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2024年1月7日説教「イエスの洗礼」松本敏之牧師

ヨハネによる福音書1章29~34節

2024年が始まりました。元旦に、能登半島で大地震が起き、また翌日2日には、震災の救援に向かおうとしていた海上保安庁の航空機と日本航空の航空機が衝突する大事故が起き、大変な年の初めとなりました。震災で亡くなられた方も多数あり、またそれ以上の数の行方不明の方もおられます。避難生活を強いられておられる方もたくさんおられます。どうかその方々の上に、必要な支援が与えられ、また慰めと励ましがありますようにと祈ります。私たちにできる協力と支援をしていきたいと思います。日本基督教団輪島教会では出入口が潰れるなど甚大な被害が出ているようです。日本基督教団のサイトを見ると、早速、社会委員会で「能登半島地震緊急救援募金のお願い」の文章が上がっていました。私たちもできる協力をしていきたいと思っています。

(1)洗礼者ヨハネと主イエス

先ほど読んでいただいたヨハネ福音書1章29~34節は、日本基督教団の本日の聖書日課です。この箇所は、イエス・キリストが洗礼者ヨハネから洗礼を受けられる場面ですが、この直前の箇所、ヨハネ福音書の1章19~28節において、洗礼者ヨハネは、その中で、こういうやり取りをしています。「あなたはどなたですか」という問いに対して、「私はメシアではない」「エリヤでもないし、あの預言者でもない」と正直に答えていました。「(それではいったい、)誰なのですか」というふうに、質問した人々は改めて問います。それに対してヨハネは、イザヤ書40章の言葉を引用しながら、「私は荒れ野で叫ぶ声だ」と答え、続けてこう言いました。

「私は水で洗礼を授けているが、あなたがたの中に、あなたがたの知らない方が立っておられる。その人は私の後から来られる方で、私はその方の履物のひもを解く値打ちもない。」ヨハネ1:26~27

つまり「自分はある方が来る道備えをしているのに過ぎない。そのお方と自分では、いわば格が違う」と言いながら、来るべきメシアが一体どれほどの方であるかをにおわせたわけです。しかしながら、洗礼者ヨハネとイエス・キリストは、まだ出会っていませんでした。そこから今日の物語が始まるのです。

(2)その翌日

「その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。『見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。「私の後から一人の方が来られる。その方は私にまさっている。私よりも先におられたからである」とわたしが言ったのはこの方のことである。』」ヨハネ1:29~30

冒頭に、「その翌日」とあります。つまり「昨日、自分が話したばかりの方が、今こちらに向かって来ておられる」ということです。

この第1章をずっと見ていきますと、おもしろいことに、段落が変わるごとに「その翌日」という言葉が出てきます。この29節に続いて、35節、43節にも「その翌日」とあります。そして2章の冒頭の「カナの婚礼」の箇所では、「三日目に」となるのです。これを全部足しますと、7日間になります。これら一連の出来事は1週間の間に起こったということです。恐らく、神様がこの世界を1週間で創られたということを意識してのことでありましょう。そして7日目に「栄光を現された」のでした(2:11)。

(3)アニュス・デイ

ここで洗礼者ヨハネは、イエス・キリストを指して、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と呼びました。この言葉は有名な言葉です。音楽のお好きな方であれば、カトリックのミサ曲の最後に「アニュス・デイ」というのがあるのをご存じであろうかと思います。(ミサ曲というのは、キリエ、グローリア、クレド、サンクトゥス、アニュス・デイの五部構成になっています。)アニュス・デイというのは、「神の小羊」という意味のラテン語です。“Agnus Dei, qui tollis peccata mundi, miserere nobis.”「神の小羊、世の罪を取り除きたもう者よ、われらを憐れみたまえ」と歌われます。

あるいはヘンデルの『メサイア』の第二部の冒頭でも、英語で“Behold the Lamb of God, that taketh away the sin of the world”と歌われますが、これも「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」という意味であります。音楽の世界でもよく知られた「世の罪を取り除く神の小羊」というこの言葉は、まさに洗礼者ヨハネの口を通して語られた言葉でありました。

