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2023年10月8日説教「イエス・キリストの宴」松本敏之牧師

ルカによる福音書14章7~14節

(1)世界聖餐日

鹿児島加治屋町教会では、本日の礼拝を、世界聖餐日礼拝、世界宣教の日礼拝としています。本来は、10月第一日曜日なのですが、先週は、音楽礼拝としましたので、1週ずらすことにしました。10月第二日曜日は神学校日礼拝なのですが、これも来週にずらすことにします。

世界聖餐日というのは、「第二次世界大戦の前に、アメリカの諸教派でまもられるようになったもので、戦争へと傾斜していく対立する世界の中で、キリストの教会は一つであることを、共に聖餐にあずかることによって確認しようとしたもの」です。その意味では、今も、そうしたことが最も求められている時と言えるかもしれません。「戦後、日本キリスト教団でもまもられるようになり、同時に、『世界宣教の日』として、キリスト教会は主にあって一つなのだから、世界宣教を共に担う祈りと実践の日と定め」られました(大宮溥、『信徒の友』2004年10月号より)。

世界が一つであるために、まず教会が一つであらねばならない。そのためにはまず共に聖餐式をまもること、一緒にまもることが無理でも、それぞれの聖餐式で、世界の教会に思いをはせること、教派の違いを超えて祈りあうこと、国を超えて祈りあうこと、それが出発点だということが込められているのではないでしょうか。

コロナ禍の間、聖餐式を中止していた時期があります。昨年から聖餐式のある世界聖餐日礼拝となりました。感謝したいと思います。

(2)世界宣教の日

また世界聖餐日・世界宣教の日にあわせて、日本基督教団世界宣教委員会は、世界各地で働く日本基督教団派遣宣教師、または関係教会の報告を載せた『共に仕えるために』という小冊子を、毎年発行しています。今年度の『共に仕えるために』を手にして、海外で働く日本人宣教師の数がずいぶん減ったなと思いました。南米に派遣されている日本人宣教師の記事はついになくなってしまいました。小井沼眞樹子宣教師が隠退され、パラグアイで働いておられたフェイスブック上の友人のえはらゆきこ宣教師も昨年、帰国されました。日本人宣教師が減った理由の一つには、海外移民一世が少なくなり、需要が減ったということもあるのでしょう。しかし海外の教会で働く理由は、日系人のためだけではないでしょう。今年度の世界宣教委員長の廣石望牧師は、「共に仕えるために」の巻頭言で、こう述べておられます。

「なぜ私たちは海外に宣教師を派遣するのか――そう私たちが繰り返し問われるのは、よいことです。そこに日本語で福音を聞くことを望む人たちがいるから、というのが自然な答えの一つでしょう。それはその通りなのですが、新約聖書には、仲間のニーズを満たすことを超えて(これは私たちの文脈で言えば、日系人ということですね)、見知らぬ人びとの中に神の「満ち溢れる恵み」の証言者を見出す姿勢が見えます。初期キリスト教文書を見ると、会ったこともない遠隔地の教会と、さかんに手紙をやり取りしています。私たちもこれに倣い、世界の諸教会とつながることで、自分たちが何者であるかを新たに学びたいと思います。」

新約聖書学者でもある廣石望先生らしい含蓄のある言葉であると思いました。

(3)処世術としての「謙遜」?

さて今日は、ルカによる福音書14章7~14節をお読みいただきました。この箇所は、実は9月4日の日本基督教団の聖書日課でしたが、この日は出エジプト記で説教しましたので、取り扱いませんでした。本日の世界聖餐日にちなんで、宴に関係する箇所ということで、この箇所を読むことにしました。ここには二つの話が記されています。宴会に招かれた人の心得と宴会を催す人の心得です。

一つ目はこう始まります。

「イエスは、招待を受けた客が上席を選んでいるのを御覧になって、彼らにたとえを話された。」ルカ14:7

「婚礼の祝宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたよりも名誉のある人が招かれており、あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うでろう。その時、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。招待を受けたら、末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『友よ、もっと上席にお進みください』と言うだろう。その時、同席の人みんなの前で面目を施すことになる。」ルカ14:8~10

