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「ブラジルのキリスト教」 -宣教師としての経験から-(1)1999年4月

(1)序、ブラジル人の教会で働くようになるまで

ただいまご紹介いただきました松本でございます。

最初に簡単に自己紹介をさせていただきまして、自分の歩みを振り返ってみたいと思います。私は一九九一年の十月より、日本基督教団の宣教師としてブラジルで働いてまいりました。実はその前に、いまご紹介にありましたように、一九八九年から九一年までニューヨークのユニオンという神学校で勉強しておりました。そこで初めて第三世界の神学、特に南米で生まれました「解放の神学」というものに深い意味で触れて、大変大きなチャレンジを受けました。もしも機会があればぜひ南米か、南米が無理なら他のアジアやアフリカ、いわゆる第三世界と呼ばれている地域で実際に働く機会があればという願いを持っておりました。

そうしたときに九〇年の八月に、日本基督教団の『教団新報』で、ブラジルのサンパウロにある日本人教会が牧師を必要としているという公募の記事を読みまして、さっそく行きたいという意思表明をいたしました。他に候補が全くなかったわけではないそうですが、南米への宣教師というのはあまり人気がないのですね。ヨーロッパや北アメリカですと、ときには十人以上の応募があるそうですけれども、南米は、あまり誰も行きたがらない所だそうで、比較的スムーズに決りました。

いま「解放の神学」といいましたけれども、これについて日本で牧師をしている頃から、全く知らなかったわけではありませんでした。但し、「武器を取る神父」とか、「共産主義のキリスト教版」であるとか、少しスキャンダラスな形で紹介されることが多かったですし、日本におりますときに私の回りには、この神学が持っているチャレンジを本気で受け止め、ポジティブな形で紹介してくれる人がありませんでした。ですからこの「解放の神学」について、日本を出てニューヨークで初めて触れたというのが実情であります。

この「解放の神学」についてきちんとお話しようといたしますと、それだけで一回分ぐらいの卓話の内容になってしまいますので、「解放の神学」の契機、きっかけというような最低限のことだけをお話しておきたいと思います。

第三世界ではご承知のように、圧倒的な貧富の差があります。正確な統計は今日は持ってきておりませんけれども、ブラジルではほんの数%の大金持の人が、国の資産や土地の八割以上を握っております。それはもともとブラジルあるいは南米の開拓のされ方から始まっており、その人達がずっと政治を引き継いできておりますので、なかなかそれは変わらないのです。その貧富の差は何百倍にもなります。そのことはそれがどんなに合法的であっても、神様のみ旨に反することであって、何とかしてそのギャップを埋め、是正していかなければならないものであろうと思います。

そして南米は宗教としては伝統的に、圧倒的にカトリックの強い国でありますが、そのカトリック教会の中から一つの疑問、問題提起が生まれてまいりました。

「教会は、まことの神様、公正な神様、正義の神様をあがめるといいながら、そういう圧倒的な不公平な状況をよしとしていいのであろうか。」「教会はこれまでの南米の五百年の歩みの中で、むしろそうした一部の支配者にとって最も都合のいい宗教であったのではないだろうか。」そういう疑問、問題提起です。貧しい人々に対してはあの世における平安を説きながら、「今は神様のみ旨でこういうふうになっているのだから辛抱しなさい」という福音を説き続けてきたのです。この世のことに関しては目をそらさせて、そして力を持っている人達の側についてきたのではないだろうか。それはこのカトリック教会の中から生まれてきた問題提起です。

聖書は、むしろそういう人達がどうすればもっと人間的な暮らしができるようになるのかということについて関心があって、そうした変革を支持しているのではないか。そして裕福な側にいる人達に対しても問いかけます。「中立というのは有り得ないのだよ」と。「圧倒的な力の差があり強いものが弱いものの犠牲の上に成り立っているような社会において何もしないということは中立でいるように見えながら、実は強いものの味方をしていることなのだ。知らないうちにそういう状況を肯定していることは、強いものの味方をしていることなのだよ」

「自分達にとって神様がいるかどうかなんていうことは、抽象的であんまり興味が無い。むしろこういう非常に不公平な状況の中で、神様は一体だれの味方をしているのか」、それが解放の神学の大きなチャレンジであります。

私は日本におりましたときは、あまり真剣にそういうことを考えたことはありませんでした。私は解放の神学者ではありませんし、あくまでチャレンジを受けるところに立っておりますけれども、そのチャレンジを大切にしたい。自分なりにどうそれに応えていくかということを考えてみたい。それが素朴なブラジル行きの動機でありまして、これまで私がずっと持ち続けてまいりました問題意識であります。

ところがいざブラジルについた後、その問題意識をなかなか深めることができませんでした。カトリックの人たちとなかなか触れ合うチャンスがありませんでしたので、私に水先案内をしてくれる人はだれもおりませんでした。

プロテスタント教会全般についても、もう一つよく分かりませんでした。いわゆる福音派の先生方と交わりが多くありましたけれども、いろいろな形でニュースで入ってくるペンテコステ派教会が圧倒的に増えている現実について、整理して教えてくれる人はありませんでした。そのどんどん増えているペンテコステ派教会と、カトリック教会がどういうふうになっているのか、そういうことも知りたいと思いながら、結局最初の四年間はなかなか深めることができないでまいりました。

