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2024年2月4日説教「ベトザタの池にて」松本敏之牧師

ヨハネ福音書5章1~18節

(1)天的な治癒力を求めて

先ほどお読みいただいたヨハネによる福音書5章1~18節は、本日の日本基督教団の聖書日課です。今日はここから御言葉を聞いていきましょう。説教題を「ベトザタの池にて」といたしました。新共同訳聖書も、同じく「ベトザタ」でしたが、その前の口語訳聖書では「ベテスダ」でした。ベテスダという日本語表記で親しんでおられた方が多いのではないでしょうか。

さて、このベトザタの池というのは、エルサレムの町の北方、約350メートルのところにありました。池は二つ並んでおり、そのまわりに五つの回廊があったということです。つまり「日」という漢字のような池を想像していただければよいかと思います。まわりの四つの回廊の他に、その中央に二つの池の隔てのような回廊があったのでしょう。ベトザタというのは、「恵みの家」(あるいは「あわれみの家」)という意味です。しかしこのベトザタの池のまわりの情景は、「恵みの家」という幸いな名前からはほど遠いものでした。

廊下には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていました。というのは、この池には病気をいやす力があると信じられていたからです。実は、聖書協会共同訳、新共同訳聖書では、3節の後半と4節が欠けています。5節の前のところに十字架のような註のマークがついていますが、ヨハネ福音書の一番終わり21章のうしろの部分に、その注の内容がつけられています(208ページ)。そこに、こう記されています。

「彼らは、水が動くのを待っていた。ある時間になると、主の天使が池に降りて来て水を動かしたので、水が動いたとき、真っ先に入る者は、どんな病気にかかっていても、良くなったからである。」ヨハネ5:3b~4

さらに「この池で天使も水浴し、その後癒しを求める病人のために天使の天的な治癒力がいくらか水の中に残るのだ」という説明が加えられている聖書もあるようです。

(2)写本家の誘惑

前にも申し上げたことがあるかと思いますが、どうして聖書によって違いがあるのかというお話をしておきましょう。聖書という書物は、オリジナル原本は存在しません。たとえばヨハネ直筆のヨハネ福音書というのは残っていません。今存在するのは、すべて手書きで伝えられた写本です。ですから版によって微妙に違うわけです。さまざまな版の中で一体どちらがもとの形に近いのかを学者たちが検討して、仮の原本を決めるのです。そこで決められた仮の原本を「底本」と呼びます。その底本をもとにして世界中の言語に「聖書」として訳されていくのです。そして採用されなかった方の写本を「異本」と言います。「底本に節が欠けている箇所の異本による訳文」とは、そういう意味です。先ほどお読みした付録の部分も、書いてある聖書と書いていない聖書がある。どちらがより古いのかということを学者が調べたところ、どうやらない方が古いということになったわけです。つまり最初はなかったものを、後の誰かが挿入したということが分かってきたので、最近の聖書ではこれが取り除かれているのです。しかし聖書に章・節が振られていったのは中世以降のことですので、そこを取り除くと、節が飛んでしまうことになるので、後ろに補足説明のように付けているというわけです。

確かにこの説明がないと、7節の病人の言葉がよく分かりません。

「主よ、水が動くとき、私を池の中に入れてくれる人がいません。私が行く間に、ほかの人が先に降りてしまうのです。」ヨハネ5:7

聖書を書き写していたある人(写本家)は、そういう言い伝えがあることを知っていたのでしょう。それでこの部分を書き写しながら、それがないと読む人がわからないだろうと思って、親切心で挿入しました。そうすると、それから後に書き写された聖書には、全部それが入ってしまいます。あるいは逆のことも起きます。「これは聖書にふさわしくない」と思って、親切心で削除してしまうこともあります。しかしそのようなことは「写本家の誘惑」と言って、本当はやってはいけないことなのです。学者たちが、どちらがオリジナルに近いかを判断する基準に、「わかりにくいもの程、古い。オリジナルに近い可能性が高い」という原則があります。わかりやすいものをわかりにくく書き変える人はいないからです。受け入れやすいものを受け入れがたい言葉に書き変える人はいないからです。

(3)病に苦しむ人の群

さていずれにしろ、そういう理由で、このベトザタの池のまわりには大勢の病人が横たわっていました。この情景を思い浮かべると、本当に心が痛む思いがいたします。そしてその情景は何か私たちの社会の縮図であるように思います。

もちろん今日ではこの時代と比べると、多くの病気が克服されました。これまで絶対に治らないとされてきた病気でも、その原因が解明され、治療方法も見いだされてきました。しかし逆に、これまでは存在しなかった新しい病気も出現してきました。ここ数年のコロナ・ウィルスのこともそうでしょう。あるいは別の形で不治の病というものがやはり存在します。病気というものが、今日においても、私たちを襲う最も大きな苦しみの一つであることには変わりありません。そういう意味で、この病気に取り囲まれて苦しめられている人々の姿は、今日でも決して変わっていないと思うのです。

