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2021年6月13日説教「キリストの体」松本敏之牧師

コリントの信徒への手紙一12章12~27節

(1)愛がものごとの判断基準

鹿児島加治屋町教会の聖書日課、今はコリントの信徒の手紙一を読み進めています。先週、少し申し上げましたように、この手紙は、パウロがさまざまな問題を抱えていたコリントの教会に向けて、その問題の解決を目指して書いたものです。前半は、指導者、後継者をめぐる分派争いについて述べていました。後半7章以下では、コリントの教会から寄せられた質問に対して、パウロが回答を述べています。結婚の問題、偶像に献げられた肉を食べてもよいかという問題、伝道者は報酬を受け取ってもよいかというような問題、教会内のさまざまな役割の問題など、多岐にわたっています。パウロは、それらに対して確信をもって答えている部分と、「このことについて、一応、個人的な意見を述べます」というふうに、やや自信なさそうに答えている部分があっておもしろいです。

しかしそれらを貫く一つの基準というものがあります。それは「そこに愛があるかどうか」ということです。「愛をもって接し、愛をもって考えなさい」とパウロは勧めるのです。

(2)偶像に献げられた肉

たとえば8章の「偶像に献げられた肉を食べてもよいか」という問題。これなどはその判断基準をよく表しています。このことについて、少し詳しくお話しますので、よかったらコリントの信徒への手紙一の8章をお開きください。

当時の人々は、一旦偶像に献げられた肉は汚れているから、食べてはいけない。食べた人も汚れてしまう、と考えていました。しかしクリスチャンはそういうふうには考えません。そもそも偶像は神様ではないのだから汚れるわけがない、と考えました。しかしクリスチャンの中にも「いや汚れる」という人もいた。それでパウロ先生に聞いてみようということになったのでしょう。このパウロの答えが興味深いのです。

パウロも、こう言います。

「この世に偶像の神などはなく、唯一の神以外にいかなる神もいないことを、私たちは知っています。」(8:4)

「しかし、この知識が誰にでもあるわけではありません。ある人たちは、今まで偶像になじんできたせいで、偶像に献げた肉として食べ、良心が弱いために汚されるのです。(日本のことわざの「病は気から」に近いものかもしれません。)食物が、私たちを神のもとに導くのではありません。食べなくても不利にはならず、食べても有利にはなりません。」(8:7~8)

食べても大丈夫。それが原則。しかしそう考えない人もいる。パウロは、それを弱い人というのです。そして「ただ、あなたがたの強さが、弱い人々のつまずきとならないように、気をつけなさい」(8:9)と言いました。そして最後にこう言うのです。

「このきょうだいのためにも、キリストは死んでくださったのです。このように、きょうだいに対して、その弱い良心を傷つけるのは、キリストに対して罪を犯すことなのです。それだから、食物が私のきょうだいをつまずかせるなら、きょうだいをつまずかせないために、私は今後決して肉を口にしません。」(8:12~13)

いかがですか。すごい決意だと思いませんか。恐らく肉を好きだったと思います。その肉を食べること自体は何ら差し支えない。しかし、そうした自分の行動が人をつまずかせることになるならば、人をつまずかせないために、そのことをしないというのです。私だったら、何とか肉を食べられるように、まずは、つまずいている人に「これ大丈夫なんだよ」と説得するほうを選ぶかもしれません。

これはテーマを変えれば、現代でもいろいろとあるのではないでしょうか。

私たちは何か困ったことが起きた時には、まず原則を確認する。しかしそれだけではない。それが誰かをつまずかせることにならないかも考えなければならない。もちろんそれを選択することによって逆の立場の人をつまずかせることもあるでしょう。そこで大事なのはやはり、具体的な「人」ですよね。「何々さん」という。私たち誰しも「ああ困った人だなあ」と思うことはあるのではないでしょうか。その時には、このパウロの言葉を思い起こしましょう。

「このきょうだいのためにも、キリストは死んでくださったのです。」

(3)お酒を飲んでもよいか

ブラジルのプロテスタントでは「お酒を飲まない」というのが原則でした。少々飲むくらいはかえって健康によいと思うのですが、ブラジルのプロテスタントは飲まないのです。お酒で身を持ち崩す人がたくさんいます。こっちが飲んでいると、あっちも飲みたくなる。

私が働いたブラジルの二つ目の教会はとても貧しい地域にありました。お酒を飲みたいという人はいるのですが、教会ではダメを言われている。収入の多くが酒代に消えて、妻がまいっている人もいます。私はブラジル人の牧師と共同牧会をしていました。あちらは随分厳しい。私は基本甘いので、私に聞いてくるのです。「パストール、ポージ・ベベール?」(先生、お酒は飲んでもいいのですか)。私が、「それはあなたの問題でしょう。自分でよく考えなさい」と言うと、その人はお連れ合いに「パストール・トシは『飲んでもいい』と言った」というわけです。「先生、ダメとはっきり言ってください」と言われました。

このコリントの信徒への手紙一の8章の最初のところでも、パウロはこう言っています。

「偶像に献げた肉について言えば、私たちは、皆、知識を持っている、ということは確かです。しかし、知識は人を高ぶらせるのに対して、愛は人を造り上げます。」(8:1)

(4)自分の利益ではなく、他人の利益を

パウロはこうも言います。

「すべてのことが許されています。しかし、すべてのことが益になるわけではありません。すべてのことが許されています。(2回も言うのです。)しかし、すべてのことが人を造り上げるわけではありません。誰でも、自分の利益ではなく、他人の利益を求めなさい」(10:23~24)。

