2026年3月8日説教「呪いと祝福の取りかえ」松本敏之牧師
創世記15:1~6
ガラテヤの信徒への手紙3:1~14
(1)ガラテヤの信徒への手紙、第二部の始まり
ガラテヤの信徒への手紙は、月に一度位のペースで読み進めています。本日のテキストであります第3章から第二部に入ります。パウロは、これまでの第一部、つまり第1章、第2章において、ガラテヤの教会の人々に向かって、かなり厳しい調子で、厳しい内容のことを語ってきました。ガラテヤの教会は、彼が心血を注いで立て、育てた教会です。そこでパウロが、一生懸命語ってきた福音の最も大事な部分が、根本から台無しにされてしまうような由々しき事態が、教会の中に起こってきていたからです。福音の最も大事な部分というのは、「人間は、誰も神さまの前で、律法を守ることによって、『自分は正しい人間です』ということはできない。そういう道ではなくて、ただ信仰によってのみ(キリストの真実によってのみ)、神さまに受け入れられる。もっと具体的に言えば、神の独り子であるイエス・キリストを信じる信仰によって、私たちは神に受け入れられるのだ」。そういうことでありました。
ここから始まります第二部は、ほぼ第3章と第4章ですが、その福音の核心部分「信仰による義」ということについて、より理論的、より神学的に語っていくことになります。
(2)「愚かな」クリスチャン
その冒頭の言葉はいかがでしょうか。
「ああ、愚かなガラテヤの人たち、……誰があなたがたを惑わしたのか。」3:1
これは、パウロの叫びのような言葉です。パウロはこう叫ばざるを得なかった。この「愚かな」という言葉は、いわゆる「頭が悪い」とか「教育を受けていない」とかいうようなことではありません。新共同訳聖書では、「物わかりの悪いガラテヤの人たち」という言葉でした。いくら頭が良くても、物わかりが悪くなることがあります。いやむしろ逆に、頭がよくて、自分の知恵や知識に自信のある人こそ、かえって陥りやすい失敗というものが、ここに出てきていると思います。自信過剰なために、かえってものごとが見えなくなる。見えていると思っているはずが、実は見えていない、ということがありうるのです。
信仰というのも、どうも「もう自分はわかった」「そんなことは分かり切っている」、そういう風に思う頃が、危ないのではないでしょうか。特に「わかった」と思っているのに、そこに感動がない時、驚きがない時、そこで私たちの心が震えない時、私たちはイエス・キリストが何をなさったかということを知識としては知っていても、あるいはそれが信仰の論理としては分かっていても、実のところ、分からなくなってしまっているのではないかと思います。心が冷えてしまっているのです。
そうした時、私たちは一体何をしようとするでしょうか。一生懸命、信仰者らしく振る舞おうといたします。自分で自分を立てようとする。神さまに対して恥ずかしくない人間であろうとする。これくらいのことをしておけば、クリスチャンとして、まあ恥ずかしくないだろう。これくらいのことをすれば、神さまも自分を認めてくださるだろう、ということになる。そこで、その肝心の神さまさえも、形骸化した神さまになってしまうと、どうなるでしょうか。「神さまに対して」というのが、「人に対して」「人の前で」ということにすり替わってしまいます。これくらいのことをしていれば、クリスチャンとして恥ずかしくないだろう。みんなも自分を一応、それなりのクリスチャンとして見てくれるだろう。それが行動基準、ものごとの判断基準になってしまいます。みなさんは、そういう心のあり方に思い当たることはないでしょうか。私にはあります。だからこそ、リアルに語ることができるのです。
パウロが、ここで見据えている事態、「ああ、愚かなガラテヤの人たち」と嘆いているような事態は、そういう私たちと無関係なものではないでしょう。一旦、イエス・キリストを受け入れたクリスチャンにも起こってくる事態です。パウロは、こう言っています。
「律法の行いによる人々は皆、呪いの下にあります。」3:10
「そのように、自分で自分を立てるような考え方、生き方をしていれば、救いはないよ」と言っているのだと思います。
(3)律法ではなく、律法主義が問題
こう言うと、律法が何か諸悪の根源のように受けとめられるかも知れませんが、律法そのものが悪いわけではありません。律法というのは、私たちが神さまに従って生きるために、神さまから与えられた掟、戒めです。モーセの十戒がその代表であり、そこからさらに細かいさまざまな律法がありました。律法を知るということは、神さまの御心がどこにあるかを知ることであり、その律法を守って生きることは大切であります。
