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2023年3月12日説教「私に従いなさい」松本敏之牧師

ルカによる福音書9章18~27節

(1)日々、従う

本日は、日本基督教団の本日の聖書日課を読ませていただきました。ここは二つの段落から成っていますが、まず後半から見ていきましょう。ルカ福音書9章23節のところで、イエス・キリストは、こう言われています。

「私に付いて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を負って、私に従いなさい。」ルカ9:23

これとほとんど同じ言葉が、マルコ福音書(8:34)にも、マタイ福音書(16:24)にも出てくるのですが、ルカだけが書いていること、ルカ福音書に特徴的なのは、「日々」という言葉が入っていることです。「日々、自分の十字架を負って、私に従いなさい。」

「自分の十字架を負って従う」とはどういうことなのか、いろいろな解釈があるでしょうが、ルカは、「日々」という言葉によって、私たちの献身というものが特別なこと、あるいは一生に一回だけのことではなくて、毎日の生活の中で自分を捧げていくことだと強調しようとしたのではないでしょうか。

(2)天野朝子さんの信仰

本日は、午後1時から、鹿児島加治屋町教会の会員であった天野朝子さんの納骨式が、平川の教会墓地で行われます。天野さんは、今から3年余り前、2019年12月29日に、99歳9カ月で、フィリピンのダバオで召天された方でした。数か月後に、鹿児島加治屋町教会の墓地に納骨される予定でしたが、コロナ禍に入り、ご家族が来日できなくなり、3年間延期となって本日の納骨となった次第です。

天野朝子さんは2012年に、ご子息天野洋一さんが住んでおられたフィリピンに移り住み、フィリピンで晩年を過ごされましたが、それまで鹿児島加治屋町教会の中心的メンバーで、誰もが尊敬する方でありました。私は、2015年に鹿児島に来ましたので、生前の天野朝子さんとお会いしたことはありませんが、天野さんのすばらしい信仰や人を思いやる気持ち、また率先してリーダーシップを取って行動される姿に励まされてきたことを、多くの方々から伺ってきました。まさに信仰者の鏡、教会の方々のよき模範であったのだろうと思います。

それは、「日々、自分の十字架を負って、私に従いなさい」というイエス・キリストの招き、召しに応える歩みであったのだろうと思います。天野朝子さんが、愛唱賛美歌として、原簿に最初に掲げられていたのは、「主よ、終わりまで仕えまつらん、みそばはなれず おらせたまえ」という賛美歌でした。以前の『讃美歌第一編』338番です。この賛美歌の4節は、こういう言葉です。

「主よ、今ここに ちかいをたて  しもべとなりて つかえまつる  世にあるかぎり このこころを  つねにかわらず もたせたまえ」

そしてその誓いの通りの生涯を全うされたのだと思います。

先ほど申し上げたように、私は天野さんとお会いしたことはありませんが、教会から月に一度か2カ月に一度、週報や月報の「からしだね」等をお送りすると、いつも教会にお電話をくださいました。私も時々、電話でお話をさせていただきました。そのように日本の親しい方々に電話をすることが晩年の楽しみの一つであったようでした。

(3)自己保身的ではなく

さて聖書に戻りますが、イエス・キリストは、続けて、こうも言われました。24節。

「自分の命を救おうと思う者はそれを失い、私のために命を失う者はそれを救うのである。」ルカ9:24

謎かけのような少し難しい言葉に聞こえますが、要は、「自己中心の考え方や生活は危険だ。そこから逃れよ」ということではないでしょうか。これは真理であると思います。

「自分のことばかり考えていると、それを失い、神様のため(あるいは人のため)に自分の命を差し出すと、それを得る」というのです。これは、ある種の逆説と言えるでしょう。

私たちは、毎日の生活を形成していかなければなりません。そのためには、どうしても自分の生活を支えるために働かなければなりません。しかし、自己中心的な生活や社会のシステムは、結局のところ自己保身的であり、内向きです。みんながそのように自己中心的、保身的に考えるようになれば、ものの見方が狭くなってしまい、もう一つ大きなところで社会が壊れていくのを止めることができない。結局、そのような小さな自己保身的な考え方は大きなところでの崩壊を招いていき、そして結局のところ、自分自身の命を失わせることになっていく。そういう警告でもあるように思います。

