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2022年7月24日説教「ろばが語る神の言葉」松本敏之牧師

民数記22章22~35節 コリントの信徒への手紙一10章1~6、10~13節

(1)アロンの祝祷

聖書全巻通読をめざしての鹿児島加治屋町教会独自の一日一章の聖書日課は、創世記、出エジプト記、レビ記を終えて、先週の金曜日から旧約聖書の弟4番目の書物である民数記に入りました。民数記は、レビ記と並んで、人気のない書物であるかもしれません。このあたりでつまずく人もあるかもしれませんが、がんばって読んでいきましょう。民数記には一貫した構造や輪郭が見出しにくいことや、さまざまな伝承が寄せ集められていることから、この書を「聖書のがらくた部屋」と呼んだ人もあるそうです。しかしオルソンという聖書注解者はそうした見方を否定し、そこに大事な構造を見出し、民数記の重要性を解き明かしています。

皆さん、民数記はあまり馴染みがないと思っておられるかもしれませんが、実は毎週日曜日、民数記の言葉を聞いておられます。

礼拝の終わりに私が用いている祝祷は民数記とコリントの信徒への手紙二の言葉なのです。日本語の文言は少し違いますが、聖書協会共同訳では、こういう言葉です。

「主があなたを祝福し、あなたを守られるように。 主が御顔の光であなたを照らし、あなたに恵みを与えられるように。 主が御顔をあなたに向けて、あなたに平和を賜るように。」(民数記6:24~26)

これはアロンの祝祷と呼ばれます。ちなみにその後は、コリントの信徒への手紙二の最後にある次の言葉です。

「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にありますように。」(コリント一13:13)

礼拝では、旧約と新約の両方を用いたいと思い、祝祷も旧約と新約の両方の言葉を用いているのです。ちなみに、コロナ禍になる前は、聖書朗読も、特別なことがない限り、旧約と新約の両方を読んでいました。

(2)民数記

さて民数記の全般的なことについてお話しておきましょう。民数記という書名は、最初に人口調査の記事が出てきますので、そこから付けられたものです。人口調査の話は26章に、もう一度出てきます。ちなみに英語の聖書では単純にNumbers と言います。

出エジプトの旅は「荒れ野の40年の旅」と言いますが、実を言えば、地理的にも時間的にも、そのほとんどは民数記の中の出来事であります。出エジプト記の最後は幕屋建設の話でしたが、出エジプトの出発の出来事から最後の幕屋建設の開始まではたったの1年間であります。レビ記は更に短く、たった1ヶ月の出来事であります。また民数記の後の申命記にいたっては、モーセの死について記した終わりの34章を除けば、たった一日の出来事として記されています。

ということは、民数記というのは、それらを引いた約39年間のことを記しているのです。シナイ山から「約束の地」までの距離はわずか数百キロの道のりです。それをどうして39年も費やすことになってしまったのか。エジプトからシナイ山までと、シナイ山から約束の地カナンまでの距離はほぼ同じです。前半は約3ヶ月でした。そこから彼らは、ヨルダンの東側へ回り道をして、ネボ山でモーセは息絶えることになります(申34章)。そのように回り道しなければ、もっと早く行けたはずでしょう。民数記は、そうした事情についても述べています。

本当は、彼ら自身、もっと早く約束の地カナンに入れると思っていました。何よりも最初の人口調査そのものが、約束の地に入る準備でありました。

(3)人口調査

この人口調査は、イスラエルの十二部族に基づいて、部族ごとに、あの部族には何人、この部族には何人いる、と数えたのです。もっともここに記されている人数はとても多いです。たとえば、最初は、こう記されます。

「イスラエルの長子ルベンの一族について、それぞれの氏族と、その父祖の家の系図により、兵役に就くことのできる二十歳以上の男子一人一人の名を数えると、ルベン族の登録者数、四万六千五百人。」(民数記1:20~21)

