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2021年5月23日説教「弁護者なる聖霊」松本敏之牧師

ヨハネ福音書14章15~19、25~31節

(1)ペンテコステ

本日は、教会のカレンダーでは、ペンテコステと呼ばれる祝日です。クリスマス、イースターと並ぶキリスト教3大祝日のひとつですが、クリスマス、イースターほど有名ではないかもしれません。特に、日本の社会では一般的にはあまり知られてはいないでしょう。ペンテコステ、日本語では聖霊降臨日、あるいは聖霊降臨祭と言います。イースターから50日目の日曜日、聖霊が降って、そこから教会が始まっていったということで、教会の誕生日とも言えます。

鹿児島加治屋町教会では、4月1日から新約聖書の通読を呼び掛けていますが、皆さんはこれに即して、聖書を毎日読んでおられますか。マルコによる福音書から読み始めて、ローマの信徒への手紙を終えて、今はヨハネによる福音書を読み進めています。通読計画表は、鹿児島加治屋町教会の公式ホームページからダウンロードできるようになっていますので、ぜひ一緒に読み進めていきましょう。

この聖書日課では、明日はヨハネ福音書の14章になりますが、先ほどはこの14章の中の言葉をお読みしました。この箇所は、聖霊とは何か。あるいは聖霊とは誰か、ということについて、イエス・キリストが語られた言葉です。ペンテコステにふさわしい箇所でありますので、この箇所からお話をいたします。

5月2日の説教でも少し申し上げましたが、ヨハネ福音書を二つに分けるとすれば、12章までが前半、13章から終わりの21章までが後半です。ただし後半と言っても、13章以下は、イエス・キリストの受難と復活の部分であり、わずか数日のことであります。13章は、イエス・キリストと弟子たちの最後の夜の出来事、「洗足」の記事から始まります。そしてその直後に、イエス・キリストが弟子たちに向かって,「別れの説教」をされるという設定です。実際には、さまざまなところで語られた言葉が、ここにまとめられたのであろうと思いますが、それは13章31節から16章の終わりまで、3章以上にまたがっています。先ほど読んだ14章も、そのイエス・キリストの別れの説教の一部であり、いわば遺言のような言葉です。自分は去っていくけれども、悲しむ必要はない。私の代わりにもうひとりの弁護者が遣わされるというのです。それが聖霊です。

(2)ペンテコステがクリスマス・イースターと私たちを結びつける

「私は父にお願いしよう。父はもうひとりの弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。」(16節)

これはペンテコステを預言するような言葉です。この言葉にはどういう意味があるのでしょうか。

イエス・キリストという方は、「インマヌエル」すなわち「神が私たちと共におられる」(マタイ1:23)という神様の約束が見える形で実現したお方でした。「インマヌエル」(神が私たちと共におられる)。神様は見えない方ですので、見える形、人の形をとって、この世界に来られることによって、「私たちと共におられる」ということを具体的に示されたのでした。それがクリスマスの出来事です。

それは、永遠に存在するお方が、あえて、ある時間の中に入ってこられたということを意味しています。あるいは場所に限定されないお方が、ある場所の中に入ってこられたということを意味しています。これはとても大きな福音でありますが、それはある時間に、ある空間に入って来られたということですから、逆に、ある時間、ある空間に、限定されてしまったとも言えます。2000年前のユダヤ・パレスチナ地方の一角における出来事に過ぎないということになっていたでしょう。ですから、それだけでは私たちの時間と空間(21世紀の日本)とは関係がないでしょう。その2000年前にユダヤ・パレスチナ地方で起きた出来事が単に遠い昔の遠い国の話ではなくて、今の私に、あるいは今の私たちに深い関係があるのだということ、それを告げるのがペンテコステです。

「神が私たちと共におられる。」2000年前のあの出来事は今もなお有効である。そして今なお、生きて私、私たちに働いておられる神こそ、聖霊なる神なのです。

ですから、極端に言えば、ペンテコステがなければ、クリスマスもイースターも、私とは、そして私たちとは、関係がないということになります。ペンテコステこそがクリスマスとイースターを私、そして私たちに関係あるものにしているのです。

使徒言行録によりますと、イエス・キリストは、復活の後、40日間、復活の体をもってこの地上に留まられましたが、その後天に昇られました。「昇天」と言うのは、イエス・キリストが地上から離れて行かれた出来事ですから、それだけでは寂しいことのように思えます。しかし昇天があったからこそ、イエス・キリストはあの時の時間と場所に限定されることなく、私たちと共にいてくださることが可能になったということができるでありましょう。

