2026年7月19日説教「私を思い出してください」松本敏之牧師
創世記28:13~15
ルカによる福音書23:34b~43
(1)十字架上の七つの言葉
古来、「十字架上の七つの言葉」として知られるテキストがあります。それは、イエス・キリストが十字架上でお語りになった言葉を四つの福音書から全部抜き出してある順序で並べたものです。音楽好きの方は、このテキストによる「十字架上の七つの言葉」という音楽を思い起こされるかもしれません。有名なものとしては、ハインリヒ・シュッツの「十字架上の七つの言葉」があります。シンプルですが、非常に美しい曲です。私の大好きな曲の一つです。
もう一つ、有名なのは、ヨーゼフ・ハイドンのものです。彼は、スペイン南部の町の司祭の依頼によって、「十字架上の七つの言葉」に基づく(黙想のための)器楽曲を作るのですが、この曲に余程情熱を傾けていたと思われます。オーケストラ版、弦楽四重奏版、ピアノ版、そして声楽を伴うオラトリオ版と4つの版を、ハイドン自身が作っています。ところどころ秘めた激しさもみられますが、これも慰めに満ちた美しい音楽です。現代の作曲家でも、ロシア連邦タタールスタン共和国出身のソフィア・グバイドゥーリナが、このテキストに基づいた大曲を書いているようです。
ちなみにこの七つの言葉というのは、以下のとおりです。興味のある方は、聖書箇所だけでも控えておかれるとよいかもしれません。
- ①「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです。」(ルカ23:34)
- ②「よく言っておくが、あなたは今日私と一緒に楽園にいる。」(ルカ23:43)
- ③「女よ、見なさい。あなたの子です。」
「見なさい。あなたの母です。」(ヨハネ19:26、27)
※ただしシュッツの曲では、この2番目と3番目の順序が逆になっています。 - ④「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか。」(マルコ15:34、マタイ27:46)
- ⑤「渇く。」(ヨハネ19:28)
- ⑥「成し遂げられた。」(ヨハネ19:30)
- ⑦「父よ、私の霊を御手に委ねます。」(ルカ23:46)
(2)「七つの言葉」の構成
確かにこれはよく考えられた順序であると思います。よく構成されています。
最初の三つは、いわゆる執り成しの言葉です。最初の、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです」というのは、天の父なる神様に向かって、人を執り成す言葉です。二つ目の、「はっきり言っておくが、あなたは今日私と一緒に楽園にいる。」というのは、その執り成しについて、自分が執り成し手であることを、人に向かって告げている言葉です。イエス・キリストが楽園へ導く権威をもった方であることも示しています。三つ目の、「女よ、見なさい。あなたの子です。」「見なさい。あなたの母です。」というのは、人と人とを執り成す言葉です。教会の原点がここにあるとも言えるでしょう。
先ほど言いましたように、シュッツでは、2番目と3番目が逆になっていますが、いずれもとりなしの言葉であることには変わりありません。
四つ目は、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか。」という言葉です。これは、マルコとマタイに出ている言葉ですが、マルコは「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」というアラム語で、マタイは「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」というヘブライ語でそれを記しています。これは捨てられた者の叫びであり。人間としてのイエスの言葉だと言えるでしょう。
五つ目は、「渇く」と言う言葉です。これも人間的な言葉です。先ほどの四つ目が「神に捨てられる」という精神的苦痛を言い表しているとすれば、こちらは「肉体的苦痛」を言い表しているということもできるでしょう。イエス・キリストの人間的な側面を伝える言葉ということができるように思います。
六つ目は、「成し遂げられた。」。イエス・キリストの地上での働きが、この十字架上で完成することを告げています。単純に「終わった」と訳すこともできる言葉です。
そして最後の七つ目が、「父よ、私の霊を御手にゆだねます。」という言葉です。すべてを天の神に委ねるイエスの安らかさが思い浮かびます。シュッツの音楽でも、ハイドンの音楽でも平安を感じさせるものです。ただ、ルカは「大声で叫ばれた」(23:46)と記していますので、ただ安らかな感じというのではなく、激しいものを秘めていたとも言えるでしょう。次回、考えてみたいと思います。
これら七つの言葉を、こうして並べてみますと、先ほど申し上げましたように、よく構成されていますし、イエス・キリストが誰であったのか、あるいは何をなさった方なのかということが端的に示されていると思います。