このヨハネの言葉は、出エジプト記の物語(12章)が前提になっています。神様がエジプトの地で奴隷になっているイスラエルの民を、エジプトから救い出す話です。モーセはエジプト王ファラオに向かって、彼らを去らせるように訴えるのですが、ファラオはそれを聞こうとしません。モーセとファラオの一連のやり取りが続いた後、ついに神様はエジプトの初子をすべて殺すということをモーセに告げられます。ただし、家の入口の二本の柱と鴨居に小羊の血を塗っている家には災いを下さず、災いを過ぎ越す、と言われました。そしてそのとおりになっていきました。

「小羊の犠牲のゆえに災いを過ぎ越す」ということが背景にあって、「イエス・キリストこそは、神ご自身が備えられたまことの犠牲の小羊である」ということになるのです。ですからそこには、「この神の小羊によってこそ、世の罪が取り除かれるのだ」という信仰の告白が含まれています。

(4)第一の「主の僕の歌」

もう一つ「犠牲の小羊」ということで忘れてはならない旧約聖書はイザヤ書でありましょう。イザヤ書は預言書の中で最も大きなものですが、聖書学の研究によれば、三つの部分に分けられます。11月26日の礼拝でもそのことを申し上げました。最初の1~39章は本来のイザヤによって書かれた部分です。その後の真ん中の部分の40~55章は、最初の部分とは、書かれた時代も著者も違うことがわかっています。通常、第二イザヤと呼ばれます。

この第二イザヤの中に、「主の僕の歌」と呼ばれる歌が四つ含まれています。これはちょっと不思議な歌なのです。第二イザヤの中にとびとびに出てくるのですが、それがある誰か、特定の人物を指し示しているようになっているのです。それが一体誰のことなのか分からない。第二イザヤ自身のことかも知れないけれども、そうでないかも知れない。

その中の第一の歌を少し紹介したいと思います。それはイザヤ書42章1~4節の第一の歌です。開ける方はお開きください。(聖書協会共同訳は1112頁です)

「見よ、私が支える僕
私の心が喜びとする、私の選んだ者を。
私は彼に私の霊を授け
彼は諸国民に公正をもたらす。」イザヤ書42:1

「見よ」という言葉は、今日の洗礼者ヨハネの言葉に通じるものでしょう。また「私は彼に私の霊を授け」とありますが、先ほどのヨハネ福音書の言葉によれば、イエス・キリストの上に「霊が鳩のように天から降って」とどまったということでありました。

「島々は彼の教えを待ち望む。」イザヤ書42:4

「島々」とは「諸国」という意味です。ただ単にイスラエルの伝統の中にあるものだけではなく、世界中の人々がその方の教えを待ち望んでいるということでしょう。

それがこの第二イザヤの中に記された第一の「主の僕の歌」の内容です。それはイエス・キリストを彷彿とさせるものではないでしょうか。

洗礼者ヨハネは、そのように旧約聖書で預言されていた「メシア」、そしてあの『主の僕』が今ここに来られたのだ」と証ししたのでした。

(5)罪なき方の洗礼

それにしても不思議なのは、主イエスは、どうして洗礼を受けられたのかということです。ヨハネ福音書1章31節後半には、こう記されています。

「この方がイスラエルに現れるために、私は、水で洗礼を授けに来た。」ヨハネ1:31

そもそもヨハネの洗礼というのは、ルカ福音書などによれば、「罪の赦しを得させるため」(ルカ3:3)でありました。そのために「悔い改めの洗礼を宣べ伝え」(ルカ3:3)ていたとあります。しかし主イエスは、もともと罪のないお方ではなかったでしょうか。その意味では、悔い改めも必要のない方でしょう。それなのに、どうしてわざわざ洗礼を受けるために、ヨハネのもとへ来られたのでしょうか。

主イエスが、ここで洗礼者ヨハネから洗礼を受けることは、神様の意志でした。ヨハネも、それがどういうご意志であるのかはわかりませんでしたが、自分がその役割を担うということは、神様から何らかの仕方で知らされていたのでしょう。

その神様の意志とは、「罪のない方が、あたかも罪人の一人であるかのように、罪人の列に加わり、罪人と肩を並べられて、罪人のように洗礼を受けられる」ということでありました。

