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2021年2月28日説教「悪霊を追い出す」松本敏之牧師

マタイによる福音書12章22~32節

(1)レントの聖書日課

 2月17日の水曜日から、イエス・キリストの受けられた苦難を思い起こす受難節(レント)が始まりました。この季節は、私たち自身が、自分を静かに振り返り、悔い改めをし、神様に立ち返る時でもあります。そのことを心に留めるために、聖書を毎日、読む習慣を身に着けたいと願って、悔い改めを促す旧約聖書の預言書の言葉で聖書日課を組んで、皆さんに日課表をお渡ししました。
ホセア書から始めたのですが、「ちょっと難し過ぎたかな。ハードルが高すぎたかな」とやや反省しています。「何のことか、さっぱりわからない」と思われた方もあるかもしれません。
 4月から礼拝での朗読を新しい翻訳、聖書協会共同訳に切り替えるにあたり、ちょうどよい機会ですから、みんなで聖書通読にチャレンジしようと企画を立てています。その前に、レントこそ聖書を読むのにふさわしい時ですから、山登りのウォームアップの準備運動つもりで選んだのが、ウォームアップどころか、いきなりロッククライミングのようになってしまいました。そうしたことを思い、本日は、ホセア書、ヨエル書、アモス書、オバデヤ書、ヨナ書の簡単な解説とアウトラインのプリントを用意しました。これを参考にしていただければと思います。これは大きな本、マクグラスという人の『旧約新約聖書ガイド』という本の一部を用いたものですので、ホームページに挙げることはできません。ご了解ください。ただ、教会図書にも入れてありますので、ご覧いただいて、興味があれば、どうぞお買い求めください。手元に置いておけば、他の箇所を読むときにも参考になると思います。聖書と同じくらいの大きさですが、聖書全体について触れていますので、参考になるかと思います。

(2)真の権威を認めようとしない人びと

 今日は、日本キリスト教団の本日の聖書日課、マタイによる福音書12章22~32節に基づいてお話しさせていただきます。
 最初に「悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人が、イエスのところに連れられて来て、イエスがいやされると、ものが言え、目が見えるようになった」(22節)とあります。この直前の箇所は「安息日論争」と呼ばれる物語ですが、その次のこの箇所は、「ベルゼブル論争」と呼ばれます。ことの発端は、イエス・キリストがこの二重の障がいを負った人をいやされたことでした。口が利けないということは、もしかすると耳も聞こえなかったかもしれません。その場に居合わせた群衆は皆驚いて、「この人はダビデの子ではないだろうか」(23節)と言いました。群衆の反応は素直です。直感的に「この人には、神の霊が働いている。この人こそ、来るべきメシアかもしれない」と思ったのです。
 しかしファリサイ派の人々は、素直にそれを認めることをしません。イエス・キリストに神の霊を認めると、自分たちの立場を揺るがすことになりかねないと思ったのでしょう。彼らは、自分たちこそ神の言葉をもち、自分たちこそ神のみ心を知っていると、自負していました。嫉妬もあったかもしれません。
 そこで彼らは、「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」(24節)と言いました。彼らは、そこに人間を超えた力が働いていることを認めざるを得なかったのですが、それを神の霊ではなく、悪霊の力によるものといたしました。そこには主イエスの業を、魔術、呪術などに対する厳罰の規定(申命記18:10~12など)に当てはめて、陥れようという陰謀も感じられます。
 イエス・キリストの存在は、それを受け入れるか拒否するかで、人々を二つに分ける働きがあるようです。この世で何がしかの権威をもっている人は、それを超える権威をもった人が登場すると、それを拒否しようとする傾向があります。自分のもっている権威が自分に見合ったものではなく、その権威にしがみついて生きている人であればあるほど、そうです。自分の権威に自信がないから、それを脅かそうとする者が現れると、急いでそれを抹殺しようとするのでしょう。
 クリスマスの時のヘロデ王がそうでした。占星術の学者たち、博士たちがエルサレムへやって来て「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」(マタイ2:2)と言うのを聞いて、ヘロデ王は不安を抱き、やがて二歳以下の男の子を皆殺しにするよう、命じるのです(同16節参照)。

