1. HOME
  2. ブログ
  3. 2023年7月9日説教「真 実」松本敏之牧師

2023年7月9日説教「真 実」松本敏之牧師

出エジプト記20章16節
マタイによる福音書5章33~37節

(1)裁判における偽証

今日は十戒の第九戒である「隣人について偽りの証言をしてはならない」という戒めから、御言葉を聞いてまいりましょう。この戒めを聞きますと、すぐに「嘘をついてはいけないということだな」と思われるかも知れませが、事柄はそう単純ではありません。

元来、この戒めが意味していたものは、単なる「嘘や中傷を意味するのではなく、裁判における偽証を禁止する戒め」(大野恵正、『新共同訳、旧約聖書注解』)であったようです。大野恵正さんは、「偽証は正しい人の名誉を傷つけ、裁判を誤らせて、社会的公正を崩壊に至らせる。人間の人格的尊厳と社会的公正の確立こそは、人間が真に人間として生きるに不可欠な社会の基盤である」(同上)と述べています。

私たちの中で、実際、裁判にかかわった経験のある人は、少ないかもしれません。私もかつてはあまり関係ない世界のことであると思っていましたが、案外身近にあるのですね。ニュースになるような大きな事件でなくても、私たちの世界は多くの訴訟があり、裁判が行われているのだと改めて知りました。そうしたところでは、私たちは真実を語ることと誠実さが求められている。そして「隣人について偽りの証言をしてはならない」ということが十戒の中に入れられていることは、これが単に人と人との関係のことではなく、神の前での誠実さが問われているということです。ですから、間違って偽りの証言が裁判や刑事告訴などで受け入れられてしまった場合、かえって神の前での罪はより重くなるということになるでしょう。

刑事裁判は、今日では科学技術が発達したせいもあり、誰かの証言よりも、指紋であるとか髪の毛などのDNAであるとか、物的証拠の方が大きな意味をもっているようです。しかし昔の裁判では、そうした物的証拠よりも証言が重んじられました。二人以上の証言によって、有罪か無罪かが決定しました。ですから、そこで偽証がなされたら、とんでもない冤罪になり得たわけです。人の将来がかかっている訳ですから、偽証の罪は非常に重いものとされました。

また当時は、今日よりも裁判が日常的に行われていたようです。今では警察があり、警察の捜査や逮捕に対して納得がいかない時に初めて、裁判が大きな意味をもってきますが、当時は何かいざこざがあると、すぐに「裁判だ」ということになりました。もっともこの当時の裁判というのは、立派な裁判所ではなく、神殿の境内や町の広場の青空でなされたようです。あの姦淫を犯した女の裁判もそうでした(ヨハネ8章)。

(2)再び、ナボトのぶどう畑の話

こうした裁判においては、やはりお金持ち、権力者に有利な証言(偽証)がしばしば行われたようですし、そこで裏金も動いたようです。
私は、前回、「盗んではならない」という戒めを破った聖書の中の実例として、「ナボトのぶどう畑」(列王記上21章)の話を引用しました。あの話は、実はこの「隣人について偽りの証言をしてはならない」という第九戒とも深い関係があります。

サマリアの王アハブは、宮殿のすぐそばにあるナボト所有のぶどう畑を欲しくなり、そのように申し出るのですが、見事にナボトに断られました。家で不機嫌にしていたアハブ王に対して王妃イゼベルは「あなたがこの国の王でしょう。私に任せなさい」と言いました。イゼベルの講じた策というのは、ならず者を二人彼に向かって座らせ、彼らに「ナボトが王を呪った」と証言させるというものでした。二人のならず者は言われた通りに偽証し、ナボトは石で打ち殺されました。ですから、この時アハブとイゼベルは、「殺してはならない」「盗んではならない」という戒めと並んで、「偽証してはならない」という戒めをも合わせて犯したと言えるでしょう。