「誰でも、自分の利益ではなく、他人の利益を求めなさい。」これも大事なことです。「自分のためではなく、人のため。」それが行動の判断基準となるべきだというのです。そこに愛があるかどうか。

(5)愛の賛歌・異言

そのクライマックスとして、コリントの信徒への手紙一は、13章に「愛の賛歌」が出てきます。結婚式でも、お葬式でもよく読まれる箇所です。

「そこで、私は、最も優れた道をあなたがたに示します。
たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、私は騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ私が、預言する力を持ち、あらゆる秘儀とあらゆる知識に通じていても、また、山を移すほどの信仰を持っていても、愛がなければ無に等しい。また、全財産を人に分け与えても、焼かれるためにわが身を引き渡しても、愛がなければ、私には何の益もない。」(コリント一12:31b~13:3)

すごいですね。どんなに人から褒められるようなことをやって見せても、そこに愛がなければ意味がないというのです。このことが、この手紙を貫いています。

ここに「異言」という言葉が出てきます。これは私たちにはわかりにくいものですが、「異言」について、パウロは14章で詳しく取り上げています。「恍惚状態になって神様と会話すること」みたいにお考えいただいたらよいかもしれません。今でも異言を重んじる教派はありますが、当時は、それができる人が信仰的に優れた人と考えられていました。

しかしパウロは異言よりも預言のほうが大事だと言いました。預言というのは、他の人に神様のことを伝える言葉です。なぜ異言よりも預言のほうが大事かと言えば、愛と関係があるのです。異言はその人自身を高めるかもしれないけれども、他の人にはそれを解釈して説明してあげなければ、意味がないからです。何かわーわー言っているけれども何だか全然わからない。それこそ「やかましいどら、騒がしいシンバル」です。他の人を高めるのは預言だというわけです。

(6)一つの体、多くの部分

そのような「愛」がテーマとなっているこの手紙の後半から、今日は12章の「一つの体、多くの部分」という箇所を読んでいただきました。教会の中にはさまざまな賜物を持った人があり、それぞれがさまざまな役割を担っていることを、上手に体の器官のたとえをもって語ります。

「体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様です。」(12:12)

「実際、体は一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。」(12:14)

「もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし体全体が耳だったら、どこで嗅ぎますか。そこで神は、御心のままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。」(12:17~18)

これはよくわかるたとえです。どれも無くてはならない大切な部分です。私たちも普段は気がつかないけれども、どこかちょっとでも怪我をすると、ちょっとでも痛くなると、全体に影響してきます。それぞれが役割を担っているのだということがわかります。

偉そうにしている部分もあります。顔や手は人目についているので、わかりやすい。大事な仕事をしているように見えます。でも人目につかないところでもかけがえのない仕事をしています。脳や内臓はそうでしょう。

子ども向きのお話で、体のある部分がみんなからバカにされてひどく傷ついてしまう。(そういうお話がありました。)そして働けなくなって、そしてちょっと怒ってストライキをします。そうするとみんなが困ってしまって、謝りに来るのです。そして気を取り直して、誇りをもって仕事をするのです。それは何だったかと言えば、肛門、お尻の穴でした。それまではみんなからバカにされたり、軽く見られたりしていたのですが、実はかけがえのない働きをしていたということがそれによってわかるのです。

そして、もうひとつ深いことを語ります。ここでも愛が問われます。

「それどころか、体の中ではほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。私たちは体の中でつまらないと思える部分にかえって尊さを見いだします。実は、格好の悪い部分が、かえって格好の良い姿をしているのです。しかし、格好の良い部分はそうする必要はありません。神は劣っている部分をかえって尊いものとし、体を一つにまとめ上げてくださいました。それは、体の中に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合うためです。」(12:22~25)

強い人同士、自信のある人同士だと、どうしても張り合ってしまいがちです。しかし弱い人がいたら、どうしても気になり、助けてあげたいと思うのではないでしょうか。そうした思いやりが、キリストの共同体を造り上げていくのです。パウロは言います。

「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。あなたがたはキリストの体であり、一人一人はその部分です。」(12:26~27)

(7)キリストの愛が注ぎこまれる

教会はキリストの体です。そこにはキリストの愛が注ぎこまれています。その愛こそが私たちを一つに結び合わせ、全体を一つのものとして造り上げていくのです。皆さんの中で、「教会には偉い人がいっぱいいて、それぞれの賜物を発揮しておられる。自分は引け目を感じる。自分は何もできない。取るに足らないもの」と思われる方があるかもしれません。

もしもそう思われるならば、その弱さの中にこそ、キリストの愛が注ぎこまれ、それによって教会が一つに結び合わされるという大事な働きをしているのだ、弱さこそが大事なのだと知っていただきたいと思います。

また自分は大丈夫と思っている方々も、実は弱さを隠していることが多いのではないでしょうか。パウロは、こうも語りました。

「立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。」(10:12)

自分の弱さを隠していても、そのような弱さをあわせもっている自分を知ることで、かえってイエス・キリストとの距離も縮まり、自分にもキリストの愛が注がれていることを知ることができるのではないでしょうか。最後に、この言葉の続きに書かれている10章13節の言葉に耳を傾けましょう。これは多くの方々の愛唱聖句でありますが、先日の「からしだね」で、この教会でもそうであることを知りました。

「あなたがたを襲った試練で世の常でないものはありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えてくださいます。」(コリント一10:13)

パウロは、すべてのことについて「愛をもって接し、愛をもって考えなさい」と勧めました。しかしそれ以前に、キリストの愛が私たち自身に注がれ、私たちを生かしてくださっていることを示しているのではないでしょうか。それを忘れないように、とパウロは告げているのだと思います。

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