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2020年12月20日説教「響けよ、天に、あまねく地に」松本敏之牧師

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響けよ、天に、あまねく地に

詩編103:14~22、ルカによる福音書2:10~20

(1)喜びあふれる知らせ

講壇のキャンドルに4つ火がともり、待降節第4主日を迎えました。例年ですと、12月24日の前の、この日曜日をクリスマス礼拝としているのですが、今年はコロナ禍のいわゆる「3密」を避けるために、元来の教会暦の通りに待降節(アドベント)第4主日としています。もしかすると、今日は聖餐に与れると思って久しぶりに来られた方もあるかもしれませんが、次週12月27日の降誕節第1主日礼拝に行いますので、どうぞご了解ください。そして来週また、ぜひおいでください。
今年のアドベント、クリスマスは、「来たりたまえわれらの主よ」という賛美歌の言葉をテーマとし、各週の説教題も、この賛美歌のワンフレーズを用いています。今日の題は、先ほど歌いました3節冒頭の「響けよ、天に、あまねく地に」という言葉ですが、その次の行まで含めて「響けよ、天に、あまねく地に 喜びあふれる知らせ」という言葉、さらに来週のテーマにもまたがりますが、次の「天使の賛美にこたえ、うたえ」という内容も心にとめたいと思います。

(2)御使い、主の万軍

旧約聖書以来、天使、御使いというのは、天にあって神様を賛美する存在と考えられていました。先ほどお読みいただいた詩編103編にも次のような言葉があります。20節。

「御使いたちよ、主をたたえよ
主の語られる声を聞き 御言葉を成し遂げるものよ
力ある勇士たちよ。」

とあります。「御使いたち」のことを、「力ある勇士」というふうに呼び変えています。これは、私たちの「天使」のイメージと少し違うかもしれません。「御使いたち」は、天にあって、神の栄光を賛美するだけではなくて、神の栄光、神の権威を守り、闘う存在でもあるのです。ですから、その「勇士たち」の集合体となれば、「主の万軍」となります。21節。

「主の万軍よ、主をたたえよ
御もとに仕え、御旨を果たすものよ。」

そして「御使いたち」、「主の万軍」だけではなく、賛美の呼びかけの対象は「すべての被造物」へと広げられます。
「主に造られたものはすべて、主をたたえよ
主の統治されるところの、どこにあっても」
こうしたことは、新約聖書のクリスマスの記事にも引き継がれています。
天使が、夜通し、野宿しながら仕事をしていた羊飼いのところにあらわれて、こう告げました。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」
そして、こう続きます。ここにも「天の軍隊」が登場します。
「すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。
『いと高きところには栄光、神にあれ、
地には平和、御心に適う人にあれ。』」
この天使と天の大軍の賛美が、天に響いたのです。そして、それを聞いたものは、その「天使の賛美にこたえ」て、「喜びあふれる知らせ」が、「あまねく地に、響きわたるように」、共に賛美をするように、召し出されるのです。

(3)羊飼いからマリアとヨセフへ

この時の羊飼いたちもそうでありました。すべての言葉を聞き終えた時、羊飼いたちは、いても立ってもいられず、その救い主のもとへ走るのです。

「天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、『さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか』と話し合った。そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた」(15~16節)。

彼らは、喜びの出会いをしました。マリアとヨセフにとっても、羊飼いたちの来訪は大きな驚きであり、大きな喜びであったことでしょう。
マリアとヨセフは、それぞれに直接、天使からお告げを受けていました。
しかし「もしかすると、自分の思い込みかもしれない」と、それぞれ思っていたかもしれません。客観的な証拠はないのですから。
イエス・キリストが誕生した時も、二人の上には何も起こりませんでした。この夜、ヨセフとマリアのもとには、天使も天の大軍も来なかったのです。
ですから不思議なことに、この二人、マリアとヨセフは、天使と天の大軍の話を羊飼いたちから聞くのです。しかしそのことは、マリアにとっても、ヨセフにとっても、かえって大きな恵みであり、大きな喜びであったに違いありません。なぜならば、二人は、全く意外なところから、つまり、二人と全く関係のない第三者、羊飼いたちの口から、今、自分たちの身の上に起きていることの深い意味について聞いたからです。
「ヨセフさん、マリアさん、聞いてください。私たちは野宿しながら、羊の群れの番をしていました。すると突然、まわりが明るくなって、天使が現れて、『救い主がお生まれになった』と告げたのです。もうびっくりして何も言えないでいると、今度はこの天使に天の大軍が加わって大合唱を始めました。『いと高きところには栄光、神にあれ。地には平和、御心に適う人にあれ。』それで大急ぎで、ここへ来たというわけです。そして今、この赤ちゃんを見て、天使が言ったとおりであることがわかりました。お会いできて、本当にうれしいです。」
羊飼いたちは、ヨセフとマリアのもとを去った後、「その光景を見て」「この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた」(17節)とありますから、当然のことながら、その前にヨセフとマリアにも、「天使が話してくれたこと」を、もっと詳しく、もっと生き生きと話したに違いありません。