(3)『ハイデルベルク信仰問答』

今回も、『ハイデルベルク信仰問答』が、このところで何と語っているかを聞きたいと思います。『ハイデルベルク信仰問答』は、三つの事柄をあげています。

「問112 第九戒では、何が求められていますか。
答  わたしが誰に対しても偽りの証言をせず、/誰の言葉をも曲げず、陰口や中傷をする者にならず、/誰かを調べもせずに軽率に断罪するようなことに手を貸さないこと。」

これが一つ目です。裁判で偽証してはならないということを含め、とにかく公正であれ、と告げます。そしてさらに「陰口や中傷をする者にならず」と言います。広い解釈です。そして二つ目、

「かえって、あらゆる嘘やごまかしを、/悪魔の業そのものとして/神の激しい御怒りのゆえに遠ざけ、/裁判やその他のあらゆる取引においては真理を愛し、/正直に語りまた告白すること。」

そして、三つ目、

「さらにまた、わたしの隣人の栄誉と威信とを/わたしの力の限り守り促進する、ということです。」

こうしたことすべてが第九戒で、私たちに求められているというのです。「真理を愛しなさい」ということ。三つ目にありました隣人の栄誉と威信を促進しなさい。言い換えれば、隣人の弁護者となりなさい、ということです。私は、これはとても意味深く、美しい解釈であると思います。

(4)誓ってはならない

イエス・キリストは、マタイ福音書の5章において、「殺してはならない」「姦淫してはならない」という戒めについて、独自の深い解釈をされましたが、「偽証してはならない」に関しては直接語ってはおられません。その代わりとして「偽りの誓いを立てるな」という戒め(レビ記19:12等)について語られています。それが今日読んでいただいた箇所です。

「また、あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『偽りの誓いを立てるな。誓ったことは主に対して果たせ』と言われている。しかし、私は言っておく。一切誓ってはならない。天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である。地にかけて誓ってはならない。そこは神の足台である。エルサレムにかけて誓ってはならない。そこは偉大な王の都である。また、あなたの頭にかけて誓ってはならない。髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできないからである。『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪から生じるのだ。」マタイ5:33~37

主イエスは「一切、誓うな」と言われました。これは、第九戒の「偽証してはならない」と同時に、第三戒の「みだりに主の名を唱えてはならない」とも深い関係があります。イエス・キリストは、どうしてこのように言われたのでしょうか。「うかつに誓うと、後がこわいぞ。後で偽証罪に問われるぞ。後で責任を問われるようなことは、なるべく口にしない方が身のためだ」という、いわば保身術、処世術を語られたのでしょうか。私はそうではないと思います。そんな消極的なことではありません。

そもそも誓いとは何か、と考えてみますと、それは「誓いをした後は、絶対に嘘は言わない。嘘であれば、裁きを受けてもよい」ということでなされるわけです。そして何か確かなものにかけて誓います。アメリカなどでは、クリスチャンは聖書に手を置いて、「聖書にかけて」誓います。他の宗教の人は、自分の信じる宗教の経典などに手を置いて誓うのだろうと思います。

ですから本当は神にかけて誓うのが一番よいのです。恐らくはもともとは「神にかけて」ということがよくあったのではないかと思います。誓いの度に神様が引き合いに出される。自分の都合で神様が持ち出される。神様の了解を得ている訳ではありません。こっちだけの話です。もしも神様がひょっこり出てこられたら、「私はそんな話は知らない」と言われるかも知れません。

このところでは、「神にかけて誓う」というのは出てきませんので、ある意味で、「主の名をみだりに唱えてはならない」という戒めが生きていたと言えるかも知れません。しかしその代わりに神の次に確かそうなものが「天にかけて」とか「地にかけて」とか「エルサレムにかけて」とか、次々に出てくる。おもしろいことに、その持ち出すものによって、保証の程度を表すことにもなったようです。たとえば、「天にかけて」と言えば90%位。「地にかけて」と言えば80%位信用できる、「エルサレム」、「まあ70%」というような具合でしょうか。そこで主イエスは、「いくら天と言ってみたところで、それは神の玉座だ、いくら地と言ってみたところで、それは神の足台だ。言葉のごまかしに過ぎない」と言われたのです。神の名前さえ出さなければそれでいいというのではありません。)

