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2021年1月10日説教「イエスの洗礼」松本敏之牧師

マタイによる福音書3章13~17節

(1)洗礼とは

先ほどお読みいただいたマタイによる福音書3章13節から17節は、日本基督教団の本日の聖書日課です。ここには、イエス・キリストが洗礼者ヨハネから洗礼を受けられたということが記されています。イエス・キリストが洗礼を受けられたというのは、不思議さに満ちた出来事です。
この特別なイエス・キリストの洗礼の意味を尋ねる前に、もっと広く「洗礼とは何か」、「洗礼にはどういう意味があるのか」ということをお話ししたいと思います。
私たちの教会でも、12月13日に3人の方々が洗礼を受けられました。そしてその後、また新たに別の方が洗礼の希望を申し出ておられます。すでに2回の洗礼準備会を終えて、本日の役員会で試問会を行うことになっております。私は洗礼準備会において、「洗礼とは何か」「洗礼にはどういう意味があるのか」というお話をしていますが、そこで話していることを皆さんとも分かち合いたいと思いました。

(2)悔い改めのしるし

洗礼は、第一に、私たちの悔い改めのしるし、言い換えれば、新しく生きることの決意のしるしです。
イエス・キリストが洗礼者ヨハネから洗礼を受けられた時も、洗礼者ヨハネの呼びかけ応えて大勢の人たちが集まっていました。今日の箇所の少し前、マタイ福音書3章冒頭にこう記されています。
「そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、『悔い改めよ。天の国は近づいた』と言った」(マタイ3:1)。悔い改めを呼びかけたのです。そして5節に以下には、こう記されます。「そこで、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。」
つまり罪を告白し、悔い改めのしるしとして、洗礼が授けられたのです。「悔い改め」というのはギリシア語で「メタノイア」と言いますが、それは方向転換を意味する言葉です悔い改めというのは向きを変えて生きることです。「メタノイア」、いい言葉です。絶対に忘れない覚え方を教えましょう。メタノイアは一体何のためにするのか。それは「愛のため」です。「愛のためのメタノイア。」いいですね。上から読んでも「あいのためのメタノイア」下から読んでも「アイノタメのめたのいあ」。
私たちの中には、心の中で信じて、心の中で悔い改めて、イエス・キリストの弟子として生きるようになればそれでよいではないか。別に信仰告白したり、洗礼を受けたりする必要はないではないかと考える人もあるかもしれません。しかし自分ではっきりとした形で信仰告白をすることには意義があります。
使徒パウロは、ローマの信徒への手紙10章9節、10節でこう述べています。

「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。」

もちろん口で言い表すだけでもだめです。この両方がセットになっているのです

(3)出来事となる

そのことは、私たち自身にとっても、他の人にとっても意義があります。
自分自身にとってというのは、そのようにはっきりと信仰告白をし、洗礼を受けることは、人生における消すことができない一つの出来事、事件となるからです。それが信仰の原点となります。それがクリスチャンの自覚となり、かえってその後の支えになるのです。洗礼は、日付と場所をもつ一つの出来事です。いつ、どこで、そして誰から洗礼を受けたということが、自分の人生にとって、消すことができない歴史として刻まれるのです。私は1974年12月22日に日本基督教団姫路教会において、作道至示(さくみちよしつぐ)牧師から洗礼を受けました。それは私の人生の中で消すことのできないものです。逆に言えば、だからこそ信仰があやしくなる時にも、「自分は洗礼を受けたクリスチャンである」ということが支えになります。そうでなければ、「あの時は熱心だったけれど、若気の至りで……」ということになりかねません。洗礼は、いつも立ちかえっていく信仰生活の原点です。
同時に、クリスチャンであることを表明(カムアウト)することによって(時にできないこともありますが)、私たちはイエス・キリストの証人となるのです。人は、やはりクリスチャンと出会うことによって、キリストに出会うからです。私たちは、よく「人を見ると、つまずきますから、まっすぐイエス様だけを見ましょう」というふうに言いますが、一面、そういうこともありますが、基本的には、私たち自身の自覚としては、キリストの証人、もう少しわかりやすく言えば、キリストの「広告塔」として世に送り出されるのです。「地の塩、世の光」(マタイ5:13~16)として生きるように促されるのです。
そのように洗礼は、私たちの決心を伴うものです。その決心がなければ洗礼にはいたりません。もっとも「幼児洗礼」「小児洗礼」というのがあります。それは本人の決心ではなく、親か別の誰か、いずれにしろそこにも誰かの決心があるのです。「この子を神様から授かった子どもとして信仰に導くように育てます」という決意のもとで、洗礼が施されるのです。誰の決心もないところでは洗礼は授けられません。その点では、ヨハネの洗礼も、その後のキリスト教の洗礼は同じであります。そして自分で信仰告白できるようになった時には、信仰告白が求められるのです。

(4)イエスの焼き印

しかしキリスト教の洗礼、イエスの名による洗礼には、同時にそれを超えた側面があります。二つ目に心に留めたいは、洗礼は、神の側からのしるし、イエス・キリストの側からのしるし、ということです。神のがその人にしるしをつけられるのです。私たちは、自分で決心をして洗礼を受けると思っています。そして事実、その通りですが、実はそこには神様の見えざる導きがあります。あとになってみると、それがわかるのです。
使徒パウロは、ガラテヤの信徒への手紙の終わり、6章17節で「わたしは、イエスの焼き印を身に受けているのです」と述べました。「焼き印」というのは、主人が家畜や奴隷に付けるものです。自分で自分の身に着ける入れ墨、タトゥーとは違います。それは、その主人のもの、あえて言えば、主人の所有物だというしるしなのです。パウロはそのような強い言葉でもって、自分とイエス・キリストの関係を言い表しました。イエスの名による洗礼を受けるということは、いわば「イエスの焼き印を身に受ける」ようなものだと思います。洗礼を受けてクリスチャンとなるということは、イエス・キリストのものとされるということでもあるのです。
だからこそ力になります。洗礼は、単に私の決心という次元だけの話ではないということです。神が私をイエス・キリストのものとしてくださった。イエス様が「この人は私のものだ」「松本敏之は私のものだ」と言って、しるしをつけてくださることなのです。だからこそ、私がどんなにふらふらしていてもクリスチャンとして支えられているのです。パウロは、先ほどと同じガラテヤの信徒の手紙の中で、こういうことも語っています。3章26節、27節です。

