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2023年11月19日説教「公 正」松本敏之牧師

出エジプト記22章20~26 ヤコブの手紙1章22~27節

(1)四倍、または五倍にして返す

出エジプト記の「契約の書」と呼ばれるところを読んでいます。今回も前回同様、新共同訳聖書の小見出しを参考にしながらお話します。先ほどは22章20~26節を読んでいただきましたが、この箇所を中心に、新共同訳の小見出しの始まりである21章37節から22章の終りまでを取り扱います。煩わしく見える法律集のようなものですが、ここにも興味深い事柄がたくさん散りばめられています。新共同訳の小見出しでは、(6)盗みと財産の保管、と題されている項目から始まります。

「人が牛または羊を盗んで、これを屠るか、売ったりした場合、その者は牛一頭に対して五頭の牛で、また羊一匹に対して四匹の羊で賠償しなければならない。」出エジプト21:37

盗みをした場合には、4倍ないし5倍にして返すということです。私はこれを読んで新約聖書の、有名な徴税人ザアカイの話を思い起こしました(ルカ19:1~10)。

ザアカイは、貧しい人たちから財産を横取りするようにし、税金に上乗せして、私腹を肥やしていました人でありましたが、イエス・キリストと出会って人間が変えられます。誰も友だちがいなかったのに、イエス・キリストは、彼を見るなり、「今日は、あなたの家に泊まることにしている」とおっしゃったのです。彼はうれしくて、精一杯のもてなしをしました。そして彼は、こう宣言します。

「主よ、私は財産の半分を貧しい人々に施します。また、誰からでも、だまし取った物は、それを四倍にして返します」ルカ19:8

ザアカイは、誰も強制していないのに、自ら進んでそう言ったのですが、その背景には、この「契約の書」、神様の前に誠実であるためには、4倍ないし5倍にして償わなければならない、という規定があったからではないかと察せられます。

(2)正当防衛と過剰防衛

その次は泥棒を殺してしまった場合の話です。

「もし盗人が家を壊しているところを見つかり、打たれて死んだなら、死なせた人には血の責任はない。しかし、もし日が昇っていたなら、その人には血の責任がある。」22:1~2a

これは、今日の言葉で言えば、正当防衛と過剰防衛のようなことではないでしょうか。夜に侵入された場合は、相手も見えず、こちら側も不安である。泥棒を殺してしまったとしてもやむを得ない。しかし明るいところでは「やむを得ない」とは言えない、ということです。殺さずに済むものを殺してはならない、ということです。

戦争という事態においては、私たちは自分を守るために、あるいは家族を守るために、どうしても攻撃してくる相手を殺さざるを得ないということもあるかもしれません。(もちろん、そうした状況を発生させること自体が問題なのですが)。しかしそれを超えることをしてはならない、ということでしょう。今、ガザでイスラエルの軍隊が行っていることは明らかに過剰防衛であり、戦争犯罪であるということを、私たちは声を大きくして訴えていく必要があるでしょう。正当防衛とは言えない、ということです。旧約聖書のこの段階ですでに、そうしたことを戒めているということがわかります。

(3)ぶどう畑のものを食べる

「ある人が畑やぶどう畑で家畜に草を食べさせ、彼が家畜をそのまま放置して、家畜が他人の畑のものを食べてしまった場合、自分の畑やぶどう畑の最も良いもので賠償しなければならない。」出エジプト記22:4

自分の畑の草がもったいないから、他人の畑の草を食べさせることもあったかもしれません。その場合は、最上のものをもって償わなければなければならないというのです。

ただし人間の場合は違っていました。貧しい人が、自分の飢えをしのぐために、人の畑に入ってその畑のものを食べることは許される行為として規定されていました。こういう言葉があります。

「隣人のぶどう畑に入ったなら、思うまま満足するまでぶどうを食べてもよい。しかし、それを籠に入れてはならない。隣人の麦畑の中に入ったなら、手で穂を摘んでもよい。しかし、隣人の麦畑で鎌を使ってはならない。」申命記23:25~26

面白いですよね。これが背景となって、イエス・キリストと弟子たちが麦畑を通り過ぎる時に、その麦の穂を摘んで食べるという記事が新約聖書に出てきます(マタイ12:1~3)。今日の私たちの法律からすれば、これも泥棒行為になるでしょうが、その行為は許されていたのです。ただし限度があった。籠に入れて持って帰ってはいけませんよ。鎌を使ってはいけませんよ。貧しい人のことを配慮した戒めであります。神様の温かい配慮を見るような気がいたします。

その後、火事の話が出てきます(22:5)。火を出した者の責任が問われています。放火の場合だけではなく、たとえ過失の場合でも、火を出したものが償わなければならないというのです。