(4)孤独と競争の社会

しかしそれよりももっと心が痛むのは、この病人の言葉(7節)が示している事実です。三つのことを申し上げます。

一つ目は、「水が動くとき、池の中に入れてくれる人が誰もいない」ということです。つまりこの人には、彼の病気を共に苦しみ、治ることを共に祈り願ってくれる隣人がいませんでした。家族からもとっくに見放されていたのでしょう。38年です。最初は親が面倒を見てくれたかも知れませんが、恐らく親はもういないでしょう。友人もいない。恐らく神殿から、なにがしかの食べ物、献げられたものの残りなどがここに配られていたのでしょう。あとは物乞いをして生きていたのであろうと思われます。

二つ目は、「私が行く間に、ほかの人が先に降りてしまう」ということです。とにかく水が動いたときを見計らって、何とか必死で、自力で入ろうとしても、他の自分より軽い病気の人々が先に入ってしまうのです。彼のために同情してくれる人がいないだけではなく、こうした最も励まし合い、慰め合いが必要な状況においてすら競争原理が支配していました。競争というのは、トップのエリートクラスの人たちだけの問題ではありません。中位の生活をしている人にもそれなりの競争があり、社会の底辺の生活を余儀なくされている人にも、何とかそこから抜け出そうとする競争があって、お互いに足を引っ張り合うことが起きてきます。自分の隣にいる人間は隣人ではなく、競争相手です。お互いに笑顔であいさつを交わしつつも牽制しあって、自分が一歩先んじるチャンスを見計らっている。このことも、私は非常に今日的な光景ではないかと思いました。

(5)絶望とあきらめ

三つ目は、彼の言葉に直接表れていない事柄です。それは彼の絶望、あきらめです。この彼の言葉は、もともとは、イエス・キリストの「良くなりたいか」(6節)という問いに対する答えでありました。ですから、「はい、良くなりたいです」とか「もちろんです」とか、そういう答えが求められていたのです。しかし、彼はもはやそう答える気力もないほど、治ることを期待していません。「何回その言葉を聞いたかわかりません。しかし誰も治すことのできる人はいませんでした」と思ったかも知れません。あるいは「何を当たり前のことをお聞きになるのです」と思ったかも知れません。「もうそんなこと聞かないでください」と、相手をせせら笑い、自分でも自分をせせら笑ったかも知れません。しかしそういうことさえ口に出さないのです。相手の機嫌を損なわないようにして何かを恵んでもらわなければならない、と思ったのでしょうか。彼は、もうこの病の状態に慣れきって、事態はそこから変わりうると全く期待していないということ、それが三つ目の問題です。もしかすると、そこに一番の問題が潜んでいるのかも知れません。

(6)三つの命令

しかしそのように絶望し、そのことに慣れきっているこの男の前に突然、主イエスが表れ、「良くなりたいか」と尋ねられる。そしてその答えを聞かないうちに、突然、「起きて、床を担いで歩きなさい」と命令されました。ここに「起きる」「床を担ぐ」「歩く」という三つの動詞による命令が語られましたが、この三つの言葉は、絶望の中から新しい出発をする象徴的な言葉であります。

「起きる」という言葉は、元来は、「目を覚まさせる」という意味でありました。さらに興味深いのは、ヨハネ福音書の第2章には、主イエスの「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」(2:19)という言葉がありますが、あの「建て直す」というのも同じ言葉です。さらに言えば、「死人を復活させる」というのも、この言葉なのです。絶望しきったこの男を、主イエスが立ち上がらされたということは、あたかも死人を復活させるような出来事でありました。「良くなりたいか」という問いにまともに答えることすらできないこの男に、「起き上がれ、目覚めよ」「立てよ、いざ立て」と言われたのです。

次は「床を担ぐ」という言葉です。この「床」というのは、これまで彼がそこに横たわっていた場所、いわば彼を担いでいたものです。これからは反対に、お前がそれを担ぐのだということです。もうそれには頼ることはないという、積極的な姿勢を示しています。もっともそれがこの後の問題を引き起こしていくことになります。

三つ目は、「歩く」ということです。歩き始める。もうその同じ場にはいない。そこから前進していくのです。これについては、特に説明の必要もないと思います。

彼は、その言葉を聞いて、起きあがり、床を担いで、歩き始めました。

(7)安息日律法の精神

しかしこの物語は、残念ながらそれでハッピーエンドで終わるわけではありません。「その日は安息日であった」(5:9後半)と続きます。安息日にはどんな仕事もしてはならなかったのです。ところがこの人は、イエス・キリストに言われたとおり、床を担いで、歩いていたので、それを見とがめられました。「今日は安息日だ。だから床を担ぐことは、律法で許されていない」(5:10)。このことは、何か私たちにはおかしな話のように思えますが、これを理解する前提として、安息日律法について少しお話ししておいた方がよいでしょう。