このように十二部族を数え上げて、合計603、550人もなりました(1:46)。これだけの大人数が移動したというのを、歴史的事実として受け入れるのは困難ですが、そこには神学的には意味があるのです。

これらの数字は、「神がそれほど大きな数にまで子孫を増やすことでイスラエルを祝福された」という恵みの深さの程度を表しているのです。彼らの子孫は数えきれないほどになるという創世記におけるアブラハムとサラに対する神の約束が、視野に入れられています。「彼らの子孫は、天の星のようになる」(創世記15:5)、あるいは「海辺の砂のように増える」(創世記17:4~8、22:17)と、神は約束されました。しかし神の約束はまだ完全に果たされてはいません。彼らはまだ約束の地に入っていく途上にあります。そしてそれが実現するにはまだまだ困難が伴います。民数記はその困難についても記しています。

聖書には、この後も何回かの人口調査について述べています。一つはダビデ王による人口調査です。サムエル記下24章に出てきます。もう一つは、皆さんもよくご存じのクリスマス物語。ルカによる福音書2章に出て来るローマ皇帝アウグストによる人口調査です。「その頃、皇帝アウグストから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た」とあります。これらは為政者の思惑による人口調査でした。目的は兵役と課税です。ダビデの人口調査についても、ダビデ自身が後で良心の呵責を覚え、悔い改めの祈りをすることになります(サムエル記下24:10)。それらの人口調査に比べると、民数記の人口調査は、兵役の面はあるものの神の恵みを確認する意味が大きいと思います。

(4)民の不平と反抗

 出エジプトの民がなぜすぐに約束の地に入ることができなかったか。そこには彼らの罪がありました。

11章は、「民の不平」と題されています。

「民は主の耳に届くほど激しい不平を漏らした。主はそれを聞いて怒りに燃え、主の火が彼らに対して燃え上がって宿営の端を焼き尽くした。民がモーセに向かって叫びを上げたので、モーセが主に祈ると火は鎮まった」(民数記11:1~2)

しかし彼らは再び、こういうのです。

「誰が私たちに肉を食べさせてくれるだろうか。エジプトにいた頃、食べていた魚が忘れられない。きゅうりもすいかも、葱も玉葱もにんにくも。今では、私たちの魂は干上がり、私たちの目に入るのは、このマナのほかは何もない。」(民数記11:4~6)

このあたりは、文化史的には興味深いものがあります。彼らがどういうものを食べていたかが想像がつくからです。ただ恵みのしるし、神が彼らを養ってくださるしるしであるマナも、彼らにとっては「それしかない」という不満の対象になってしまうのです。

その後、神様は「そんなに言うならば、これでどうだ。肉を食べさせてやる」という感じで、天からうずらの大群を送るのです。鳥の肉です。しかしそれを食べた人々は大勢食中毒になってしまいました。

さらに民数記を読み進めますと、13章には「カナン偵察」と題されたエピソードが記されています。彼らがこれから行こうとする約束の地、カナンに偵察隊を送る話です。全十二部族からの代表12人が行きました。逆に言えば、偵察隊が近づけるほどの距離に、すでに来ていたということが分かります。

モーセは彼らに言いました。

「ネゲブに行き、さらに山に登って、その地がどのような所か観察しなさい。……土地はどうか、肥えているか痩せているか、木があるかないかを調べなさい。あなたがたはひるむことなく、その地の果実を取って来なさい。」(民数記13:17、20)

彼らは出発し、偵察を終えて帰ってきました。12人全員が、そこが「乳と蜜の流れ地」すなわち、すばらしい土地であることを認めるのですが、そのうち10人は、「そこにいる民はとても強く、やめたほうがよい」と進言します。ただし他の二人、カレブという人と後にモーセの後継者となるヨシュアだけは行くことを勧めるのです。さきの10人は、行かないようにさせるために、イスラエルの人々の間に、偵察した地について悪い噂を広めました。