これは面白いたとえです。しかし誤解されやすいたとえでもあります。処世術として受け取られかねないからです。

私たち、特に日本人は前へ進みたがりません。礼拝の席においてもそうです。いくら前の席を勧めても、うしろの席のほうが、人気がある。前の席に座ると、自分のような者が偉そうにしていると思われるのではないかということが気になるのでしょうか。

誰かに勧められても、最初は断る。2回勧められたら、初めて出て行くのです。

京都のほうでは、3回勧められたら、初めて、「そうですか。ではそうさせていただきます」と答えると聞いたことがあります。2回目で、その言葉を真に受けると、「何と厚かましい人!」となりかねないのだそうです。

恐らく、それは極端な話だろうと思いますが、前に出ることを避けたがる。どうしてそういうことが言われるのか。出る杭は打たれるからです。そして本音と建前が違うからです。本音を探るために、後ろに座ってみる。本音を知るために、2回は断ってみるということでしょうか。処世術です。

そのところでも、人を見ながら、どちらが上か、自分はどのあたりかというふうに、自分を位置づけようとすることがあるのではないでしょうか。

以前働いた教会で、社会的地位の高い人の葬儀の時に、「親族席以外の一般席では、どうぞ前から座ってください」と言っているのに、「いやここは社長で、その次が副社長で」というふうにおっしゃって、絶対に前に出ようとされないで、困ったことがありました。

そういうふうに自分の位置づけをする。後ろを選ぶのだけれども、心のどこかで、「あなたはそこではなく、もっと前ですよ」と言ってくれるのを待っている。そこで誰かが順番を取り違えたり、そこで呼ばれなかったりすると、腹を立てる。私たちは、この世の価値観の中で、自分を値踏みしているのかもしれません。

(4)まことの謙遜

果たして主イエスは、そういうレベルの話をなさっているのでしょうか。私は、そうではないと思います。先ほど申し上げましたように、これは神の国のたとえです。そしてここでたとえられているのは、神の国の価値観のことです。またこの主人とは神様のことに他ならないでしょう。神様の前でどうあるべきか、ということが問われているのです。

人と比べてどうこう、という位置づけから自由にされて、新しい神の国の価値観の中に生きるということが求められているのだと思います。私たちが知っていることについて語っているのではなくて、常識を超えること、まことの謙遜について語っているのです。

へりくだっている者は、自分がへりくだっているという自覚すらない、ということを聞いたことがあります。逆に傲慢な者は、自分が傲慢であるという自覚がないと言えるかもしれません。

ただしイエス様は、ちょっと例外かもしれません。

「私は柔和で心のへりくだった者だから、私の軛を負い、私に学びなさい。」マタイ11:29

本当に謙遜な人は、自分で「私は心のへりくだった者」なんて言わないような気もしますが、この言葉は、イエス様自身が、自分でそう言ったというよりは、そういうイエス・キリストの姿、本質を知っているマタイ福音書記者が、そのことをイエス・キリスト自身の言葉として、ここに入れたのではないかと、察するのです。

イエス・キリストは、この話を「誰でも、高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」(ルカ14:11)とまとめられました。

私たちは、神様の前に出る資格がない者だけれども、神様が私たちを受け入れてくださっているというところで、私たちが新しい価値観に生きることへと促されているのです。

(5)まことの「おもてなし」

さて二つ目のたとえは、宴会に招く側の心得です。

「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。」ルカ14:12

私たちは、パーティーに招かれる時には、それなりのプレゼントやご祝儀を持っていくのが礼儀だと考えます。ですからこういう言葉を読むと、「自分たちの習慣はまちがっているのだろうか」と戸惑うかもしれません。こうしたこの世の習慣は、それはそれとして、理にかなったことでしょう。私は悪いことではないと思います。ただしそれは「持ちつ持たれつ」、「お互いさま」ということで、特に信仰の世界とは、関係がないことでしょう。ここでイエス・キリストは別次元のことを語っておられるのです。

