を脅かすものでもあったでしょう。そういうところへ、霊はイエスを追いやったのでした。

前の新共同訳聖書では、「その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた」とうしろの文章とくっつけて訳されていましたが、新しい訳では「また、野獣と共におられた。そして、天使たちがイエスに仕えていた」と二つの文章にわけて訳されました。私は、ここにもある種の工夫があると思いました。「野獣と一緒におられたが」とすると、どうしても「野獣と一緒におられたにもかかわらず、(あるいは、野獣と一緒におられたけれども)、天使たちが使えていた」というニュアンスが強くなります。実際にそういう面もあるでしょう。

しかし考えようによっては、主イエスのおられたところでは、野獣が野獣であるにもかかわらず、牙を向けなかったということもあるのではないでしょうか。
アドベントの季節に読むイザヤ書の言葉にこういう言葉があります。

「狼は小羊と共に宿り
豹は子山羊と共に伏す。
子牛と若獅子は共に草を食み
小さな子どもがそれを導く。」(イザヤ書11:6)

狼と小羊が共存している。狼がいたにもかかわらず、小羊は狼の攻撃から守られていた、というのではなくて、狼と小羊が仲良く共に宿っている状態、それがアドベントの情景です。そしてそのような状態そのものが、天使が仕えている形であるのかもしれません。

(7)ウクライナ危機の中で

私は、このマルコ福音書によって「荒れ野の試み」の物語を読んでみて、改めてこう思いました。霊は、野獣のいる荒れ野に、イエス・キリストを追いやりました。野獣に命をねらわれたかもしれない。しかし、そこで主イエスは野獣と共に過ごされた。両方の可能性があると思いますが、私は野獣が野獣でなくなってしまう情景のほうが心惹かれる気がします。

ここでイエス・キリストは、私たちが今も経験することの先駆として経験してくださったということです。今もウクライナの人々を始め、世界中の人々が荒野のような状況の中に追いやられています。ウクライナの人々だけではなく、ロシアの一般民衆もそうだと言えるかもしれません。「誘惑」というものが私たちを堕落させるものであり、私たちを神さから引き離そうとすることだとするならば、神は決して誘惑されようとしているのではないでしょう。むしろ私たちがそこでどう行動しようとするかが問われているのではないでしょうか。それはプーチン大統領も含めてそうでありますが、日本にいる私たちもそのように、どう行動するかが問われていると言えるでしょう。
その荒れ野には野獣がたくさんいます。命の危機にさらされています。特にウクライナの人々にとってはそうでありましょう。しかしそこにあっても、どういう形であるかわからないけれども野獣から守られる。もしかすると野獣が野獣であるにもかかわらず牙をむかないという可能性も含んでいます。

私はウクライナに侵攻しているロシアの兵士たちがそこで武器を置いて、ウクライナの人々と握手する姿を夢見ます。「狼は小羊と共に宿る」姿です。そういう形ではないかもしれないけれども、少なくとも言えることは、あの荒れ野で「天使たちがイエスに仕えていた」ように、現代の荒れ野にあっても、ウクライナにあっても、「天使たちが人々に仕えている」ことを信じるのです。そのような信仰をもって、私たちに求められていることを見いだし、それを実行していきたいと思います。

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