(3)ユビキタス(遍在)の神

イエス・キリストという肉体をもった神の子は去って行かれたけれども、去って行かれたからこそ、いつでもどこでも私たちと共にいてくださることが可能になりました。

コンピューター用語に「ユビキタス」という言葉があります。ご存じでしょうか。ユビキタスとは、ラテン語で「遍在」という意味です。「いつでもどこでもインターネットに接続可能」というようなことを指していますが、これはマーク・ワイザーという人が、1991年の論文『The Computer for the 21st Century』において使った使い方です。コンピューターやネットワークなどの遍在をあらわす意味合いで用いました。以来、ユビキタスコンピューティングやユビキタスネットワーク、更にはそれらが当たり前になった社会を指す「ユビキタス社会」などの意味で用いられるようになりました。、皆さんが今、動画配信によって、遠く離れた私の説教を聴くことができるのも、ユビキタス社会の賜物と言えるでしょう。

ところが、このユビキタスというラテン語は、実は元来、神様の一つ特質を表す神学用語でありました。神様は、いつでもどこにでもおられるお方だということであります。それは聖霊なる神として、私たちの上に実現したということができるでしょう。神様の特質を表す言葉は、三つありまして、それは全知・全能・遍在ということです。「神様は何でも知っておられて、何でもできて、どこにでもいることができる」ということです。全知全能はよく知られていますが、遍在(偏在ではありません!)はあまり知られていないかもしれません。それが聖霊と深い関係があるのです。

(4)みなしごにはしない

こう続けます。「この方は真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、それを受けることができない。」(17節)

今、霊が働いているということを、この世の次元で見るならば、誰も認めようとはしない。受け入れようとしない。ところが、信仰を持つ者は違うと言います。

信仰を持っていても聖霊はよくわからない、という方が時々ありますが、イエス・キリストを信じることができるということは、実は聖霊の働きを認めているということに他なりません。そうでなければ、2000年前の遠い国のイエス・キリストを、自分の救い主として告白することはできないでしょう。「イエス様、助けてください」と祈るということは、実は聖霊の働きを認めているということなのです。あの2000年前に、遠い国で活動されたイエス・キリストが、今の私に関係があると信じることができるということは、自分で知らずして聖霊を受け入れていることなのです。

「この霊があなたがたのもとにおり、これからも、あなたがたの内にいるからである。」(17節)

今も、そして永遠に変わることのないお方が、私たちの「もとに」、そして私たちの「内に」いてくださる。この二重の表現も意味深いものではないでしょうか。

「私は、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。しばらくすると、世はもう私を見なくなるが、あなたがたは私を見る。私が生きているので、あなたがたも生きることになる。」(18~19節)

何と力強い言葉ではないでしょう。

(5)カナダ合同教会の新信仰告白

カナダ合同教会が、1968年に採択した「新信仰告白」(A New Creed)というものがあります。これは古典的な使徒信条など、三位一体の神を信じるという信仰告白を、現代の言葉で言い表したものです。

「牧師 キリスト教の信仰を現代的表現で共に告白しましょう。人間は一人ではありません。人間は神の世界の中に生きています。」
「牧師と会衆 私は、〈かつて世界を創造し、今も創造の業を継続したもう、和解し、新しくするために、まことの人間イエスにおいて、この世に来られた神〉を信じ、この神に信頼します。
神は私たちが神の教会であるようにと私たちを招いておられます。教会は、神の現臨を祝福し、他者を愛し、他者に仕え、正義を求め、悪に抵抗し、十字架につけられ、よみがえられた、われわれのさばき主であり、われわれの希望であるイエスを宣べ伝えます。
生においても死においても、死を超えた生命においても、神は私たちと共におられます。私たちはひとりではありません。神に感謝します。」

(森野善右衛門『世の命キリスト』p.112)

この最後の部分が「我は聖霊を信ず」と告白してきたものを現代的に言い直したものに他なりません。「聖霊を信じる」ということは、神は今もなお生きて働いておられることを信じるということです。「神は今もなお生きて働いておられる」ということは、私たちはどんなに孤独に思える時であってもひとりぼっちではない、ということです。「私は、あなたがたをみなしごにはしておかない。」イエス・キリストは、そう言いのこして行かれました。だからこそ、「どんな時でも、私たちはひとりぼっちではない」と告白することができるのです。

(6)聖霊の二つの働き

さて先ほどお読みした聖霊についての後半の箇所は、こういうふうに始まります。

「私は、あなたがたのもとにいる間、これらのことを話した。しかし、弁護者、すなわち、父が私の名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、私が話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」(25~26節)

このところに聖霊は一体どういう方であるかが、よりはっきりと示されています。二つの点に注意してみましょう。

一つは、「私が話したことをことごとく思い起こさせてくださる」ということ、もう一つは、「あなたがたにすべてのことを教える」ということです。イエス・キリストは、「私の名によって遣わされる聖霊」と言われました。聖霊はイエス・キリストの代わりに、イエス・キリストの名によって働かれるのです。

