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2023年10月15日説教「主に従うことは」松本敏之牧師

ルカによる福音書14章25~35節

(1)神学校日

日本基督教団では、10月第二日曜日を、神学校日、伝道献身者奨励日と定めています。私たちは、音楽礼拝など特別礼拝を行った関係で、本日、1週間遅れで神学校日礼拝を守っています。

教会が神学校を覚え、神学生を覚えて祈り、献金をささげて、神学校を支えていくのは大切なことです。教会の将来は、未来の牧師たちを育てる神学校の働きにかかっている、と言っても過言ではないでしょう。

今日の週報に、先週の役員会報告が出ていますが、そこに記されているように、教会からも献金をします。皆さんお一人お一人にも、私たちの教会とかかわりの深い日本聖書神学校への献金をお願いしています。そのことも週報に記しました。どうぞ、よろしくお願いします。

さて先ほどお読みしたルカ福音書14章25~35節は、9月10日の日本基督教団の聖書日課でした。この日(9月10日)は歴代誌で説教をしましたので、本日、この箇所で説教することにいたしました。この箇所が神学校日にふさわしいと思ったからでもあります。この箇所のテーマは、一言で言うならば、「イエス・キリストに従うとは、どういうことか」ということです。そして、随分厳しい言葉が記されています。

神学校に入り、牧師になる決心をするということは、イエス・キリストの弟子入りをするようなものでしょう。最近は歳を重ねてから、牧師になる人も増えてきましたが、多くの場合には、青年期の人生の大きな決断です。

青年期というのは、自分がこれからどういう人生を送っていくのかということを真剣に考え、悩み、それを克服していく時期でしょう。その時に、聖書の教えを知っていること、イエス・キリストを知っていることは、とても大きな意味があると思います。それと向き合いながら、自分はどう生きるのかを考えることになります。イエス・キリストを知っているということは、同時に「私に従って来なさい」という招きを知っているということでもあるでしょう。それがつながらない段階は、まだ生きたイエス様と出会っていないのかもしれません。その招きに、自分はどう応えて生きるのかが問われるのです。

ただその出会い方は、さまざまです。自分のほうから積極的に、「ぜひ弟子入りさせてください」という場合もあります。逆に「あまり弟子にはなりたくない」という感じで、逃げ回っていながら、最後には捕まってしまったという場合もあります。

(2)私の受洗と召命

私は、洗礼を受けたのは高校1年生の時でした。その時は、前者のような感じで、素直に洗礼を受けたいと思いました。当時の姫路教会の牧師が、「松本君も高校生になったのだから、そろそろ洗礼を受けたらどうかね」と言ってくれたので、それに素直に聞き従いました。

ただ牧師になる決心は、そう素直には行きませんでした。大学(立教大学)で、一つの学問としてキリスト教を学びながら、牧師にだけはなるまいと思っていたようなところがあります。そう決めてしまうと、何となく自分の将来を狭めてしまうような気がしましたし、牧師は経済的にも大変なようだからあまり選びたくないという思いが先だったかもしれません。その後、必ずしもそういう気持ちを乗り越えたわけでもありませんが、神学校(東京神学大学大学院)に行く決心をしました。

しかし入学試験の時にも、まだはっきりと牧師になる決心ができていたわけではありません。志望動機の文章を提出したのですが、そこに、「できれば、牧師として立ちたい」と書いていました。東京神学大学は、「牧師になる」という召命感が厳しく問われる学校です。試験の成績は少々悪くても、召命感がしっかりしていれば入学させてもらえますし、逆に召命感がしっかりしていなければ、どんなに成績がよくても落とされます。

私は、面接で案の定、そこを問われました。「この『できれば』というのは、どういう意味ですか」。私は、「いや、最後は神様がお決めになることですから」と、何とか言い訳をしました。そうすると、それを尋ねた先生(船水衛司先生)が、にっこりと笑って、こう言われました。「それでは、今日、おうちに帰ったら、マルコ福音書の9章をよく読んできてください。」

家に帰るまでもなく、廊下に出たら、すぐに聖書を開いて、マルコ福音書の9章を読みました。こういう話が出ていました。

病気の子どもを抱えた父親が、主イエスのもとに来て、「できますれば、わたしどもあわれんでお助けください。」と言うのです。それに対して、主イエスは、こう応えられました。

