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2024年1月21日説教「祈りは聞かれる」松本敏之牧師

ヨハネによる福音書2章1~12節

(1)物語のあらすじ

今日、私たちに与えられましたヨハネによる福音書第2章1~12節は、本日の日本基督教団の聖書日課です。カナの婚礼と呼ばれる物語です。

少し順を追って、物語を見てまいりましょう。ガリラヤのカナという町で、ある人が結婚式を挙げ、その結婚披露宴での出来事です。イエス・キリストの母マリアもそこにいました。彼女がただの招待客であったのか、あるいは主催者側の人間であったのか、はっきり記されてはいませんけれども、いずれにしろ、この新郎新婦、あるいはその家族とかなり親しい間柄であったようです。そこへイエス・キリストも弟子たちと一緒に招かれました。この披露宴でどういうわけか、ぶどう酒が足りなくなってしまいます。宴会の途中でぶどう酒がなくなるというのは、それを主催した人のメンツにかかわることであったでしょう。「さあこれは大変だ」ということになります。人間の準備することというのは、どんなに「これで完璧だ」と思っていても思わぬ落とし穴があるものです。

そこで、マリアは息子であるイエス・キリストに向かって、「ぶどう酒がありません」と言いました。彼女は、イエスであれば、この事態を何とか打開できるに違いないと思ったのでありましょう。しかしイエス・キリストは、彼女にこう言われます。

「女よ、私とどんな関りがあるのです。私の時はまだ来ていません。」ヨハネ2:4

何だか非常に冷たく聞こえる言葉です。この返事を聞いたマリアはどうしたでしょうか。「お母さんに向かって何という口のきき方をするのですか」と、言ったでしょうか。そうではありませんでした。召し使いたちを呼んで、そっと「この方が言いつけるとおりにしてください」(5節)と言うのです。

しばらくして、イエス・キリストがこの召し使いたちに、「水がめに水をいっぱい入れなさい」(7節)と言われると、召し使いたちは、そのとおりにいたしました。そしてそれを宴会の世話役のところへ持っていくと、水は最上のぶどう酒に変えられていました。世話役は、花婿を呼んで、このように言いました。

「誰でも初めに良いぶどう酒を出し、酔いが回った頃に劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」ヨハネ2:10

ざっと、そういうお話であります。

(2)願いを率直に

私は、この物語は私たちの信仰生活にとって、特に祈りの生活において幾つか大切なことを示唆していると思います。一つは、この母マリアの態度です。彼女は、困った状況を、率直にイエス・キリストに告げました。もしかすると彼女には、「母親の願いであれば、きいてくれるであろう」という甘えがあったかもしれません。しかしとにかく、「ぶどう酒がありません」と告げたのです。これは大事なことであろうと思います。

私たち日本人は、「謙譲の美徳」というものがあるせいか、遠慮深くて、なかなか自分の気持ちを表に表しません。その点、ブラジル人などラテンの人は随分違うなあ、と思います。素直に、率直に自分の気持ちを表します。私は祈りにおいてまで、遠慮深くある必要はないと思います。

今朝の家族礼拝で与えられた聖書箇所にも「苦しんでいる人があれば、祈りなさい」(ヤコブ5:13)という言葉がありました。「苦しい時の神頼み」という言葉があります。それはしばしば都合のいい、勝手な人を指すのに使われますけれども、それはそれとして、やっぱり苦しんでいる時は祈ればいいのです。どんなにわがままな祈りであってもいい。そういう時にこそ、私たちは神様との関係を深くするのだと思います。

「求めなさい。そうすれば与えられる」(マタイ7:7)という約束を信じ、正直に自分の願いを主の前に差し出すことが大切です。それをしないと、私たちの中で祈りがくすぶって、不完全燃焼になってしまうのではないでしょうか。

ただしそのことは、私たちの祈りがすぐにこたえられるということを意味してはいません。この時の母マリアの願いもすぐにこたえられたわけではありませんでした。「女よ、私とどんな関りがあるのです。私の時はまだ来ていません」と、突き放されたような言葉が返ってきました。しかし、マリアの願いはイエス・キリストに届いたのです。

私たちも、祈りが聞かれていないように思える時でも、とにかくこの祈りは届いている、すでにお聞きくださっているのだ、と信じたいと思うのです。マリアはそれを信じたからこそ、召し使いたちに、「この方が言いつけるとおりにしてください」と言ったのでしょう。

(3)最もふさわしい時

それでは、「求めなさい。そうすれば、与えられる」(マタイ7:7)という約束にもかかわらず、どうしてすぐにこたえられないことがあるのでしょうか。それは祈りがこたえられるには、それに最もふさわしい時と、最もふさわしい形があるからだと思います。私たちの期待している時に、私たちが期待している形で、祈りが聞かれるとは限りません。神様はは私たちの熱い思いを受けとめつつ、最もよい時と、最もよい形を選ばれます。この時もイエス・キリストは、一旦距離を置きつつ、誰も予想しなかった形で、マリアの期待をはるかに超えた形で、それにこたえてくださいました。

神様は、しばしば時を延ばされます。それはどうしてかと言えば、すべての人間的可能性が終わり、ここから先はもう神様の可能性でしかないということがわかるため、つまりこれはもう神様が働いたとしか考えられないということがわかって、私たちが神様に栄光を帰するためではないでしょうか。

(4)最もふさわしい形

私たちの求めている通りのこたえが与えられるとも限りません。先ほど願いを率直に差し出すことが大事だと、申し上げましたが、その中には、確かに私たちのわがままな願いもあるでしょう。もしも私たちのわがままな願い、あさはかな祈りまで、すべてこたえられるとすれば、かえって恐ろしいことになるのではないでしょうか。