イエス・キリストの受洗は、単なる通過儀礼ではありません。ここで、今後のイエス・キリストの生涯を象徴する出来事が起こっているのです。神の子が、人の前にひざまずかれる。ヨハネよりも偉大な方が、ヨハネの前に頭を垂れる。ヨハネよりも優れた方が、ヨハネから洗礼を受けられる。悔い改める必要のない方が、悔い改めの洗礼をお受けになる。罪のない方が、罪ある者のごとく、罪人と肩を並べられる。それが、イエス・キリストの受洗という驚きと不思議さに満ちた出来事であります。

それによって、私たちの罪とイエス・キリストの義の取り換えが起こると言ってもよいでしょう。私たちの罪をイエス・キリストが担われる。そしてイエス・キリストの義を私たちが身に受ける。

イエス・キリストは、あたかも罪ある者のごとく、それを引き受け、私たちは、あたかも罪のない者のごとく、義とされるのです。イエス・キリストの洗礼によって、私たちの罪とイエス・キリストの義の取り換えが起こる。それは、これから後のイエス・キリストの生涯と死において起こることですが、その最初のしるしとして、イエス・キリストの洗礼が行われたのです。

(6)私はこの方を知らなかった

このヨハネ福音書の箇所を読んでいて印象的なことのひとつは、「私はこの方を知らなかった」と、洗礼者ヨハネが二度も語っていることです(31節、33節)。

自分は、具体的にどの方が来たるべき方であるかは知らなかったけれども、その方はどのようにしてくるかを聞かされていた。前もってヒントが与えられていたというのです。それは「その方の上には聖霊が降る」ということです。「それがこの方(イエス・キリスト)の上に実現するのを見たから、それを証しするのだ」と言っています。なかなか論理的です。イザヤ書42章の、「私は彼に私の霊を授け 彼は諸国民に公正をもたらす」という言葉を思い起こさせます。

洗礼者ヨハネは、イエス・キリストの上に霊が鳩のように降るのを見たと言いますが、果たしてそれは誰の目にも明らかなように降ったのでしょうか。私は分かる人にだけ分かるように示されたのではないかと思います。聖霊というのはそういうところがあります。分かる人にだけ分かる。あるいは見ようとする人にだけ分かるのです。一般の人の目には隠されている。

(7)霊が鳩のように降った

さて、「霊が鳩のように降った」という表現がありますが、聖霊と鳩には一体どういう結びつきがあるのでしょうか。「ノアの箱舟」の洪水物語の終わりに、水が引いた後、鳩がオリーブをくわえて戻ってきたという記述があります(創世記8:11)。そこから鳩は平和のシンボルになりましたが、何かしらそういうことと関係があるのかも知れません。しかし恐らく鳩が飛んできて、ぱたぱたぱたっと樹の枝にとまる時や、あるいは地面に降り立つ時などの美しい姿が、聖霊が天から降る様子にたとえられたのではないかと思われます。

洗礼者ヨハネは、イエス・キリストが来られる道備えをし、そして来られた時には、「この人を見よ」と証しをしました。「自分はついこの前までそれが誰かを知らなかった。今はそれを知っている。だからそれを証しするのだ」と語りました。そしてこのすぐあとで、ヨハネは自分の弟子に向かって、「見よ、神の小羊だ」(36節)と、直接告げるのです。そこからヨハネの弟子は、イエス・キリストと結びついていき、それを伝えたヨハネ自身はすーっと後退していきます。後にヨハネは「あの方は必ず栄え、私は衰える」(3:30)と言うようになりますが、そのことが、早くもこの1章で、始まっていると言えるでしょう。

(8)伝道とは

私は、伝道とはそういうものであろうと思います。誰かにイエス・キリストを指し示し、その人が直接、イエス・キリストにつながったら、私たちは退くのです。主役はあくまでイエス・キリストです。私たちは証しをし、イエス・キリストを指し示す。そしてその人がイエス・キリストと結びついたら、退いていく。「あの方は必ず栄え、私は衰える。」この言葉は、ちょっと聞くと悲しい言葉のようですが、彼は喜んで、そのように言うことができました。私たちもそのようにイエス・キリストを指し示し、証しながら、この1年も歩んでいきましょう。

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