「もしできれば、と言うのか。信ずる者には、どんな事でもできる。」マルコ9:23、口語訳聖書

「その子の父親はすぐ叫んで言った、『信じます。不信仰なわたしを、お助けください。』」マルコ9:23

見事な面接の先生の切り返しに、「はあ、まいりました」という感じで、私はもう言い訳ができなくなりました。

(3)主に従うとは

さて、今日のテキストのルカによる福音書14章25~35節は、ガリラヤからエルサレムへ向かう旅の途上での話です。「大勢の群衆が付いて来た」(ルカ14:25)とあります。その中には、真剣な人もあったでしょうが、自分勝手な思いでついて来た人も多かったようです。少なくとも、この旅が十字架へと向かう旅であることには、誰も気づいていませんでした。

真剣な人の中には、ある種の対決の予感はあったかもしれません。彼らはガリラヤの人々です。主イエスは、ガリラヤの田舎からエルサレムへ出て、何かなさろうとしている。エルサレムの祭司たちとの対決か、あるいは逆にローマの権力との対決か。何かわからないけれども、漠然とした興奮はあったかもしれません。そこで、「そうだ。自分たちの存在を見せつけてやろう。ガリラヤ魂を見せつけてやろう」と意気込んだかもしれません。しかしそうであったとしても、主イエスの思いとは随分かけ離れています。そこにあるのは自分中心の思いです。

(4)キリストとの関係が第一

イエス・キリストは振り向いて、こう語られます。

「誰でも、私のもとに来ていながら、父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分の命さえも憎まない者があれば、その人は私の弟子ではありえない。」ルカ14:26

随分厳しい言葉です。しかもわかりにくい。いや言っていることは、わかるのですが、他の場所でのイエス・キリストの言葉と随分、トーンが違う気がしますし、極端な言葉のように思えます。

ここに挙げられている、「父、母、妻、子供、兄弟、姉妹」というのはすべての家族ということです。夫が抜けていますが、それは男性中心に書かれているからです。結婚している女性からすれば、真っ先に夫が入ってくるでしょう。

主イエスが「憎む」と言われたのは、どういうことでしょうか。他の箇所では、「敵さえも憎んではいけない。敵を愛せ」(マタイ5:44参照)と言われました。そうした教えと矛盾するように聞こえかねません。

ここでの「憎む」というのは、セム語的(ヘブライ語、アラム語など)な表現だそうです。ちなみに新約聖書はギリシア語で書かれていますが、その背景にはヘブライ語やアラム語の影響があります。なぜならば、イエス様が話されたのは、アラム語でしたし、旧約聖書の主だった部分はヘブライ語で書かれています。

ヘブライ語やアラム語では、比較級を対立概念で示すそうです。つまり「憎む」というのは「より少なく愛する」ということす。「家族よりも、私を〈より少なく愛する〉ならば」ということでしょうか。それならば、少しわかる気がします。

本田哲郎神父は、この箇所を次のように意訳しています。

「わたしのもとに来ても、もし、自分の父親と母親、妻や子ども、兄弟姉妹、それに自分自身さえもあとまわしにする腹がなければ、わたしの弟子でいることはできないのだ。」ルカ14:26、本田哲郎『小さくされた人々のための福音』

また「自分の命を憎む」ということは、自己嫌悪するというような意味ではありません。すべてのことに先だって、キリストとの関係を第一のものとする覚悟ができているかということです。

さらに、こう言われます。

「自分の十字架を負って、私に付いて来る者でなければ、私の弟子ではありえない。」ルカ14:27

これも強い言葉です。しかし拒否されたわけではありません。その覚悟が問われたのです。大勢の群衆がぞろぞろと、ついて来ている。これから先、どういうことが起こるのかもよくわきまえていない人たちです。事実、最後には、すべての人が逃げてしまうか、逆に「十字架につけろ」と叫ぶ側にまわってしまいました。

(5)二つのたとえ

主イエスは、ここで二つのたとえを語られます。

「あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰を据えて計算しない者がいるだろうか。そうしないと、土台を据えただけで完成できず、見ていた人々は皆嘲って、『あの人は建て始めたが、完成できなかった』と言うだろう。」ルカ14:28~30

高い塔や大邸宅を建てる時には、それなりにきちんとした資金計画を建ててから始めるものだということです。

二つ目のたとえはこうです。

「また、どんな王でも、ほかの王と戦いを交えようとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰を据えて考えてみないだろうか。もしできないと分かれば、敵の王がまだ遠くにいる間に、使節を送って和を求めるだろう。」ルカ14:31~32