神様が私たちのわがままな祈り、たとえば極端なことを言えば、「あの国を滅ぼしてください」、「私をこの国の支配者にしてください」というような祈りに、そのまま応えられる方であるならば、それこそ恐ろしいことです。この世界は、とっくの昔に滅んでいるのではないでしょうか。

神様は、私たち以上に、私たちに何が必要であるかをよくご存じであって、私たちに最もふさわしいものをもって、(時には私たちの期待とは違うものであるでしょうが)、私たちの祈りにこたえてくださるのだと思います。

マタイ福音書の7章9~10節に、「あなたがたの誰が、パンを欲しがる自分の子どもに、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか」という言葉があります。私は、あまのじゃくですから、これを少しひねって、もしもこれが反対だったら、どうなるだろうかと思うのです。つまり子どもが知らずして、石を欲しがって食べようとしたら、あるいは蛇を欲しがっていたら、それをそのまま、子どもの言うままに、石や蛇を与えるのが本当の親でしょうか。わたしはそうではないだろう、と思います。その時には、むしろ石や蛇が与えられないことのほうが恵みでしょう。真剣な祈りは必ず聞かれます。しかし私たちの求めとは違った形で応えられることもあるのです。

(5)聞かれない祈り

いつまで経っても祈りが聞かれない、いや聞かれないままで終わってしまったということもあるでしょう。私が最初に働いた阿佐ヶ谷教会の主任牧師であった大宮溥(ひろし)牧師は、十一歳の娘さんを白血病で亡くされましたが、その時のことをこう記しておられます。

「恵里の発病以来、わたしはどんなに度々激しく祈ったことでしょうか。時々ふと、自分はこれまでこんなに激しく祈っただろうかと反省しました。牧師として、多くの教会の方、そうでない方の病床を訪れ、葬儀を司式して、病人のため、なくなった人の家族のために祈ってきました。わたしとしては、その一つ一つ、心を打ち込んでやったつもりですが、わが子のために心を痛め、必死で祈るこの時にくらべると、比較にならないと思いました。それはそれとして、わたしは祈りの中で神様をさがしに行き、神様にしがみついて、恵里を助けて下さい、恵里を返して下さいと祈りました。しかし、ちっともよくならないのです。本当に自分の生命をとって下さってもよいから、恵里の生命を助けて下さいと祈りました。しかし聞かれないのです。神様の無慈悲さに、怒りがこみあげてくることもありました。しかし、そんな荒れた気持になったからとて、事態は変りません。居ても立ってもおれない気持をもって、どこへ行ったらよいでしょうか。結局は神様にすがるほかないのです。体内から血が流れ出すように力が抜けてゆき、死のつめたさに体温がいつも奪われているような思いで、ただただ神様にしがみついている八か月でした。
 ところが、恵里が死んで、わたしの祈りが聞かれないままに終った時、わたしはふと、朝に夕に祈りつづけて、神様とかたく結び合わせていただいている自分に気付きました。『キリストがわたしのうちに生きておられる』(ガラテヤ2:20)という事実の発見でした。
 祈りは子供のためよりも、自分のためでした。恵里は、牧師である父を、神様と更に深く交わらせるために、最後の役目を果して召されたのです。わたしは厳粛な主の御わざに居ずまいを正す思いでした。」『死の陰の谷を歩むとも 愛する者の死』18~20頁

すべての神の業には時があり、それにふさわしい形があります。神は、私たちの思いを超えて、一番ふさわしい時に、一番ふさわしい形で応えてくださることを信じたいと思います。

(6)神の麗しいみわざ

カナの婚礼の日、マリアはイエス・キリストが必ず何かをしてくださることを信じて、その時を待ちつつ、自分でなすべきことをいたしました。召し使いたちにイエス・キリストを紹介して、「この方が言いつけるとおりにしてください」と、彼女は言いました。そして召し使いたちも、主イエスが「水がめに水をいっぱい入れなさい」とおっしゃった時、もしかすると、「そんなことをしている場合ではありません。今は必死になってぶどう酒を探しているのです」と思ったかも知れませんけれども、人間的な思いを捨てて、とにかく主イエスの言葉に従いました。そうすると、イエス・キリストはそれを用いて、大きな奇跡を起こしてくださいました。

最後に、有名な旧約聖書、コヘレトの言葉第3章1~11節を、新しい訳、聖書協会共同訳でお読みいたします。

「天の下では、すべてに時機があり
すべての出来事には時がある。
生まれるに時があり、死ぬに時がある。
植えるに時があり、抜くに時がある。
殺すに時があり、癒すに時がある。
壊すに時があり、建てるに時がある。
泣くに時があり、笑うに時がある。
嘆くに時があり、踊るに時がある。
石を投げるに時があり、石を集めるに時がある。
抱くに時があり、ほどくに時がある。
求めるに時がある、失うに時がある。
保つに時があり、放つに時がある。
裂くに時があり、縫うに時がある。
黙すに時があり、語るに時がある。
愛するに時があり、憎むに時がある。
戦いの時があり、平和の時がある。

 人が労苦したところで、何の益があろうか。
 私は、神が人の子らに苦労させるよう与えになった務めを見た。神はすべてを時宜に適って麗しく造り、永遠を人の心に与えた。だが、神の行った業を人は初めから終わりまで見極めることはできない。」コヘレトの言葉3:1~11

私たちひとりひとりの歩みにおいても、教会の歩みにおいても、神様はそのように時を定めて、最もふさわしい時に、最もよい形で、大きなみわざをなしてくださるものと信じたいと思います。

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