イエス・キリストが「一切誓うな」と言われたのは、一つには「自分の都合で、自分の真実を保証するために神を持ち出すのはやめなさい」ということでしょう。もう一つ大事なことは、「誓いということによって、真実である言葉と、真実でなくてもよい言葉を区別するのはやめなさい」ということではないでしょうか。

人間が全く嘘をつかなければ、そもそも誓いなど必要ないでしょう。誓いがあること自体、言葉と真実が直結していないことのしるしであると言えるでしょう。私たちは、真実である言葉と真実でない言葉を使い分けたりするのではなく、いつでもどこでも神様の前で真実であること、そして隣人の前で真実であることが問われているのではないでしょうか。

(5)真実を語るとは何を意味するか

ただしそのこと、つまり神様に対して、そして隣人に対して真実であり続けるということは、表面的な意味で、事実と異なることを語ってはならない、ということではありません。「真実を語る」ということは、必ずしも「嘘をつかない」ということではないのです。

この十戒を学ぶ中で、私はボンヘッファーの言葉をしばしば引用してきましたが、ボンヘッファーが「真実を語るとは何を意味するか」ということで興味深いことを言っています。

「一人の児童が級友の前で先生から、『君のお父さんは、酔っぱらってうちに帰って来ることが多いというのは本当かね』とたずねられたとする。それは本当のことである。しかしその児童はそのことを否認する。……われわれは……この児童の答えは偽りであると言うことができる。それにもかかわらず、この偽りの方がより多くの真実を含んでいる。すなわち、その答えは、この児童が級友の面前で自分の父親の欠点を暴露したと仮定した時よりも、より現実にふさわしいことである。彼の知識の基準に従って、この児童は正しくふるまったのである。偽りの罪は、ただ教師の上に帰って来るのである。」ボンヘッファー『現代キリスト教倫理』421頁

これは、非常に興味深いたとえです。この子どもは、まだ幼いので、「先生の質問は間違っています」とか「そんなことは、みんなの前で言うべきことではありません」という風に反論することはできません。だから単純に「ぼくのお父さんはそんな人間ではありません」と、いわば嘘をついたわけです。しかしその嘘は、「確かに、ぼくのお父さんはいつも酔っぱらって帰って来ます」という事実に即した言葉よりも真実だということです。ボンヘッファーは、「もし私の語る言葉が真実に忠実であろうとすれば、私の言葉は、それが誰に語るか、誰から問われているか、何について語るかに応じて違って来る。真実に忠実な言葉は、それ自身一定不変のものではなく、生活そのものと同様に生きているものである」(前掲書419頁)と言っています。

ボンヘッファーがこれを書いたのは、恐らく1943年、彼がナチスに逮捕される直前であったと思われます。彼はこの時、自分が逮捕された時、ナチスからさまざまなことを尋問されるであろうことを予期しながら、これを書き記したのでしょう。まだ捕らえられていない仲間をナチスから守るために嘘をつかなければならないことを想定しているのです。

真実を語るとは何を意味するか。そのところで、一体何が問題になっているか。その言葉がどういう風に機能するか。これはデリケートなことですが、私たちはそこで神様に対して真実であること、隣人に対して真実であることを貫いて、言葉を選ばなければならないのです。時には正しい言葉でさえも、人を陥れることになるし、人を傷つけることになるものであることを思わされます。

(6)偽証のさまざまな理由

バークレーは『十戒 現代倫理入門』という本の中で、さまざまな「偽り、嘘」について九つの偽りを数え上げています。それらは実際には区別できなくて、重なっているものでもあるでしょう。興味深いですので、紹介しましょう。