(4)預かり物をなくした場合

さらに、誰かの物を預かっている間に、それが盗まれた場合の責任は誰にあるかというような規定が続きます(6~14節)。三人の人がいます。盗人と、預かり物の持ち主と、それを預かっていた人です。盗人が見つかった場合は盗人が償う責任がある。当然です。盗人が見つからなかった場合は、それを預かっていた人は、自分が盗ったのではないという誓いをしなければならない。

あるいは誰かが人のものを盗み、それが本当はどちらのものであったのか争う場合には、両者が神の御もとに進み出て、自分は人のものを盗んでいないと誓いをする。その上で、どちらが正しいことを言っているのか、神の判断を仰ぐというのです。もちろん祭司がそれを執り成す、裁くのでしょう。

その次は、預かっている家畜が死ぬか、病気になるか、盗まれた場合の責任です。畑を借りて耕す人がいるように、家畜を借りて、それで仕事をする人がいました。借り賃も支払っていました(14節参照)。そのように借りている間に起きた事件、あるいは事故。証人がいない場合には、「自分は決して人の持ち物に手をかけなかった」という誓いをする。そうすると、所有者はそれを受け入れなければならない。ただし彼のところから盗まれた場合は、賠償責任があるというのです(11節)。また野獣にかみ殺された場合は、その証拠を見せなければならないとあります(12節)。

私は、創世記のヤコブの息子ヨセフが、兄たちにエジプトへ行く商人に売り渡された時のことを思い起こしました。あの場合には、家畜ではなく、ヨセフという一人の人間でありました。彼が野獣に殺されたということの証拠として、兄たちはヨセフの服にわざと野獣の血をつけて、父ヤコブに見せたのです(創世記37:18~35)。もちろん、それは偽証でありました。

(5)必ず責任が伴う

さてここまで(14節)のところは、今日の私たちにも受け入れられますが、ここから先(15~19節)は、なかなか今日の私たちには、受け入れられないものです。

「もし人が、まだ婚約していないおとめを誘惑し、彼女と寝た場合、必ず結納金を支払って、自分の妻としなければならない。彼女の父が彼女を与えることを固く拒むなら、その者はおとめの結納金に当たる銀を支払わなければならない。」出エジプト22:15~16

これは、女性が一人の人間として人格を認められていなかった時代の律法です。今日の私たちからすれば、こんな男のわがまま、勝手なことが許されるのか、と思うでしょう。当然のことです。ただこのところで何を言おうとしているかと言うと、「その行動には必ず責任が伴う」ということです。今日であれば、その女性がその人と結婚したくない場合は、それをはっきり断る。そして賠償金を要求するということになるでしょう。しかしこの当時は、その父親がその女性の保護者でしたので、父親が娘に代わって、それを拒む権利をもっていたのです。こういう規定がない状態では、弱い立場の人間、その女性がしばしば泣き寝入りということがありました。

(6)寄留者、寡婦、孤児

「契約の書」を細かく見ていきますと、時代的制約のような事柄もたくさん出てきます。それに続く17~19節もそうでしょう。しかし、それと同時に、今日においても普遍的に妥当する事柄、いや今日の法律よりも深い次元の事柄、その両方を見るような思いがいたします。特に20節以下の箇所は、神様の心がどこにあるかということが、よく表れている部分であると思います。

「寄留者を虐待してはならない。抑圧してはならない。あなたがたもエジプトの地で寄留者だったからである。いかなる寡婦も孤児も苦しめてはならない。あなたが彼らをひどく苦しめ、彼らが私にしきりに叫ぶなら、私は必ずその叫びを聞く。」出エジプト22:20~22

旧約聖書の時代、寄留者、寡婦、孤児、これらの人々は、社会の中で、最も弱い立場にある人たちの代表でありました。この人たちには、彼らを守り、支える保護者がいませんでした。だから共同体がその人たちを守り、養う責任があるというのです。「まず、あなたがた自身がエジプトで寄留者であったことを思い起こしなさい。その時、神様が力強い御手をもって、あなたがたを守り、支え、導き出してくださったではないか。その恵みを思い起こすことによって、あなたがたが今、何をなすべきかが見えてくる」と言うことです。寡婦、孤児、寄留者、彼らがどのように大事にされていくか。それがその共同体がどれほど成熟した共同体であるかどうかの一つのバロメーターなのだと思います。

聖書を読んでいると、特に旧約聖書を読んでいると、神様は、弱い者の味方をされる、ということが強く出てきます。弱い者いじめをゆるさない。それは聖書の神様の大きな特徴です。しかしそれはもう一つ深いところでは、神様は「公正な」神様だからだと言えると思います。「公正」という言葉はあまり使われないかもしれません。「公正取引委員会」などでは出てきます。「公平」と「正義」をあわせたような言葉であり、意味です。なぜ神様はそういうお方なのか。考えてみると、それはこの世界、公正ではなく、強い者、力をもつ者、裕福な者に偏った社会であるからではないでしょうか。神様は弱い者の味方をすることによって、自ら公正であることを示されるのです。