2013年、もう10年前のことになりますが、国際オリンピック委員会で滝川クリステルさんが行ったスピーチの中の「おもてなし」という言葉が、2013年の流行語になりました。「お・も・て・な・し、おもてなし」

滝川クリステルさんの説明によれば、「おもてなし」とは、「歓待、気前のよさ、無私無欲の深い意味合いをもった言葉」ということです。彼女は、こう続けます。「それは私たちの祖先から受け継がれ、現代の日本の超近代的な文化までしっかり根付いているものです。このおもてなしの精神は、日本人が互いに思いやり、またお客様たちにも同じように、その思いやりの精神で接しているのかを説明するものです。その例をお話ししましょう。もしみなさんが何かをなくしたとしましょう。それはほとんど皆さんのお手元にかえります。現金でさえもです」。

確かにあたっている面もあります。日本は世界一治安のよいところだと言われますが、私もそういうことを実感します。しかしそれは「無私無欲」というよりは、「人のものに勝手に手をつけてはいけない」とか、「うそをつかない」という日本人の特性の一つかと思います。儒教の影響かもしれません。それはそれで誇るべきものでしょう。ただそういうことと、主イエスがここで語られた「お返しができない人を招く」ということとは、少し違う気がします。

私たちはいつも裏を考えてしまいます。もてなしていても、もてなされていても、計算しながらバランスを考えるのです。自分の立場はどのあたりか。本音と建前のようなこともあります。聖書は、そうした計算づくの世界から、私たちを解放しようとしているのではないでしょうか。イエス・キリストは、そうしたことを超えた、まことの無私無欲のおもてなしについて語られるのです。

東京オリンピックは、終了後に、さまざまな問題が発覚しました。結局、裏のある「おもてなし」もなされていたということだと思います。その影響もあって、一昨日の報道では、札幌市は2030年の冬季オリンピックの誘致を断念したということでありました。

今、鹿児島では、昨日から国体が催されていますが、私はそこでは、まことのおもてなしを示したいと思います。

(6)お返しのできない人を招く

「イエス・キリストは、お返しのできない人をこそ招きなさい」と言われましたが、その根拠が、意外な形で、次のたとえで示されると言えるかもしれません。それは神が招かれる宴会です。そこでは、私たちの誰もがお返しできません。だからイエスのおもてなしに、無償で招かれるのです。

私が作った川柳の中で、この主イエスの言葉に基づいたものがあります。

「おもてなし イエスによれば うらもなし」

まさに、無私無欲なおもてなしであります。さて、イエス・キリストは、こう語られます。

「宴会を催すときには、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、彼らはお返しができないから、あなたは幸いな者となる。正しい人たちが復活するとき、あなたは報われるだろう。」ルカ14:13~14

この言葉は、少し障碍者差別があるようにも思えますが、当時の社会的状況はそうであったのでしょう。

(7)招かれる資格があると思っていないか

普通の宴会では見かけないような貧しい人たちもたくさん招かれている。これは一種、風変わりな宴会です。しかしそれを聞いていた参加者の一人が、こう言いました。今日の聖書箇所の続きの箇所です。

「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう。」ルカ14:15

この言葉は率直な応答であったと思います。裏があったとは思いません。しかし、彼はこう語ったとき、自分が「神の国の食事」の場にいるということを、全く疑っていなかったと思います。言い換えれば、「自分は招かれて当然」と思っていたのではないでしょうか。そこから主イエスは、新たなたとえを話されるのですが、今日はそこまで語ることはできません(「盛大な晩餐会」のたとえ)。そこにあるのは、自分は招かれて当然と思っている人の傲慢です。

しかし考えてみると、私たちは、誰もイエス・キリストの宴に招かれて当然という人はいないのだと思います。それでもイエス・キリストは私たちを食卓に招いてくださる。それは恵みであると思います。そのことを心に留めつつ、この後行われる世界聖餐日の聖餐にもあずかりたいと思います。

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