聖霊に満たされて何かをする、聖霊に満たされて何かを語るということ、それはどんなに新しいことを語ろうとも、これまで誰もしなかったようなことをしようとも、それは必ずイエス・キリストの言葉につながっています。イエス・キリストの言葉に根拠がある。イエス・キリストの言葉に根をはっている。「そう言えば、イエス様も、こうおっしゃっていたなあ」と思い起こすことができる。そこから離れてしまうならば、どんなに熱くなって語ろうとも、キリストの聖霊によるものとは言えないでしょう。そしてもはやそれはキリスト教の信仰とは言えません。糸の切れた凧のように、どこかへ飛んでいってしまうでしょう。

もう一つは、「(新しく)すべてのことを教えてくれる」ということです。聖霊は、今私に働きかけて、その都度その都度、今何をなすべきかを教えてくれる。いつも新しい教えとして、聖書の言葉が迫ってくる。そうでなければ、イエス・キリストの言葉、イエス・キリストの業は過去のものになってしまうでしょう。「いつも新しい」ということと「必ずキリストの言葉にさかのぼることができる」ということ。この一見反対の二つが結びついていることが大事です。信仰者は、この二つのことの緊張関係の中にあるのです。それがイエス・キリストの霊に導かれるということです。そして、こう語られます。

「心を騒がせるな。おびえるな。『私は去っていくが、また、あなたがたのところへ戻って来る』と言ったのを、あなたがたは聞いた。私を愛しているなら、私が父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。父は私よりも偉大な方だからである。」(27~28節)

弟子たちにしてみれば、イエス・キリストとの別れを喜ぶなどということは考えられないことであったでしょうが、イエス・キリストの「どうかそのことに心を合わせて欲しい」という思いが伝わってくるような気がします。

(7)事が起こる前に

29節のところではこう語られました。

「事が起こったときに、あなたがた信じられるようにと、今、そのことの起こる前に話しておく。」(29節)

イエス・キリストは、ここで遺言のようにして多くのことを語られましたが、それらの言葉が弟子たちの記憶に残っていたでありましょう。

「今私が何を言っているかあなたがたにはわからないかも知れないけれども、きっと後に、あなたがたのうちで生きてくる。そのために、今、私は話しているのだ」とおっしゃったのでしょう。

私は、み言葉を蓄えることの大切さを思います。私たちは年間主題として、「聖書に親しみ、み言葉を蓄えよう」という言葉を掲げました。そして毎日、聖書日課に従って、聖書を読んでいくことをお薦めしています。聖書を読んでいくと、わからない言葉に突き当たります。しかしわからないままでもよいと思うのです。とにかくみ言葉に触れ、み言葉を蓄えていく。そうすると、自分のうちに蓄えられたみ言葉が、今はそれ程力を持っていないかも知れないけれども、いつか、特に何かしらの危機にあった時に、生きてくると思うのです。

聖書の言葉はそのままでは蓄えです。しかし蓄えたいろいろな聖書の言葉が、何か大きな課題にぶつかった時、危機に遭遇した時に、自分の中で眠っていたものが起き上がってくるようにして、生きて働きかけてくるのです。いろんな聖書の言葉を知っていればいる程、それだけ神様とのパイプが太い、多いと言えるでしょう。

聖霊は、そのように蓄えられたみ言葉を通して、私たちに働きかけてきます。聖霊が、イエス・キリストの言葉を、新しく私たちに思い起こさせてくださるのです。そのようにして「あの時イエス様がおっしゃったのは、こういうことだったのか」と思うことがしばしばあるのです。

聖書をぱっと開いて、目に飛び込んできた言葉が語りかけてくるということもあるかも知れません。しかしむしろ、今まで自分がいろんな機会に聞いてきた言葉が、何かの折にぱっとひらめいて、語りかけてくるという方が多いのではないでしょうか。

(8)復活の後で

イエス・キリストは、復活の後、再び弟子たちの前に現れます。弟子たちはユダヤ人たちを恐れて、家の中に鍵をかけて閉じこもっていました。しかしどのようにしてかわかりませんが、イエス・キリストがそれを通り抜けて、すっと入って来られました。そして弟子たちの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」(ヨハネ20:19)と言われました。そして御自分の手とわき腹をお見せになるのです。その手には釘の跡がありました。わき腹には、槍で刺された傷跡がありました。その傷跡を見せながら、重ねて「あなたがたに平和があるように」(20:21)と言われました。そして息を吹きかけて言われました。

「聖霊を受けなさい。」(20:22)

私たちは、日々新しく聖書の言葉に触れ、聖書の言葉に励まされて、その日その日を過ごしています。イエス・キリストは、「さあ、立て。ここから出かけよう」(14:31)と、弟子たちに呼びかけられました。「さあ、立て。ここから出かけよう。」

私たちも、このイエス・キリストの言葉を聞きながら、聖霊を受けて、力強くイエス様の弟子としての道を歩んでいきましょう。

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