これを並べて改めて思うのは、ルカとヨハネに集中しているということです。この七つのうち、三つがルカ福音書に記されている言葉であり、三つがヨハネ福音書に記されている言葉です。残りの一つ(わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか)がマタイとマルコの両方に記されている言葉であることがわかります。
(3)二人の犯罪人と共に
ルカ福音書に記されている3つのうち、最初の「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです」という言葉については、前回、お話しました。(その内容は、本日、プリントにして皆さんにお渡ししました。)
本日は、その次の「よく言っておくが、あなたは今日私と一緒に楽園にいる」(ルカ23:43)という言葉を中心にお話したいと思います。
「よく言っておくが、あなたは今日私と一緒に楽園にいる」という言葉は、イエス・キリストの隣で十字架にかかっていた「犯罪人」に向かって語られたものです。イエス・キリストの両側には、二人の犯罪人が十字架にかけられていました。32節以下に、すでに、こう記されていました。
「ほかにも、二人の犯罪人がイエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。『されこうべ』と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も。一人は右に一人は左に、十字架につけた。」23:32~33
この言葉は、39節に続きます。
「はりつけにされた犯罪人の一人が、イエスを罵った。『お前はメシアではないか。自分と我々を救ってみろ。』」23:39
「人のことを祈っている場合じゃないだろう」という嘲笑を感じます。実は、この犯罪人の嘲りの前に、別の人たちも、十字架の下から、主イエスを嘲っていました。犯罪人の嘲りは、その嘲りを受けたものでありました。
(4)十字架の下と上のあざけり
今日の箇所を、もう一度最初から見てみましょう。
「人々はくじを引いて、イエスの衣を分け合った。」23:34b
死刑執行人は、処刑される人の残したものを受け取る権利をもっていました。そこで刑を命じられた兵士たちは、十字架にくぎ付けにする前に、主イエス(同時におそらく他の犯罪人)を裸にして、その衣をくじ引きで分配したのです。詩編22編19節に「(彼らは)私の服を分け合い、衣をめぐってくじを引く」という言葉がありますが、ルカはこの出来事を、この詩編の言葉と重ね合わせました。つまり、主イエスの十字架の受難は旧約聖書以来の神様の計画の中にあったと言おうとしているのです。議員たちは、嘲笑って、こう言いました。
「他人を救ったのだ。神のメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」23:35
この議員たちというのは、主イエスを最初に「死刑にしなければならない」と決議した最高法院の議員たちでしょう。だとすれば、この嘲りには、自分たちの思い通りになったという勝ち誇った思いが含まれているように思います。
しかし、ある人間の思い通りになったかに見えるものの中に、実は神様の思いがあり、その神様の思いこそが実現していくのです。
議員たちの嘲りにつられるようにして、兵士たちも嘲りました。
「お前はユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」23:37
主イエスの頭の上には「これはユダヤ人の王」という罪状書きが掲げてありました。これは罪状書きであり、嘲りの言葉でもありました。しかし、この言葉もまた、嘲りを超えて、書いた人の思いも超えて、真実を指し示していました。主イエスは、「ユダヤ人の王」であり、「世界の王」なのです。そして「神のメシア」なのです。この十字架において、神様の計画が成就するのです。先ほど紹介した十字架上の七つの言葉で言えば、ヨハネ福音書に出てくる「成し遂げられた」という言葉がそのことを表しています。
(5)御国へ行かれるときには
十字架の上の犯罪人の一人までもが、主イエスを嘲笑した時、もう一人の犯罪人がこうたしなめました。
「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」ルカ23:40~41
そしてイエス・キリストに向かってこう言うのです。
「イエスよ、あなたが御国へ行かれるときには、私を思い出してください。」42節
すると、主イエスは、こう答えられました。
「よく言っておくが、あなたは今日私と一緒に楽園にいる。」23:43
「よく言っておくが」というのは、「アーメン」という言葉です。それは、私たちが祈りの最後に唱える言葉です。「それは本当です」という意味です。ですから、主イエスはこの時、「私は本当のことを言うよ。うそは言わない」と言って語られたのです。そしてその言葉の中身は、「あなたは今日私と一緒に楽園にいる」という言葉でした。ここで心に留めたい言葉が二つあります。それは「今日」という言葉と「楽園」という言葉です。
(6)今日
ルカは、「今日」という言葉を、しばしば大事な場面で用いています。
ひとつは、皆さんがよくご存じのクリスマスを告げる天使の言葉です。