第一は「悪意からくる偽り」です。誰かが憎い。陥れてやれ、ということでしょう。

第二は「怖れからくる嘘」です。それを言えば、自分の立場が危うくなる。自己保身から怖くなって嘘をつくこともあるでしょう。

第三は「不注意からくる嘘」です。最初はみんなそうかもしれない。そんなに大きな問題になるとは思わなかった。ついはずみで言ってしまった。しかしそこから怖れ、自己保身でいっそう偽りを増幅させていくこともあるでしょう。

第四は「自慢からくる嘘」。自分を大きく見せたい、ということでしょうか。

第五は「利益のための偽り」。利益を得るために嘘をつく。あるいはお金をもらって、いわば仕事として嘘の証言をするということもあるかもしれません。今の時代、そういうことはないと思っていましたが、やはりあります。その人は相手を憎んでいるわけではないけれども、いわば仕事として、誰かを、あるいはどこかの団体や企業を仕事として陥れる人がいることを知りました。

第六は「沈黙という偽り」。黙っていること自体が嘘になることがあるのです。これについては後でもう一度述べます。

第七は「半面真理であるような偽り」。明らかに嘘だとわかるものよりも、半面真理であるような偽りのほうがもっとやっかいであるかもしれません。戦争を始める時には、いつもそうしたまことしやかな嘘が語られるのではないでしょうか。ある部分は歴史的事実である。歴史的事実を拾い上げながら、全体としては間違った方向に導いていく言葉というものがある。

第八として、「自己に対する偽り」を挙げています。あるがままの自分を認めることは難しいことです。そして自分に嘘をつくのです。

そして第九に(最後に)「神に対する偽り」を挙げています。私たちは神の前でも隠し立てをしようとする。しかし神の前では、何も隠し立てをすることはできないということを知らなければならないでしょう。

(7)沈黙という罪

先ほど「沈黙」という偽りということを申し上げましたが、ボンヘッファーは「教会の罪責告白」では、こう述べています。

「教会は告白する。――教会は、中傷と告発と名誉棄損によってその生命を奪われた無数の人たちに対して責任がある。教会は、中傷する者に対してその不正を問いただすことをせず、彼らのなすに任せた。」『現代キリスト教倫理』72頁

ナチスがユダヤ人に大きな罪を擦り付けようとした時、教会は、それが冤罪であるということを知っているにもかかわらず、黙っていた。沈黙するということも偽証の一つだと言おうとしているのです。

現代日本の問題に置き換えて考えるならば、たとえば、私が森友学園問題を思い起こします。「森友学園」をめぐる公文書の改ざん問題で近畿財務局職員であった赤木俊夫さんは自死されましたが、赤木さんのお連れ合いが「情報開示請求に対しうその公文書を作成した」などとして、元財務省理財局長を刑事告発しました。赤木さんらは告発状で、文書が存在することを知りながら「保有が確認できない」などと記載したうその文書を作成したと訴えていました。結局、この訴えも認められることはありませんでしたが、この事件についても、多くの人たちが真実を知りながら、「沈黙する」という形で、偽りの証言をしたということになるのではないでしょうか。

(8)イエス・キリストの裁判

最後に、イエス・キリストが十字架つけられることが決められた裁判のことを思い起こしたいと思います。イエス・キリストを合法的に死刑にするためには、それに相当する証言が必要でした。

「祭司長たちと最高法院の全員は、死刑にするためイエスにとって不利な証言を求めたが、得られなかった。多くの者がイエスに不利な偽証をしたが、その証言は食い違っていたからである。」マルコ14:55~56

イエス・キリストを死刑にするという結論は最初から全員で決めていたようです。しかし思うようにいかないので、とうとう、「お前はほむべき方の子、メシアなのか」と尋ね、イエス・キリストは「そうです」とお答えになった。「これでもまだ証人が必要だろうか。諸君は冒涜の言葉を聞いた」と言って、一気に死刑へと動いていくのです。最後の最後まで真実を貫いたお方が、真実でない言葉によって殺されていく様は、私たちの罪を突きつけられる思いがいたします。しかしそのところで、イエス・キリストが貫いてくださった真実が、逆にまた私たちを生かすことになった、ということを、恵みとして思い起こすのです。

関連記事