「私たちが偵察のために行き巡った地は、そこに住もうとする者を食い尽くす地だ。私たちがそこで見た民は皆、巨人だった。」(民数記13:32)

そして14章は、「民の反抗」と題された箇所です。イスラエルの民は、大きく揺さぶられ、「エジプトの地で死んでいたほうがましであった」と不平を言い、「さあ、頭を立てて、エジプトへ帰ろう」とまで言い始めます(14:2、4)。神は、そこで古い世代の人が死に絶えて、世代交代するまで待たれることになるのです。このようにして、約束の地カナンに入るチャンスがあったのに、一気に40年もかかることになってしまいました。

(5)バラクとバラム

さて、本日のテキストとした22章から始まる物語は民数記前半の終わり近くのエピソードですが、後半を予感させるもの、すなわち新しい世代の祝福を記したエピソードであると言えるでしょう。とても興味深いものです。ろばが人間の言葉を話す。聖書の中で、動物が実際に人間の言葉をしゃべるというのは、ここだけではないでしょうか。(創世記3章に、ヘビがしゃべる話がありましたね。)

民数記22章の最初は「バラクとバラム」と題されていますが、ろばが人間の言葉を話すというのは、「バラクとバラム」についての伝承の中のエピソードです。24章まで続きます。先ほど、民数記はさまざまな伝承が寄せ集められていると申し上げましたが、このバラムについての伝承は、その中でも最もまとまりのある、しかも意義深いものでしょう。

登場人物ですが、最初のバラクというのはイスラエルの民が通り抜けようとしていた地、モアブの王です。モアブの王バラクは、イスラエルの民が、その直前にアモリ人を打ち負かしたことを聞いて恐れをなし、あることをしようとしました。それはバラムという評判の高い占い師に、イスラエルの民を呪わせようという計画です。バラムがイスラエルを呪ってくれれば、勝利はこちら側に来るだろうと考えたのです。そしてバラムのところに使いを遣わしてこういうふうに言わせました。

「この民は私よりも強いので、どうか今すぐに来て、この民を呪ってもらいたい。」(民数記22:6)

バラムはすぐには引き受けずに、一晩待ってもらって、神にお伺いを立てます。そうすると「行ってはならない。呪ってはならない。彼らは祝福を受けた民だ」とお告げを受けます。バラムはその内容は言わずに、ただ「行くことはできない」とだけ告げます。バラクは「頼み方が悪かったのか、不十分だったのか」と思って、さらなる高官を遣わし、もっと大きな褒美を約束します。

しかし再びバラムが神に伺いを立てると、今度はなぜか神は、「行きなさい。行ってよい」と言います。恐らく、バラムは王の命令なので、行きたいというか、行かなければと思ったのでしょう。それで神様は許可を与えたのだと思います。しかし、「私が告げる言葉以外は語ってはならない」というのです。

(6)バラムと雌ろば

バラムはろばにのって出発します。しかし先ほどお読みいただいたように、突然、ろばが抵抗を示しました。ろばには主の天使が抜き身の剣を手にして立ちふさがっているのが見えたのです。しかしバラムには見えませんでした。ろばは道をそれて畑に入っていきました。バラムはろばを戻そうとしますが、ろばは抵抗します。バラムはろばを「どうして行かないのか」という感じで、打ち叩きました。今度はろばは狭い道の両側にあった石垣に体を押し付けるようにしました。バラムの足も押し付けました。主の使いは再び立ちふさがり、ろばにはそれが見えたのです。バラムは、ろばに対して怒りを燃え上がらせて、再びろばを杖で打ちました。その時、主がろばの口を開かれたのです。

「私があなたに何をしたというのですか。私を三度も打つとは」バラムは答えます。「私にひどいことをするからだ。私の手に剣があったら、今お前を殺していただろう。」雌ろばはさらに言います。

