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2023年12月17日説教「平和の道に導く」松本敏之牧師

ルカによる福音書1章67~79節

(1)ザカリアの賛歌

講壇のキャンドルに三つ火が灯り、待降節第3主日を迎えました。

今日、ルカによる福音書の1章67節以下の「ザカリアの賛歌」と呼ばれるところを読んでいただきました。今年のアドベントとクリスマス、私たちは「平和を祈るクリスマス」というテーマを掲げましたが、この「ザカリアの賛歌」の終わりのほうに、「我らの足を平和の道に導く」という言葉があるので、これをご一緒に読んでみたいと思いました。

ルカによる福音書の1章と2章、つまりアドベントとクリスマスの記事の中には、4つの賛歌が記されています。一つ目の賛歌は、マリアがイエス・キリストを身ごもった時に歌ったとされる「マリアの賛歌」です。1章47節から55節に記されていて、最初の「私の魂は主をあがめ」の「あがめる」のラテン語から「マグニフィカート」と呼ばれます。

二つ目が、本日の「ザカリアの賛歌」です。ザカリアの賛歌は、同じように、ラテン語訳聖書の最初の一語をとって「ベネディクトス」と呼ばれます。ベネディクトゥスというのは、「ほめたたえられよ」という意味です。「イスラエルの神である主は、ほめたたえられよ」というのは、 Benedictus Dominus Deus Israel という言葉です。この賛歌は、ザカリアがエリサベトによって、後に洗礼者ヨハネを呼ばれるようになる子どもが与えられた時に、預言して歌ったとされるものです。

ちなみに三つ目は2章14節に記されている有名な「天使たちの賛歌」で、「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」。前半は「グローリア・イン・エクセルシス・デオ」というもので、先ほど聖歌隊が歌った「荒野の果てに」にも出てきます。四つ目は、2章29節から32節で「シメオンの賛歌」と呼ばれます。年末によく読まれる御言葉です。

(2)天使に脅えるザカリア

少しさかのぼって、ザカリアがこの賛歌を歌った背景を説明しておきましょう。ルカ福音書1章5節以下にそれが記されています。ザカリアとエリサベトは子どものいない老夫婦でありました。ザカリアはイスラエルの祭司でした。祭司は全部で24の組に分かれていましたが、ザカリアはその中で第8の組であるアビア組に属していました(ルカ1:5)。それぞれの組は、年に2回、神様の前で務めをする順番が回ってくるのですが、当番の時期になりますと、祭司たちは神殿に集まって、朝夕くじを引いて、それぞれの務めを決めたそうです。その務めの中で最も大切なものは、香を焚いて祈りをする務めでありました。この当時イスラエルには2万人以上の祭司がいましたので、それを単純に24で割りますと、それぞれの組には1000人近い祭司がいたことになります。多くの祭司にとって、主の聖所に入って香を焚くというのは、一生に一度あるかないかの務めでありました。この時ちょうどアビア組にそれが回ってきて、ザカリアにくじが当たり、神様の前で香を焚く務めにあたることになったわけです。恐らくザカリアにとっても、この時が最初で最後であったことであろうと思います。ちなみにザカリアという名前は、「神に覚えられた者」という意味であります。

ザカリアが香を焚いて祈っている間に突然天使が現れて、香壇の右に立ちました。「ザカリアはこれを見てうろたえ、恐怖に襲われた」(12節)とあります。この気持ちはよくわかるような気がいたします。一生に一度あるかないかの務めです。非常に緊張している。ザカリアにとっては「何事も無くつつがなく終わって欲しい」という思いであったでしょう。間違うことのないように、と思ってどきどきはらはらしている。私たちの数十人の礼拝でも、最初に司会をする時というのは、とても緊張するものでしょうが、それをはるかに超える出番でありますので、ザカリアにとっては、とにかく早く終わって欲しいという思いであったに違いありません。神の聖所で祈りを捧げながら、そこで神と出会うことは期待していなかったのではないでしょうか。そこへ天使が現れたわけです。ザカリアにしてみればありがた迷惑な話です。何かとんでもないことが起こりかけているということをご想像くださるといいのではないでしょうか。

(3)神が介入される

私たちの信仰生活も、それと似た面があるかも知れません。信仰生活を送っているのだけれども、そこに神様が介入してこられることは期待していない。つつがなく自分の人生を歩んでいきたい。ですから自分の人生、あるいは毎日の生活の中で、神様が直接語りかけて、それを乱されては困る、さえぎられては困るのです。教会の営みというのも、そこに神様が介入してこられることを考慮に入れず、私たちの計画、私たちの行いという風に考えてしまうことがあるのではないでしょうか。そうしたところ、私たちの計画が遮られた形で、神様が入ってこられるのです。ただし本当は私たちの人生、私たちの教会の歩みというのは、そうしたところから変わっていくのであろうと思います。はっとさせられるところから変わってくる。