(4)最初の礼拝

マリアとヨセフはナザレから、このベツレヘムの家畜小屋に、神様に導かれてやってきました。羊飼いたちは近くの野原から、やはり神様から導かれて、この家畜小屋にやってきました。そして今一つの場所に集められて、赤ちゃんのキリストを囲んでいるのです。ここに最初の礼拝が成立しています。
今、私たちのこの礼拝においても、それと同じことが起きているということを心に留めましょう。私たちは、それぞれ不思議な導きによって、ここに呼び集められました。毎週来ておられる方は、特に何も意識せずにここへ来られたかも知れません。クリスマス位は教会へ行こうと思ってこられた方もあるでしょう。それぞれ動機はさまざまです。しかしながらそれぞれの事情を通して、神様が皆さんをここに招かれたのです。そして今ここで一緒に礼拝をしているのです。不思議なことです。

(5)羊飼いたちの応答

さて救い主誕生の知らせを聞いた人たちは、それぞれの応答をしました。ここには3種類の人たちがいます。
まず天使から直接、救い主誕生の知らせを聞いた羊飼いはすぐに応答しました。ベツレヘムにかけつけて、飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てました。そして天使の言葉が、確かに出来事として事実となっていることを見届け、「神をあがめ、賛美した」(20節)のです。さらに彼らは、見聞きしたことを「人々に知らせ」(17節)ました。天使の言葉を聞いた時、聞くだけに終らず、聴き従う者となり、しかもそれを宣べ伝える者に変えられました。
羊飼いたちは、その後、もとの羊飼いの生活へ戻って行ったことでしょう。恐らくその前の日と同じ仕事に就いたことでありましょう。しかし彼らのうちでは、事柄が全く新しくなっておりました。これまでと同じものを見ながら、それが全く違って見えるようになりました。「大きな喜び」をいただいたからです。しかもヨセフとマリアと共なる礼拝を経験し、それを救いの原体験としました。その時、それまでのつらい仕事が、喜びをもってできるようになったのではないかと察します。
私は、洗礼を受けてクリスチャンとなる、キリストに従う決心をするというのは、まさにそういうことではないかと思うのです。洗礼を受けた後も、そう生活が変わるわけではありません。前の日と同じ仕事をしなければならない。子育てをしなければならない。仕事に行かなければならない。もしかすると、その洗礼の感動も薄れていくかも知れません。しかしながら、それまでとは違った者になるのです。

(6)それを聞いた人々の反応

一方、羊飼いたちから、救い主誕生の知らせを聞いた人々は、皆、羊飼いたちの話を不思議に思いました(18節)。「不思議に思う」にはいろんなニュアンスがあるでしょうが、とにかく「そんなことは信じられない」と思ったのでしょう。律法学者がそう言ったのであれば、もう少し信用したかも知れません。しかしそれを伝えたのは、社会的な信用もない羊飼いたちです。「羊飼いたちの言うことなんて信じられるものか。」気に留めなかったのでしょう。それから彼らがどうしたかは書いてありませんが、恐らく多くの人はそれっきりで、忘れてしまったのではないでしょうか。
それは今日の世界においても同じです。クリスマスの喜びの知らせを聞く。しかしそれを聞くだけで、信じるわけでも従うわけでもなく、過去のものとなり、過ぎ去っていくのです。

(7)マリアは心に納めて思い巡らした

しかしマリアは違っていました。もちろん自分の身に起こったことですから、当然といえば、当然かも知れませんが、彼女は、「これらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」(19節)というのです。「心に納めて」と訳された言葉は、「大切にとっておく」「宝物のように蓄える」というようなニュアンスをもった言葉です。それっきりのこととしてやり過ごさない。
羊飼いたちが何を言ったか、それは不思議でよくわからないけれども、一字一句、忘れないように「思い巡らして」いる。それが彼女の中でだんだんと熟していったのではないでしょうか。彼女は、神の語りかけを、そのままでは受け入れられない時でも、それを捨て去らず、大切にとっておき、事あるごとに、それがどういう意味を持っているのかを考え続けたのです。これもひとつの信仰的な姿勢でしょう。すぐに行動に移せる人もありますけれども、「一体どういうことなんだろう」と、じっくりと考える人もあります。そうした中で、より大きな行動へと準備の時が整っていくということもあると思います。

(8)告げ知らせを本気で聴く

「今日、ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」(11節)。

私たちはこの告げ知らせをどう聞き、それにどう応答するのでしょうか。
クリスマスの「喜びの知らせ」を聞きながらも、その言葉を本気で信じることなく、やり過ごしてしまう人も多いでしょう。そうではなく、それを本気で聞いて、「そうだ。救い主が来られたのだ。私も気持ちを新たにし、生活も新たにしよう」という思いをもって聴き従う者となりたいと思います。
あるいはマリアのように、それをしっかりと心に受けとめて、「今の私にはまだそのままでは受け入れられないけれども、きっと何か意味があるに違いない」と心に納めて思い巡らし、明日に向かって備えをすることも意味があるでしょう。それも信仰的な姿勢であります。本気でこの福音を聞きつつ、クリスマスを迎え、新しい年へと進み行きたいと思います。

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