「私は、あなたが今日までずっと乗って来られた、あなたの雌ろばではありませんか。私が今までこのちょうなことをしたことがありますか。」(22:30)

バラムは答えます。「いや、なかった。」その時、バラムの目が開かれ、彼は主の使いが抜き身の剣をかざして、道に立ちふさがっているのが見えました。彼はその場にひれ伏しました。

「なぜ、あなたはあなたの雌ろばを三度も打ったのか。私はあなたの敵として出て来た。あなたが私の前に誤った道を行くからだ。……もしも雌ろばが私を見て、避けようとしなかったら、私は雌ろばを生かし、あなたを殺していただろう。」(22:32~33)

バラムは雌ろばに命を救われたのです。

(7)雌ろばは神の使いであった

しかし主の使いはバラムを引き返させるのではなく、そのままバラクのもとへ行かせるのです。「ただし私が告げる言葉だけを語れ」と言いました。バラムはそれに従いました。モアブの王バラクはバラクが来てくれたというので大喜びです。「これでもう戦いはこちらのものだ」と思ったでしょう。早速、山の頂で、イスラエルの民にのろいをかけてくれるように頼み、バラムは一晩神にお伺いを立てた結果、結局、彼の口から出るのはイスラエルに対する祝福の言葉でした。バラクは悔しがります、そして再び、三たび頼むのですが、やはり同じでした。それどころか祝福の言葉はより大きくなっていきました。

この時の王バラクと占い師バラムの関係は、先ほどのバラムと雌ろばの関係と並行しています。バラムがどんなに雌ろばに言うことを聞かせようとしても、バラムの思うようにはなりませんでした。同様に、この時も、バラクがどんなに、バラムに呪いの言葉を語らせたいと思っても、それはできませんでした。神様は、バラムにしっかりそれを遂行させるために(イスラエルへの祝福の言葉を語らせるために)、雌ろばを通して悟らせようとしたのだと思います。もしも雌ろばとのやり取りなければ、バラムは王バラクの言う通りのことをしてしまっていたかもしれません。

このことは、神が主権をもっておられること、もし神様の意に反したことをしようとしても、神様はそれを止めることができる、時には神は異なる宗教者の口を通して、時には動物の口を通してでも、ご自分の意志をお告げになることがおできになるということをしめしているのではないでしょうか。このことは救いであると思います。そして私たちに対する警告でもあるでしょう。

(8)警告の書、民数記

民数記は、新約聖書では警告の書物として取り上げられることが多いものです。先ほどお読みいただいたコリントの信徒への手紙一10章もそうであります。

パウロは、出エジプトの出来事を引用しながら、こう述べています。

「これらのことは、私たちに対する警告として起こりました。彼らが悪を貪ったように、私たちが悪を貪る者とならないためです。」(コリント一10:6)

そして省略しました7節から9節には、民数記で起きた出来事について述べています。そしてこう述べられます。

「これらのことが彼らに起こったのは警告のためであり、それが書かれたのは世の終わりに臨んでいる私たちを戒めるためなのです。」(コリント一10:11)

「だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。」(コリント一10:12)

バラムも、「自分で立っている。自分の言葉は自分で語れる」と思っていたかもしれません。しかし御心に反した言葉(イスラエルへの呪いの言葉)を語るために出かけようとしていました。神様が、それを雌ろばを用いて食い止められたのです。ただ警告を与えるだけではなくて、「立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい」と忠告をするだけではありません。その後、わたしたちもよく知っている有名な言葉が続きます。

「あなたがたを襲った試練で、世の常でないものはありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えてくださいます。」(コリント一10:13)

私たちが困難に遭遇する時、あるいは逆に、傲慢になって自分でなんでもできると思ってしまう時、神様は私たちの前に立ち、警告を与え、そして救いの道、逃れの道を示しくださるのです。そのことを信じ、私たちも御心に沿う歩みができるようにしていきたいと思います。

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