「恐れるな。私は、すべての民に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町に、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」ルカ2:10~11
その「主メシア」が今、十字架の上で告げられるのです。「あなたは今日、私と一緒に楽園にいる。」
もう一つは、思い起こしたいのは、ザアカイに向けられた言葉です。ザアカイが主イエスを迎え入れて、悔い改めの言葉を語った時、主イエスはこう言われました。
「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は失われたものを捜して救うために来たのである。」ルカ19:9~10
そのようにザアカイに語られたのと、同じ「今日」が、この犯罪人にも向けられているのです。
しかし、その「今日」とはいつのことでしょうか。彼(犯罪人)が、「イエスよ、あなたが御国へ行かれるときには、私を思い出してください」と言った時、彼は、これから先のことを考えていたでしょう。いわば、明日のこととして、そう語ったのでした。しかし主イエスは、「今日、あなたは私と一緒に楽園にいる」と言われました。つまり、イエス様が共におられる今、すでに「楽園」が始まっているのです。
(7)「楽園」とは(イエスとの)「関係」のこと
ある人が「楽園」とは「場所」のことではなく、「関係」のことだと言いました。主イエスが共におられるという関係なのです。
ルカはまた、別のところで、主イエスの大事な言葉を書き記しています。
「ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスはお答えになった。『神の国は、観察できるようなしかたでは来ない。「ここにある」とか、「あそこにある」と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの中にあるからだ。』」ルカ17:20~21
「あなたがたの中に」というのは、「心の中に」ということではありません。まさに主イエスが私たちの真ん中におられる」という関係の中に、すでに神の国は始まっているのです。この「神の国」というのを「楽園」と置き換えることができるかもしれません。
カール・バルトという人は、この3本の十字架の場面において教会は始まっていると言いました。私は最初に、「女よ、見なさい。あなたの子です。」 「見なさい。あなたの母です。」(ヨハネ19:26、27)という主イエスの言葉によって教会が始まっていると申し上げました。それは、主イエスがとりなしてくださる共同体。主イエスによって、親子、兄弟姉妹としてくださるところ、それが教会だという意味で、申し上げました。しかし、もう一つさかのぼって、そうした人間同士をとりなしてくださる以前に、何も言わずとも、主イエスの名のもとに集められているところに、すでに教会が始まっていると言えるでしょう。バルトは、こう語ります。
「彼〔イエス〕と共にいる犯罪人たち。それが何を意味しているか、きみたちは知っておられるでしょうか。それは、最初のキリスト教会であった。すなわち、最初の確かな、解くことも破壊することもできないキリスト教会であった。」平野克己『説教 十字架上の七つの言葉』46頁
カール・バルト「彼と共にいる犯罪人たち」『聖書と説教』バルト・セレクション、301頁
ペンテコステ以前に、すでにここに教会が始まっている、とバルトは言うのです。主イエスは「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もまたその中にいる」(マタイ18:20)と言われました。それがこの十字架の場面で始まっているというのです。一人の犯罪人は信仰的ですが、もう一人の犯罪人は不信仰です。いやそれどころか、反抗的です。しかしそれも含めてのことです。私たちの教会、代々の教会もまた必ずしも信仰的な人ばかりではなかったでしょう。しかし主イエスのもとに集められたのです。そこに教会があり、同時に神の国があり、また楽園がある、と言えるでしょう。
しかし私は、もうひとつ、この言葉の奥行きを考えますと、この人は最後に悔い改めたから楽園にいると約束されたのでしょうか。対比的に言えば、もう一人の犯罪人は楽園から排除されているのでしょうか。「楽園にいる」のは、彼が悔い改めたからというよりは、そう主イエスが宣言してくださったから、その前のイエス・キリストの祈りの故だと言えるのではないかと思うのです。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです」という祈りの延長線上に、「あなたは今日、私と一緒に楽園にいる」という言葉があるのではないでしょうか。
むしろ、この祈りの言葉に支えられているのだと思います。それゆえに、イエス・キリストは、イエス・キリストをののしったもう一人の犯罪人のためにも祈られたことでしょう。「父よ、彼をお赦しください。自分が何を言っているのかわからないのです。」そのようにして、主イエスのもとに集められた犯罪人たち、三本の十字架、ここに教会が成立している。そして楽園がすでにこのときから始まっている。私たちもまた、その言葉のもとに集められたものであります。