これもなかなか興味深いたとえです。大軍と戦う時に、勝ち目があるかどうかを見越す。ここで、相手は二万、こちらは一万と規定していることは面白いですね。信仰の戦いとはそういう面がある。ただそこで、一万だから勝てないとは言っていません。一万でも勝てる見込みがあれば、それでよいのです。
この二つのたとえに通じることは、イエスに従っていくとは、自分のすべてをかけて取り組むような事柄、知恵も力も全部出し切るような事柄であり、大きな決心がいる、ということでしょう。

ただしそれは、信仰の歩みは人間の計算によって決められるということではありません。洗礼を受けて新しい人生の歩みをしようとする時、果たしてこれが自分の人生にとって得か損か、成功のきっかけになるかどうかを考えなさい、ということを言っているのではありません。むしろ自分との関係で言えば、「自分の命さえも憎むない者があれば、その人は私の弟子ではありえない」と語られていたとおりです。

さらにまた、このたとえは、途中で挫折するくらいなら、初めからやらないほうがよいということでもないでしょう。そうではなく、真実に、誠実に、主に従っていく道を、よく吟味しながら求めていくということです。それは人間的に計算高く生きることではありません。しかし無鉄砲でもない。熟慮が求められるのです。その姿勢について考えながら、生きていくのです。

(6)信仰生活の戦い

信仰生活というのは、ある意味で戦いの連続です。ひとつは不信仰との闘いです。自分の中で、それは絶えず、頭をもたげてきます。「こんなことをやっていて、一体何になるのか。教会で過ごしている時間や奉仕の時間は、無駄な時間ではないか。もっと別のことに有効に使ったほうがよいのではないか。そもそも信仰とは単なる思いこみではないか。」

あるいは逆に、信仰と言いつつ、自分は「信仰」を利用しているのではないかという思いにとらわれることがあります。自分は不純な動機で、主に従っているのではないか。牧師であってもそうです。いや牧師であればこそ、自分は信仰を仕事のために利用しているのではないかと考えてしまうことがあります。

確かに信仰とは、そういうものではないでしょう。家族よりも、自分よりも、イエス・キリストを優先する。そして自分の十字架を負って従わなければならない。しかし、なかなかそうはなれないものです。それも現実です。

そこで挫折して去るのでもなく、逆に開き直るのでもない。自分の中には、自己中心的な思いがあるのをわきまえながら(それを承知しながら)、知恵をあおぎ、分別を求めて従っていくことが長続きする姿勢ではないかと思います。

「これでもうマスターした」ということではなく、絶えず自己吟味していく思慮深さです。時には、間違っていると思ったら引き返す勇気と判断をもつことも必要でしょう。あるいは自分を絶対化せず、絶えず相対化しつつイエス様の弟子として生きていく。そういうことを吟味して思慮深く、しかも自分の限界をわきまえながら従っていくのです。牧師の生活も、そういうところがあります。

信仰とは一時(いっとき)のことではなく、一生の問題です。いや生と死を超えた問題でさえあります。でも信仰の道は、重くつらいものではありません。時々、確かにそういうこともありますが、少なくともそれだけではない。そこには、突き抜けた明るさと自由さがあります。解放があります。それは喜ばしい道です。

「主に従うことは なんとうれしいこと
心の空 晴れて 光は照るよ。
主のあとに続き
共に進もう
主のあとに続き
歌って進もう」『讃美歌21』507

この歌の通りです。

(7)塩気のなくなった塩

最後に「塩気のなくなった塩」のたとえが記されています。唐突な感じもしますが、ルカはこのたとえを、「主イエスに従う道」という流れの中で、ここに置いたのでしょう。「塩気のなくなった塩」は、もはや塩とは呼べないでしょう。「塩気のなくなった食べ物」であれば、塩をかければすむでしょうが、塩に塩気がなくなれば、意味がない。イエス・キリストは、この自己矛盾のようなたとえを用いながら、真実にイエス・キリストに従っていない者は、まさに「塩気のなくなった塩」のようなものだと指摘されるのです。クリスチャンとして生きることは、この世の中で塩のような働きをすることでしょう。「あなたがたは地の塩である」(マタイ5:13)と言われたとおりです。しかし私たちは、そこで本来の塩の役目を果たしているでしょうか。そうでなければ、もはや捨てられるだけということになります。

ここには随分厳しいことが書かれていますが、そこで戸惑っていても、あまり意味はないでしょう。そういう戸惑いの気持ちも含めて、すべてをイエス様に委ねて従っていく決心をする。その中で生きる道、本当に大切なことが示されるのではないでしょうか。

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