(3)本当に偉い人は見極める力をもっている

 しかし本当に偉い人というのは、自分よりも優れた人の登場を拒否しません。洗礼者ヨハネがそうでした(マタイ3:14参照)。あるいはファリサイ派の中でもガマリエルという人は、この物語のファリサイ派の人々とは全く違います。当たり前のことですが、ファリサイ派のすべての人が悪かったわけではないのです。ガマリエルは、パウロの律法の先生でもありました(使徒22:3)。この人は、はったりではない本物の権威とは、内側からあふれ出るものであることをよく知っていました。使徒言行録5章に、興味深いことが記されています。ペンテコステよりも後の時代ですが、使徒ペトロたちが登場した時、ユダヤの最高法院サンヘドリンは大騒ぎになります。「そんな者たちを放っておいてはいけない」と、みんな躍起になるのです。そこでガマリエルが「皆さん、落ち着いてください。それがもしも人間から出たものであれば、そのうちになくなるでしょう。もし神から出たものであれば、私たちは知らずして神に逆らうことをしていることになります。」と言います。そしてみんな、それを聞いて冷静になるのです(同5:38~39)。
 ですから律法の教育を受けた人でも、本当に優れた判断の目を持った人はいたのです。

(4)イエス・キリストの反論

 さて主イエスは、「悪霊の力で悪霊を追い出している」という非難に対して、二つの論法で答えます。一つはいかに悪霊の世界といえども、内輪もめをすると、内部分裂してしまうということです。「どんな国でも内輪で争えば、荒れ果ててしまい、どんな町でも家でも、内輪で争えば成り立って行かない。サタンがサタンを追い出せば、それは内輪もめだ」(25~26節)。
 もう一つは、彼らの弟子たちも悪霊追放の業をしていることを取り上げ、それも悪霊の仕業なのかと皮肉ったのでした。「わたしがベルゼブル(悪霊の頭)の力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか。だから、彼ら自身があなたたちを裁く者となる」(27節)。彼らは、それ以上何も言うことができませんでした。
 イエス・キリストは続けます。「しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」(28節)。
 実はこの28節の言葉こそが、この箇所で最も大事な言葉でしょう。これまでの話は、この言葉を導き出すためのものだと言ってもよいくらいです。この言葉は、クリスマスを指し示していると思います。
 私たちの世界は、闇に閉ざされており、悪霊が支配しているようにさえ見えます。しかしその闇の中に、光がぽつんと灯った。私たちの将来を指し示しているのは、この圧倒的に支配しているように見える闇のほうではなく、あちこちでぽつりぽつりと始まっている、神の霊の働きです。やがてそれが世界中を覆うようになるのです。ヨハネ福音書1章にこういう言葉があります。「光は暗闇の中で輝いている。……その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」(ヨハネ1:5、9)。
 悪霊は私たちよりも強く、私たちは自分でそれに打ち勝つ力をもっていません。特に死の前では、死の力の前では無力です。しかし主イエスは、悪霊よりも上に立ち、死さえも飲み込んでしまう力をもっておられます。悪霊の親玉を縛り上げ、私たちを解放してくださるのです(29節)。本当の自由と喜びをもたらすために、主は来られたのです。
 「わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」(28節)。