問題は、それを守ることによって、自分を立てようとする生き方です。それを「律法主義」と言います。律法が悪いのではなくて、律法主義がいけないのです。律法主義の特徴のひとつは、そこから人を裁いていくということです。人を裁くということは、自分も裁かれないようにしないといけませんから、一生懸命律法をまもって、(あるいは自分で立てた基準を自分でまもって)、自分もがんじがらめになっていくのです。そこには喜びがありません。救いがありません。
どこまでやっても完璧ということはありえないわけですし、そのようにして、自分で自分を立てようとするところにこそ、私たちの罪が潜んでいるからです。先ほどの読みました10節後半に、「『律法の書に書かれてあるすべてのことを守らず、これを行わない者は皆、呪われる』と書いてあるからです」という言葉があります。これは、申命記27章26節の引用です。パウロがこの言葉で言おうとしていることは、「そのように律法を守ることによって、神さまの前で自分を立てようとするならば、全部守らなければならないことになるよ。でもそんなことは人間である限り、だれもできないよ。それではだれも救われないよ」ということなのです。
それでは、一体どうすればよいのでしょうか。パウロは、ガラテヤの人々を、そして私たちを困らせようとして、こんなことを言っているのではありません。福音の最も基本的なことに立ち帰って欲しいと願っているのです。もっと確かな救いの道がある。どうして、それが見えないのか。わからないのか。いや、かつてはわかっていたはずであるのに、どうしてわからなくなってしまったのか、と訴えているのです。彼は、切実にこう問いかけます。
「あなたがたにこれだけは聞いておきたい。あなたがたが霊を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも、信仰に聞き従ったからですか。」3:2
(4)アブラハムの義
そのように問いつつ、そしてたたみかけるように繰り返しつつ、それを確かめるために、彼はアブラハムの物語を創世記から引用いたします。
「それは、『アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた』と言われているとおりです。」3:6
アブラハムというのは、旧約聖書に登場する人物の中で、私たちが歴史上、何らかの形でさかのぼることができる最古の人物です。「あなたは生まれた地と親族、父の家を離れ 私が示す地に行きなさい」という神さまの呼びかけに答えて、歩みだした人です。信仰の父と呼ばれます。
ここに引用されている6節の言葉は、創世記15章5節の言葉です。神はアブラハムをある夜、外に連れ出して夜空をお見せになりました。そして「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。あなたの子孫はこのようになる」とおっしゃった。祝福のことばです。その言葉に対して、こう記されています。
「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」創世記15:6
アブラムとは、アブラハムのことです。つまりアブラハムは、何かよいことをしたから、神さまに認められたというのではない。ただ神さまのおっしゃったことをそのまま信じたから、神さまに認められたんだ、ということなのです。
これはこれで、パウロの言いたいことなのですけれども、私は、その後のガラテヤ書3章8節の言葉に、より心を惹かれました。
「聖書は、神が異邦人を信仰によって義とされることを見越して、『すべての異邦人があなたによって祝福される』という福音をアブラハムに予告しました。」ガラテヤ3:8
ここで、パウロは聖書をあたかも人物であるかのように、擬人法で語っています。実は、「聖書」は神さまの救いの計画というものを知っていたんだ。神さまが、何をなそうとしておられるかということを、知っていたんだ。やがて時が来れば、アブラハムの子孫を通して、全世界の人々に祝福が広がるようになる。そのことを見越して、『すべての異邦人があなたによって祝福される』という福音をアブラハムに予告した」というのです。
アブラハムと異邦人、全く関係がないように見える。一体どこでつながってくるのか。その間には、隠されたキーワードがあります。それはイエス・キリストという名前であります。そのことは、14節の言葉で明らかになります。
「それは、アブラハムに与えられた祝福が、キリスト・イエスにおいて異邦人に及ぶためであり、また、私たちが、約束された霊を信仰によって受けるためでした。」3:14
(5)キリストの義と、私の罪
この「信仰による義」ということも、アブラハムの出来事の段階では、何だかまだはっきりしていません。どうして信仰によって義とされるのかがはっきりしない。根拠がはっきりしない。これは後に、イエス・キリストにおいて実現する出来事においてはっきりとしてくるのです。アブラハムの「信仰による義」というのは、ですから、イエス・キリストにおいて実現する事柄の予告のようなものであると思います。私たちは、「信仰によって義とされる。神さまに受け入れられる」と言っても、抽象的な話ではなく、具体的には、「イエス・キリストを信じる信仰」によって、神さまに受け入れられるのです。