「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。」

これも印象的な言葉です。先ほどは「焼き印」という体につけられるしるしでしたが、同時に、クリスチャンとして生きるとは「キリストを着て生きる」ことなのです。それは、私たちを外側から守ってくれるしるしのようです。

(5)水、新生のしるし

三つ目に心に留めたいのは、洗礼には水が用いられるということです。洗礼者ヨハネの洗礼も、川の中で行われました。「水」は、神が私たちの罪を洗い清めてくださることを象徴しています。
その背景には、旧約聖書があります。水に関係のある旧約聖書の話は何であるか、ご存じでしょうか。有名なものが二つあります。一つはノアの洪水の物語(創世記6~9章)。神様は、大洪水によって古い世界と決別し、そこから新しい世界を始められました。もう一つは、モーセの出エジプトの物語です。目の前の「葦の海」が二つにさけ、その中を人々はくぐり抜けることができたのです。そのように、私たちも古いものに死に、新しいものへと生まれかわるのです。それは、新しいものへと生まれ変わる、新生のしるしです。
パウロは、ローマの信徒への手紙6章4節で、こう述べています。

「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。」

(6)罪を清めるもの

さらに四つ目に、洗礼は罪の告白のしるしという人間の側のことだけではなく、「罪の清め」というイエス・キリストの側からのしるしであることも心に留めたいと思います。
洗礼者ヨハネは、「わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる」(11節)と言って、「その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕(み)を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる」(マタイ3:11~12)と語りました。この言葉は、聞きようによっては恐ろしい言葉に聞こえますが、そのように私たち、罪ある人間を焼き払っておしまいにするというのではなく、そこで起こるべきことを、むしろご自分の身に引き受けて、新しい命に生きるようにしてくださったというふうに、言ってもよいかもしれません。この洗礼者ヨハネの言葉は、イエス・キリストの洗礼には、罪を清める力があることを示しています。

(7)神の子が人の前にひざまずく

洗礼については、そのようにさまざまな意義がありますが、それらを踏まえながら、イエス・キリストが洗礼という特別な出来事を受けられたということを心に留めたいと思います。
「そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである」(13節)
これはどういうことでしょうか。誰よりもこのことに驚いたのは、ヨハネ自身でした。彼は何とか主イエスの受洗を思いとどまらせようとして言いました。
「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか」(14節)
ヨハネにしてみれば、「反対ではないですか。罪のないあなたが、どうして洗礼を受けられるのですか」という気持ちだったのでしょう。
ヨハネは、自分も罪人の一人であることを隠しません。ヨハネはファリサイ派の人々やサドカイ派の人々に「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ」(7~8節)と厳しい言葉を語りましたが、彼は自分に対しても厳しい良心をもち、荒れ野で質素な生活を送っていました(4節)。そうでなければファリサイ派やサドカイ派の人々と同様、偽善者になってしまっていたでしょう。
主イエスは、「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」(15節)と初志を貫かれます。「正しいこと」とは、私たちの目から見た正しさであるよりも、神様の正しさです。それを「すべて行う」とは、神様の意志のもとに自分を置くということです。洗礼者ヨハネにとっては、それは「悔い改め」でした。ですからみんなに悔い改めて、洗礼を受けることを呼びかけたのです。しかしイエス・キリストにとってはもっと大きなことでした。神様は、これからイエス・キリストを通して、特別なことをなさろうとしておられるのです。主イエスの受洗は、その最初の出来事でありました。
その神様の意志とは、いったい何でしょうか。それはひと言で言えば、「神の子が人の前にひざまずく」ということです。「神の子が人の前にひざまずく。」これは、私たちの理解を超えたことですが、そのことが主イエスの生と死を貫くのです。

(8)罪と義の取り換え

主イエスの受洗は、単なる通過儀礼ではありません。ここで、今後のイエス・キリストの生涯を象徴する出来事が起こっているのです。神の子が、人の前にひざまずかれる。ヨハネよりも偉大な方が、ヨハネの前に頭を垂れる。ヨハネよりも優れた方が、ヨハネから洗礼を受けられる。悔い改める必要のない方が、悔い改めの洗礼をお受けになる。罪のない方が、罪ある者のごとく、罪人と肩を並べられる。私たちを「消えることのない火で焼き払」う権威(12節)をもったお方が、私たちを焼き払う代わりに、焼き払われる側に身を置かれる。それが、イエス・キリストの受洗という驚きと不思議さに満ちた出来事です。それによって、私たちの罪とイエス・キリストの義の取り換えが起こるのです。私たちの罪をイエス・キリストが担われる。そしてイエス・キリストの義を私たちが身に受ける。
イエス・キリストは、あたかも罪ある者のごとく、それを引き受け、私たちは、あたかも罪のない者のごとく、義とされるのです。イエス・キリストの洗礼によって、私たちの罪とイエス・キリストの義の取り換えが起こっている。そのことは、これから後のイエス・キリストの生涯と死において起こることですが、その最初のしるしとして、イエス・キリストの洗礼が行われたのです。それが神様にとって「正しいこと」であったと言えるのではないでしょうか。

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