例えば、エレミヤ書17章にはこう記されています。

「主はこう言われる。あなたがたは、決して、安息日に荷物を運ばないように気をつけなさい(これに引っかかったのですね)。……どのような仕事もしてはならない。私があなたがたの先祖に命じたように、安息日を聖別しなさい。」エレミヤ書17:21~22

安息日律法の精神とは、一つには、ここに書いてあるように、安息日を聖別する。清いものとして取り分ける。そのことによって、神様を神様として立てるということです。そしてこれの他にもう一つ、忘れてはならないことは、自分が休むだけではなくて、奴隷も家畜もみんな休ませなければならないと言うことです(申命記5:12~14参照)。

これは非常に大事なこと、安息日律法の根本にある精神であろうと思います。このことは、いわば上から強制的に命じられないと、なかなか実行されないのです。雇用者、あるいは奴隷の主人というのは、その下で働いている者の休む権利を安易に踏みにじることがあるからです。自分は休んでいても、奴隷や家畜は休ませない。律法のような形で、上から命令されないと、決して休むことができない人たち(家畜たち)がいたのです。あなたがたがエジプトで奴隷であったのを、主なる神が解放してくださったことを思い起こして、あなたがたも人や家畜を休ませよ、というのです。ですから、この律法は、弱い立場にある者たちへの配慮に満ちた律法であったと言わなければなりません。

しかし、ここに登場するユダヤ人たちは、そういう安息日律法の根幹にある精神を考慮に入れることなく、この律法を表面的に文字通りに受けとめ、それによってよいことをすることまで禁じ、裁こうとしました。この人が、安息日に床を担いでいたことを見とがめ、ひいては主イエスのいやしの業をも裁こうとしたのです。

主イエスのなさったことは、いわばこの人を解放したわけですから、まさに安息日律法の精神にかなったものでありましたが、彼らは安息日律法を表面的にのみ理解することで、主客転倒を起こし、かえってその精神を曲げてしまったということができるのではないでしょうか。

(8)「もう罪を犯してはいけない」

その後、この人は、神殿の境内でイエス・キリストに出会います。彼はそれまで神殿の境内に入ることができませんでした。実際にも歩くことができませんでしたし、そういう障がいをもった人は、神殿の境内に入ることを許されていませんでした。イエス・キリストは、彼にこういう言葉をかけられました。

「あなたは良くなったのだ。もう罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかも知れない。」ヨハネ5:14

これはなかなかデリケートな言葉です。これを表面的に解釈すると、彼が病気であったのは、彼の罪の結果であったと、受けとめられかねない言葉であるからです。しかしそうだとすれば、イエス・キリストが他のところでおっしゃっていることと矛盾します。この後、生まれつきの盲人に出会われます。ヨハネ福音書の9章です。そこで弟子たちが「先生、この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか」(ヨハネ9:2)という問いかけをします。

その問いに対し、イエス・キリストは、こう答えられました。

「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」ヨハネ9:3

そのことと重ね合わせれば、彼の病気は、彼の罪のせいだと考えてはおられなかったということがわかるのではないでしょうか。それでは、どういう意味なのでしょうか。

ある人が、「罪というのはイエス・キリストを拒むことだ」と言いました(松永希久夫『ひとり子なるイエス』、158ページ)。イエス・キリストを拒むということは、一旦受け入れながら、それを再び見失ってしまう、救い主として見ることができなくなってしまうということでしょう。

彼は、この後、自分を癒したのはイエス・キリストという方であったということがわかったので、それをユダヤ人たちに知らせるのです。密告と言ってもよいかも知れません。それによってこの場にいたユダヤ人たちは、一層イエス・キリストを敵対視するようになっていきます。ですからこの主イエスの言葉は、むしろ今後起きていくそうした事態と結びつけて考えた方がいいように思います。主イエスに出会い、大きな御業をしていただいたにもかかわらず、再びイエス・キリストを見失ってしまう。主イエスをキリストとして見ることができなくなってしまう。それを罪と呼んでいるのではないでしょうか。

このことは、私たちにも通じることであろうと思います。私たちはイエス・キリストと出会って、それによって立ち上がらされ、新しく歩み始めたものであります。クリスチャンとはそういう存在でありましょう。しかしながら、それはすでに確保したものとして、ずっと続くわけではありません。いつも新しくその言葉を聞き、いつも新しく立ち上がらせていただかないと、私たちはイエス・キリストを見失ってしまうのです。そうすると、私たちはすぐにまた罪の中に舞い戻ってしまいます。「さもないと、もっと悪いことが起こるかも知れない」という主イエスの言葉が、私たちにも響いてくるのではないでしょうか。

主イエスの「起きて、床を担いで歩きなさい」という言葉を、私たち自身に語られたものとして、今日新しく聞き、今週もまた歩み出したいと思います。

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