どうしてでしょうか。それはイエス・キリストが、十字架において私たちの滅びを引き受けてくださったからです。十字架において私たちの罪を引き受けられたからです。十字架において私たちの呪いを引き受けられたからです。その出来事によって私たちと父なる神との関係が回復しました。私たちと神との破れた関係は、自力で回復することはできない。閉ざされているのです。呪われているのです。その呪いをキリストが引き受けてくださって、祝福と取りかえてくださったのです。
「キリストは、私たちのために呪いとなって、私たちを律法の呪いから贖い出してくださいました。『木にかけられた者は皆、呪われている』と書いてあるからです。」3:13
私たちが本来受けるべきものをキリストが引き受け、キリストが本来受けるべきものを私たちに与えられたのです。
私は、この部分を読みながら、宗教改革者マルチン・ルターの祈りの言葉を思い起こしました。それは、こういう祈りです。
「主イエス・キリストよ。あなたは私の義。私はあなたの罪。あなたは、私のものをご自分の身に引き受け、ご自分のものを私に与えてくださいました。ご自分の存在でもありはしなかったものを、身に引き受けてくださり、これが私のものとは言えなかったものを、私に与えてくださったのです。」ルターの祈り。加藤常昭訳『加藤常昭説教集、マタイ第4巻』より
キリストの義と私の罪を取りかえてくださった。イエス・キリストはご自分のものであったものを私に与えてくださり、ご自分のものではなかったものを、ご自分の身に引き受けてくださった。ご自身は、全くそういう存在ではなかったのに、私の罪の存在そのものを、ご自分の身に引き受けられた。逆に、私は全くそういう存在ではなかったのに、主イエスの義の存在を私に与えてくださった。私たちと、主イエスとの間に取りかえが起きたということです。はっとさせられる、美しい祈りであると思います。
これは、受難節である今、特に心に留めたいことです。なぜなら、まさに十字架で起こったことはそういうことだからです。
(6)十字架を美化してはならない
「『木にかけられた者は皆、呪われている』と書いてあるからです」という言葉は、申命記21章23節からの引用です。今日の箇所は、旧約聖書からの引用が頻繁に出てまいりますが、このところは、もともとこういう言葉です。
「ある人が死刑に当たる罪があり、処刑される場合、あなたは彼を木に掛けなければならない。あなたは死体を夜通し、木に残しておいてはならない。必ずその日のうちに葬らなければならない。木に掛けられた者は、神に呪われた者だからである。あなたは、あなたの神、主があなたに相続地として与える土地を汚してはならない。」申命記21:22~23
パウロは、キリストについて語られた言葉として、この言葉を引用しました。呪われた死。木にかけられた者は呪われている。この申命記によりますと、死体を木に掛けたまま、夜を迎えてはならない。そういう風に言っています。
確かにイエス・キリストが十字架上で息を引き取られた時、その死体は夕暮れまでに引き下ろされました。死体が木にかけられたまま夜になってはいけないという、申命記の律法に従ったのです。しかしそれは、そのまま死体を野ざらしにすると、主イエスが気の毒であったからではないのです。見るに耐えない程、痛々しかったからでもないのです。一刻も早く、安息のお墓に眠っていただきたかったからでもないのです。それは、木に掛けられた死体は呪われたものだからであり、その呪われた死体によって、主が相続地として与えられた土地を汚してはならなかったからです。呪われたものは、そのままにしておくと、土地まで汚れてしまう。だから一刻も早く取りのけないといけないのです。せっかく祝福された土地が、主イエスの体で汚れることがないように、取り除かれたのです。
イエス・キリストの十字架上の死は、呪われた死でありました。そしてイエス・キリストの死体は呪われた死体でありました。私たちは、そのことを知らなければならないでしょう。美化してはならない。その呪われた姿の中にこそ、それがはっきりと呪われた者であると認めることにおいてこそ、逆に私たちの救いが、裏返しになって映っているからです。どうして、イエス・キリストの死が呪われた死であったのか。それは、私たちが本来、受けるべき呪いを、キリストが引き受けてくださったからです。そしてそのようにしてキリストが受けるべき祝福が、逆に私たちに与えられた。取りかえが起こったのです。
それは、まさに受難節(レント)の福音であると思います。