(5)小山晃佑先生の「使徒信条」へのコメント

 ニューヨークのユニオン神学大学院の教授であった小山晃佑(こやまこうすけ)氏が、かつて使徒信条について興味深いことを語られました。それは、日本聖書神学校で小山先生が講演された時に、ある学生が、「小山先生、使徒信条についてどう思われますか」と質問されたことに答えられたものです。
 「使徒信条というのは、信仰を規定する絶対的なものではない。『真理はこちらにありますよ』という道しるべぐらいに考えればよいのではないか。それは当時のある状況のもとで、必要に迫られて書かれたもので、物足りないところもないわけではない。特に、『(主は)処女(おとめ)マリヤより生れ』から『ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け』まで、ぽーんと飛んでしまって、イエス・キリストが、この地上でいったい何をなさったかということに全く触れられていない。」
 つまり、イエス・キリストの働きは、降誕と受難と復活に集約されるという理解が、使徒信条の中にあるわけです。そうだとすれば、「イエス・キリストの地上での働きは何だったのか。全くそれに触れていないではないか」という問いが出てくるのです。それは使徒信条を否定しているわけではありません。使徒信条を道しるべとして受け止めながら、さらに「イエス様がなさったことは他にもあるんじゃないか」ということです。そしておもしろいことをおっしゃったのです。「ぼくが作るのであれば、その間に『悪霊を追い出し』とでも入れるかな」
 「使徒信条」に注文を付けるようなことは思いもよらなかったので、とても印象深い言葉でありました。「悪霊を追い出す」などというのは、時代錯誤のように聞こえるかもしれませんが、広い意味でとらえるならば、それは確かにイエス・キリストがこの地上でなさった中心的な業であったと思います。
 「悪霊」とは、私たちをさまざまな形で閉じ込めているもの、本来的な状態ではなくさせているもの、人間性を奪うものと言ってもよいかもしれません。さらには、私たちを誘惑して神様から引き離そうとする力をも指しているでしょう。しかもそれは単なる力ではなく、人格的な威力をもって私たちに迫ってくるのです。イエス・キリストは、私たちをそういう状態から解放するために来られた。確かにそれらをひと言で言おうとすれば「悪霊を追い出し」となるかもしれません。もしも別の表現をするならば、「神の国をもたらし」という言葉でもよいかもしれません。イエス様は何をしにこの世界に来られたのか。神の国をもたらすために来た。それは、「悪霊を追い出し」ということと、裏表で同じことを指しています。「わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」というのは、まさにその両面を指していると思います。
 私たちは、イエス・キリストのなさったみ業を、個人的内面的な次元でとらえがちですし、使徒信条もそう理解されがちですが、「悪霊を追い出す」という表現は、イエス・キリストのみ業はそれにとどまらず、社会的広がりをもつことを告げていると思います。私の魂とイエス様の関係だけでは終わらない。
 私たちの誰もが平和を願っているのに、この世界に戦争が絶えないのは、やはり悪霊が私たちを支配し、世界全体が「悪霊」の一時的な支配下に置かれているからだとは言えないでしょうか。そちらへそちらへと、私たちはどうすることもできないような強い力で引き寄せられていくのです。そうした力から私たちを解放するために、主イエスは来られたのです。
 そして弟子たちにもそのような力を与えて、「悪霊を追い払いなさい」と言われました。そもそも彼らを召し集められたのもそのためでした。「イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった」(マタイ10:1)。私たちもこのことを、深く心に留めたいと思います。

(6)聖霊に言い逆らう罪

 さて、本日の聖書箇所の最後に少しわかりにくい言葉が付け加えられます。「人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない」(32節)。この言葉は神の恵みの深さと厳しさの両方を同時に語っていると思います。
 「人の子に言い逆らう者は赦される」ということは、イエス・キリストを否定し、それを受け入れない者も、イエス・キリストのみ手の中、祈りの中に入れられているということでしょう。イエス・キリストの「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23:34)という十字架上の祈りを思い起こさせます。
 それでいて「聖霊に言い逆らう者は赦されない」とは、どういうことでしょうか。「聖霊」とは、今、ここで働く神の霊です。この言葉は、マタイ福音書のもとになったマルコ福音書にはない言葉です。ですから、もともとなかったものを、その後に付け加えられたと考えられなくもないです。私は、「聖霊」というのは、三位一体的に言うならば、今も生きて働いているイエス・キリストそのものだと思います。2000年前に、私たちと同じ肉体をもったイエス様は、今日、世界中、どこでも働いている。それが聖霊です。ですから、「イエス・キリストに言い逆らう者は赦されるが、聖霊に言い逆らう者は赦されない」というのはよくわからない、なにか矛盾しているように思えるのです。
 ただ聖霊というのは、今ここで働いている霊です。私たちとイエス・キリスト、また父なる神様を執り成し、固く結び合わせてくれるものです(ローマ8:26参照)。それを自ら拒否することで救いの道が閉ざされてしまうということかと思います。しかしはっきりとしたことは私にもわかりません。ただこれを不用意に、特定の誰かとか、特定のケースに結びつけないように注意したいと思います。
 イエス・キリストはご自分を否定する者さえも救いのみ手の中に置いてくださった。しかしそれでも裁きは神のみ手の中にあり、私たちはそれを知り尽くすことはできない、厳粛な神の裁きを軽んじることは許されていない、そういうことであろうかと受け止めております。

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