先ほど読んでいただいたヤコブの手紙の中にも、次の言葉がありました。

「みなしごや、やもめが困っているときに世話をし、世の汚れに染まらないように自分を守ること、これこそ父である神の御前に清く汚れのない信心です。」1:27

こうしたことは、今日の私たちの社会においても、教会においても、大事なことではないでしょうか。これをもっと具体的にしたような戒めが申命記の中に出てきます。

「あなたが畑で刈り入れをするとき、畑に一束忘れても、それを取りに戻ってはならない。それは寄留者、孤児、寡婦のものである。そうすれば、あなたの神、主が、あなたの手の業すべてを祝福してくださる。あなたがオリーブの実を落とすとき、後から枝をくまなく探してはならない。それは、寄留者、孤児、そして寡婦のものである。

あなたがぶどう畑でぶどうを摘み取るとき、後で摘み残しを集めてはならない。それは、寄留者、孤児、そして寡婦のものである。あなたがエジプトの地で奴隷であったことを思い起こしなさい。それゆえ私は、あなたにこのことを行うように命じるのである。」申命記24:19~22

(7)ルツの物語

美しい言葉であると思います。この言葉ですぐに思い起こすのは、ルツの物語です。ルツは夫に先立たれて、寡婦になります。しゅうとめのナオミはルツに実家に帰って再婚するよう、何度も勧めるのですが、ルツはナオミを見捨てず、どこまでもナオミに従って行くのです。しゅうとめのナオミが故郷のユダに帰る決心をした時も、ルツは住み慣れた土地(モアブ)を離れて、ナオミに従いました。ルツはユダの地ではナオミ以外には誰も知り合いがしませんでした。寡婦であり、寄留者でありました。しかしそのルツに目をかけた人がいました。ボアズという人でした。ボアズは、ルツに対して、「心配せず、私の麦畑で落穂拾いをすればいい」と言いました。そして自分の畑で働く若者に向かっては、こう命じるのです。

「刈り穂の束の間でも、穂を拾うことができるようにしてやりなさい。惨めな思いをさせてはいけない。また、束から穂を抜き取って、あの娘が拾えるように落としておきなさい。とがめてはいけない。」ルツ2:15~16

やがてボアズは、正式な手続きを経てルツを妻としてめとり、その二人の間から、エッサイが生まれ、エッサイから後に王となるダビデが生まれてくることになります(ルツ4:17)。そのようにして、弱い人たちに対する配慮の中で、神様の物語が育まれていくのです。

(8)憐れみ深い神に感謝

「もしあなたの隣人の上着を質に取るようなことがあっても、日が沈むまでに彼に返さなければならない。それは、彼のただ一つの服、肌を覆う上着だからである。彼はほかに何を着て寝ることができるだろうか。彼が私に向かって叫ぶとき、私はそれを聞き入れる。私は憐れみ深いからである。」出エジプト22:25~26

こういうきらりと光る言葉に出会うのです。「私は憐れみ深いからである。」このようなところにこそ、神様の御心があらわれています。

そしてイエス・キリストというお方はそういう神様の「憐れみ深さ」が、人の姿をとってあらわれた方ではなかったでしょうか。イエス・キリストは、「この最も小さい者の一人にしたの、すなわち、私にしたのである」(マタイ25:40)と言って、その関係を明確に位置付けられました。

終わりの27節以下の部分は、新共同訳聖書では、「祭儀的律法」と題されています。

「あなたの豊かな収穫と果汁を献げるのをためらってはならない。あなたの息子のうち初子を私のものとしなければならない。」出エジプト22:28

献げ物の心得について、教えられる思いがします。私たちも献金という献げ物をしますが、それは残り物ではなく、最初のもの、自分の中で最も大事なものを取り分けて献げるというのが、本来の心でありましょう。もちろん、そのことは神様が私たちにしてくださった恵みと一つです。「あなたがたが寄留者であった時に神様は大事にしてくれたでしょう。だから、あなたがたも大事にしてあげなさい」ということと「神様はとても大事なものを私たちにささげてくださった。だからあなたがたも神様に最も大事なものを捧げなさい」ということ。この二つは、やはり切り離せないところでセットになっているのです。

私たちは、イエス・キリストの名のもとに、ここに呼び集められ、ここで一つの群れとされています。そうした中、神様の御心、イエス・キリストの御心に応える群れでありたいと思います。

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