日本人教会には日本人教会の大切な使命があります。それは私も十分に承知しておりますし、それは今後もずっと担い続けなければならない大事な課題です。しかし、そのことと、ブラジルの教会との交わりを深めていくということがなかなか両立しない。一つは、自分の言葉の能力の限界。毎週日本語で説教します。また幼稚園の園長をしておりましたが、幼稚園にはポルトガル語を話す三世の子供とかが来るのですが、日本語で教育をしてほしいと思ってうちの幼稚園に子供をやるわけですから、日本語を話すことを期待されているわけです。ポルトガル語をわかるそういう人達に対しても日本語を求められる。そういう状況の中で、なかなか語学の習得が難しかったですし、もう一つ、時間的な制約がありました。そういうジレンマのようなものがずっとあって、任期満了が近付いた時に、教会に、自分の願いと、自分なりのもう一つの召命ということをお話して、辞任を承認していただきました。

(2)オリンダのメソジスト教会で

そして九六年から後の二年間は、日本基督教団と、つながりのあったブラジル・メソジスト教団が受け皿となってくれて、全くのブラジル人の教会で、しかも北東部という日本人がほとんどいない地域の、町はずれの貧しい教会で働く機会を得ました。そのことは私にとって非常に大きな意味を持っております。

北東部というのは、南米の「肩」のように右側に飛び出た部分です。サンパウロからはバスで行きますと四十五時間ぐらい、飛行機で三時間ぐらいですから、東京と台北ぐらいの距離かと思います。ですからブラジルといっても全く別世界、気候も何もかも全然違います。南緯八度の熱帯地域でありまして、海辺のぎりぎりの所は風があって涼しいのですが、やはり暑いです。一年中非常に暑い季節と、ちょっと暑い季節の繰返し。英語でいえばベリー・ホット(非常に暑い)、レス・ホット(より少なく暑い)、そういう季節しかありません。

メソジスト教会はプロテスタント教会の中では、比較的貧しい人達に対して何かしていこうという姿勢が強くて、コミュニティセンターというもの、(ポルトガル語でセントロ・コムニタリオ)をあっちこっちで持っております。それは職業訓練をして大工になる訓練とか、識字教育とか、リサイクルペーパーでカードを作るとか、そういう活動をやっております。私がいたオリンダのアルト・ダ・ボンダーデという教会もこのコミュニティセンターを持っておりました。そして貧しい地域の人達と、積極的に関わっていくことを実践しておりました。

その他に保育所があります。お母さんたちは、失業していない限り皆働いていますので、子供をその保育所に預けます。学校も持っていました。幼稚園の年長から小学校二年生ぐらい(六歳から八歳)の子供のための学校です。最初、教会の学校として出発したのですが、アメリカのメソジスト教会からの援助がどんどん少なくなって、現在ではオリンダ市と提携して、オリンダの市役所が教師を派遣し、おやつや、お昼ご飯などの食材を提供してくれています。そういう実際的な活動をしています。

私は牧師でありましたから、その教会で毎週日曜日の朝は教会学校、夜は主日礼拝の説教をしていました。ブラジルでは面白いですね。通常日曜の夜に礼拝するのです。どうしてかと想像すると、金曜の夜から日曜の昼ぐらいまで十分に週末を満喫して、日曜日ぎりぎりのところで礼拝をして、一週間を始めるのかなと思います。ブラジルでも昔は朝の礼拝が中心だったようで、今でも朝礼拝したい人は礼拝形式の教会学校の成人科に出席します。その他火曜日は祈祷会。水曜日はいろいろな所で家庭集会。木曜日は聖書研究。最初ポルトガル語で全部用意するのは大変でしたけれども、だんだん馴れました。馴れ過ぎると聖書研究のときに少し手ぬきをして日本語の他人の本を見ながら、それをポルトガル語で話したりもしました。

その他に学校と保育所で週に一回、子供礼拝をいたしました。そのときには日本の聖書の紙芝居が非常に役に立ちました。そういう文化は南米にはありませんので、子供たちも非常に紙芝居を喜んでくれました。

そこで私はブラジルの貧しい人達と触れると同時に、ブラジルの教会というものに初めて深く触れたように思います。今日はそういうブラジルの教会との出会いの中で、いろいろ私の印象に残っていることを、三つぐらいのポイントでお話しいたします。

一つはもう既に最初にお話し始めましたが、解放の神学というものが、いまブラジルでどういうふうになっているのかとか、どういう意味を持っているのかということ。次にはペンテコステ派の教会は一体どうなっているのか。そしてカトリックとどういう関係を持っているのか。そして三つ目に、その狭間にある伝統的なプロテスタント教会はどうなっているのかということです。私はブラジルでいろいろな新しい賛美歌に触れて、それは非常に大きな収穫だったと思っておりますけれども、その三つテーマにふさわしい、そしてある意味で非常にブラジルらしい、南米らしい賛美歌を三つ選んで持ってまいりましたので、それを聞きながら音楽と共に話を進めていきたいと思います。(その2に続く)

この文章は、1999年4月20日開催の「YMCA午餐会」において行われた講演の速記録を、東京YMCAのご好意によって転載させていただいたものです。無断転載はご遠慮ください。東京キリスト教青年会発行の『別冊 東京青年』第355号(1999年6月)の内容と同じものです。

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