ザカリアに対して、天使はこう言いました。

「恐れることはない。ザカリア、あなたの祈りは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名づけなさい。その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ。彼は主の前に偉大な人になり、ぶどう酒も麦の酒も飲まず、すでに母の胎にいるときから聖霊に満たされ、イスラエルの多くの子らをその神である主に立ち帰らせる。彼は、エリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の思いを抱かせ、整えられた民を主のために備える。」ルカ1:13~17

この言葉は、今日の「ザカリアの賛歌」を内容的によく説明しているものです。

ザカリアはこの言葉を聞いた時に、戸惑ってこう言いました。

「どうして、それが分かるでしょう。私は老人ですし、妻も年を取っています。」ルカ1:18

彼はある種のしるしを求めたわけですが、そのせいで、その子が生まれるまで口が利けなくなるという「しるし」が与えられました。その後、天使が予告した通り、ザカリアとエリサベトの間には、洗礼者ヨハネが与えられました。

(4)イスラエルの神

そういうことを念頭において、このザカリアの賛歌を、区切りながら味わって読んでいきたいと思います。

ザカリアの賛歌は、前半の68~75節と、後半の76~79節の二つの部分に分けられます。前半は、第1行目に端的に表れていますように、神様への賛美、感謝の祈りです。

「イスラエルの神である主は
ほめたたえられますように。」ルカ1:68

ここで単に「主はほめたたえられますように」というのではなく、「イスラエルの神である主」と言います。漠然とした神様、あるいは一般的な、観念的な神様ではなく、そういう歴史的背景をもった神様、具体的にイスラエルの歴史において、人間とかかわりをもってきた神様のことを指しています。アブラハム、イサク、ヤコブの神様、サラ、リベカ、ハガル、ラケル、レアの神様。彼らと親しく交わられた神様であればこそ、今日も私たちの歴史にかかわり、私たちと親しく交わってくださる神様であることがわかるのではないでしょうか。

「イスラエルの神である主」と言うと、現代のイスラエルという国家を思い浮かべてしまいますが、ここでいう「イスラエル」というのはそういうことではありません。「イスラエル」というのは、もともとはアブラハムの孫であったヤコブの別名です(創世記32:29)。

「イスラエル」とは、「神は支配される」という意味です。やがてヤコブ、すなわちイスラエルには12人の息子が与えられるのですが、その子孫がイスラエルの民と呼ばれるようになるのです。イスラエル12部族には、ヤコブの息子たち12人の名前が付けられています。

(5)歴史を思い起こす

「主は我らの先祖に慈しみを示し
その聖なる契約を覚えていてくださる。
これは我らの父アブラハムに立てられた誓い。」ルカ1:72~73

ザカリアの賛歌のほとんどの言葉は、旧約聖書のどこかに出てくる言葉です。この箇所は、レビ記26章40節以下と関係があるのですが、さらにさかのぼると、「アブラハムとの契約」ということで、創世記15章5節の言葉を思い起こします。「天を見上げて、星を数えることができるなら、数えてみなさい。あなたの子孫はこのようになる」という言葉です。

ザカリアの賛歌は、「主はその民を訪れて、これを贖い」(68節)と続きます。イスラエルの民と歴史的にかかわられた神様。神様は、遠くからイスラエルの民をながめておられたわけではありません。近くに来られて、奴隷状態の中から解放してくださった。ここでは二つの解放が思い起こされます。一つは、エジプトの地からの解放です。そしてもう一つ忘れてはならないのが、バビロン捕囚からの解放です。

そうした過去において、自分たちの先祖を訪れて解放してくださった神様が、ザカリアの時代の人々をも解放してくださることを覚えて、ほめたたえているのです。ひいては、その方が現代の私たちをも訪れ、解放してくださる方であることを指し示していると思います。

「我らのために救いの角を
僕ダビデの家に起こされた。」ルカ1:69

「角」というのは、「強力な助け」ということです。つまり「ダビデの家から救い主が生まれる」というクリスマスの出来事を語っています。

「昔から聖なる預言者たちの口を通して、語られたとおりに。」ルカ1:70

ずっと長い間、預言者たちが語ってきたこと、イスラエルの民が長い間待ち望んできたこと、それが今、実現した。もううれしくて仕方がないという気持ちがよく表れています。

幼稚園の子どもたちも、一昨日、クリスマス礼拝で、「その日数えて待つうちに、何百年も経ちました」と歌いました。
あの祭司の当番の時には、恐れて震えていたようなザカリアが、ここでは喜びがはちきれんばかりです。実際に息子が与えられることによって、神様は誠実なお方だ、そして不可能を可能に変えることのできるお方だと知ったからでしょう。

(6)敵とは?

「それは、我らの敵
すべて我らを憎む者の手からの救い。」ルカ1:71

「敵」とは一体誰でしょうか。歴史的な意味では、イスラエルの民の前に立ちはだかったのは、エジプト人であり、ペリシテ人であり、アッシリア人であり、バビロニア人でありました。しかしそういう特定は私たちにはあまり意味がないでしょう。むしろ社会の中において、強い力を持って、弱い立場の民族、弱い立場の人々を抑圧する人がいる。そこからの解放ということに、まず目を向けたいと思います。

先程イスラエルと言えば、今日のイスラエルという国家を思い浮かべてしまうと申し上げましたが、そのイスラエル国家が「我らの敵」と言うならば、パレスチナ・ガザのハマスということになりそうです。しかし今日の力の関係、強い者と弱い者という構図から言えば、むしろ反対ではないかと思います。イスラエルが軍事力でペリシテ人の子孫であると言われるパレスチナ人を蹂躙してきましたし、そうした中で、10月のハマスのイスラエル攻撃が起こるべくして起こったということを忘れてはならないでしょう。

さらに「我らの敵」ということで言えば、もっと広く、そうした社会的地平を超えたところも視野に入れておく必要があるでしょう。それは私たちを脅かすすべてのものです。それは死であり、病気であり、罪であり、貪欲です。これが、もっと手ごわい敵であるかも知れません。私たちはそうしたものに取り囲まれて、不安の中にあります。しかしこう続くのです。

「こうして我らは
敵の手から救われ
恐れなく主に仕える
生涯、主の御前に清く正しく。」ルカ1:73b~75

歴史的な過去を振り返ることから、現在のこと、将来のことへと、話が大きくなっていきます。「恐れなく主に仕える」とあります。神様が生きて働いておられるということを実感する時、私たちは「恐れとおののき」を覚えるものですが、その神様ご自身が向こうから「恐れるな」と言って近づいてくださる。

この時も恐れおののくザカリアに、天使ガブリエルが「恐れるな」と言って近づいてきました。まさにクリスマスのメッセージです。そこで私たちは、びくびくしながらではなく、喜んで、心から、主に仕えることが許されるのです。

(7)洗礼者ヨハネの働き

さてここから後の76~79節が後半ですが、後半では、ザカリアの息子となる洗礼者ヨハネの働きについて語っています。

「幼子よ、あなたはいと高き方の預言者と呼ばれる。」ルカ1:76

洗礼者ヨハネ自身が「いと高き方」なのではありません。彼はあくまで預言者、その方について証をする者です。ある人は、洗礼者ヨハネは「指」だと言いました。しかしその指は、偉大な指です。なぜ偉大なのかと言えば、イエス・キリストを指し示したからです。

預言者の中の預言者、旧約聖書の預言者の系譜に連なりながら、イエス・キリスト以前の最後にして、最大の預言者でもありました。すでに、天使ガブリエルが「彼は主の前に偉大な人になり、ぶどう酒も麦の酒も飲まず、すでに母の胎にいるときから聖霊に満たされ、イスラエルの多くの子らをその神である主に立ち帰らせる」(15~16節)と告げていたとおりです。さらにこの賛歌においても、次のように語られます。

「主に先立って行き、その道を備え
主の民に罪の赦しによる救いを
知らせるからである。」ルカ1:76b~77

この言葉は、旧約聖書マラキ書3章1節から来ています。

(8)暗闇に輝く光

洗礼者ヨハネの働きについて述べた後、そのヨハネが指し示した方へと、再び話の焦点が戻っていきます。ヨハネの方を向いていた私たちが、そのヨハネの指に従って、すっと視点を移されるような感じがいたします。

「これは我らの神の憐れみの心による。
この憐れみによって
高い所から曙の光が我らを訪れ
暗闇と死の陰に座している者たちを照らし
我らの足を平和の道に導く。」ルカ1:78~79

まさにこれは、イエス・キリストによって起こる出来事について語っています。

私たちはクリスマスと言うと、単純に明るく、楽しいお祭りだと考えがちですが、むしろクリスマスというのは、暗闇の中にある人を照らす、そういう喜びを告げるものであるということを、心に留めたいと思います。

皆さんの中には、もしかすると、つらい思いをし、苦しい経験をして、とてもクリスマスをお祝いするような気持ちになれないという方もあるかも知れません。今年、大事な人を失った方もあります。しかしむしろそういう中でこそ、クリスマスのメッセージが届いて欲しいと思うのです。暗闇が濃ければ濃いほど、クリスマスの光は強く輝くからです。

そのようにして、私たちは平和の道へと導かれていきます。誰が導くのか。「曙の光」なるイエス・キリストなのか。洗礼者ヨハネなのか。文法的にはどちらとも読めそうです。ただ二人は同じ方向を向いていたわけですから、私たちにとっては、どちらでもよいでしょう。洗礼者ヨハネに導かれ、曙の光なるイエス・キリストに導かれて、私たちも平和の道を築き、歩んでいきたいと思います。

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