むしろ社会に奉仕し、社会に貢献していくことによって、別のことが見えてくる、自分の生きる意義も見えてくるのではないでしょうか。

これも天野朝子さんの生き方に通じるところがあるように思います。天野さんが原簿に記されたもう一つの愛唱賛美歌は「むくいをのぞまで」という賛美歌でした。

「1 むくいをのぞまで 人に与えよ、
   こは主のとうとき みむねならずや、
   水の上(え)に落ちて 流れしたねも、
   いずこの岸にか 生いたつものを。
 2 浅きこころもて ことをはからず、
   みむねのまにまに ひたすら励め
   風に折られしと 見えし若木の、
   思わぬ木陰に 人をも宿さん。」『讃美歌第一編』536

ちなみに天野朝子さんは好きな聖句のひとつとして、マタイ25章40節を掲げておられました。それは次の言葉です。

「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」マタイ25:40

ここにも、困っている人を助ける、人に奉仕する、という姿勢がよく表れているのではないでしょうか。

(4)イエスとは誰か

さて今日のテキストの前半に帰りましょう。私たちに与えられたテキストは、このように始まります。18節です。

「イエスが独りで祈っておられたとき、弟子たちが御もとに集まって来た。そこでイエスは、『群衆は、私のことを何者だと言っているか』とお尋ねになった。」ルカ9:18

「イエスとは、一体誰か」という問いは、実は、この箇所の前のところから、形を変えて問われ続けていることでした。8章22節以下に、イエス・キリストと弟子たちが、ガリラヤ湖を舟で向こう岸へ渡ろうとしていたときのことが記されています。突風が湖に吹きおろしてきました。弟子たちは水をかぶり、恐ろしくなりましたが、主イエスはすやすやと眠っておられました。弟子たちが主イエスに助けを求めると、主イエスは風と荒波をお叱りになると、静まって凪になったというのです。そのとき、弟子たちは恐れ驚いて、こう言いました。

「一体、この方はどなたなのだろう。命じれば風も水も従うではないか』と互いに言った。」ルカ8:25

また9章9節では、領主ヘロデが問うています。ヘロデは、イエス・キリストがなされた不思議な出来事と人々の噂を耳にしたのでした。

「ヨハネなら、私が首をはねた。では、耳に入って来るこの噂の主は、一体、何者だろう。」ルカ9:9

「イエスとは誰か」という問いです。そして今、イエス・キリスト自身がこの問いを取り上げ、弟子たちが人々の見解を紹介するのです。

「洗礼者ヨハネだと言う人、エリヤだと言う人、ほかに、昔の預言者の一人が生き返ったと言う人もいます。」ルカ9:19

それらをひと言で言えば、「メシアの先駆け」だということになるでしょう。メシアについては、後で説明します。人々はメシアの時が来るという希望をもっていました。しかしそれらの人々の言葉に共通することは、「イエスはメシアではなく、メシアの先駆けであろう」ということです。

(5)神のメシア

それに対して、主イエスは、突っ込んで問われます。

「それでは、あなたがたは私を何者だと言うのか。」ルカ9:20

ペトロは、こう答えました。

「神のメシアです。」ルカ9:20

「メシア」という言葉は、「油注がれた者」という意味です(ヘブライ語ではマーシーア)。それをギリシア語にしたものが「クリストス」、つまり「キリスト」です。少し言い換えて、「救い主」と言ってもよいかもしれません。この問答も、他の福音書にはない、ルカだけが記していることがあります(マタイ16:16、マルコ8:29参照)。それは、「神の」という言葉がついていることです。「神のメシアです」。新共同訳聖書では、「神からのメシアです」と訳されていました。  これは、イエス・キリストという方は、「メシアの先駆け」を超えて、「神から直接メシアとして遣わされた方である」ということが強調されているのではないでしょうか。  「イエスとは誰か」という問いは、ここでの弟子たちや当時の人々だけの問題ではなく、今日の私たちまで続いている大きな問いであります。「イエスとは誰か」という問いに答えるのがキリスト教という宗教であると言ってもよいほどです。  イエス・キリストが偉大な預言者である、あるいは預言者的リーダーである、というのは、クリスチャンでなくても多くの人が認めることでしょう。預言者というのは、真理を指し示す人、あるいは真理である方を指し示す人です。ところが新約聖書によれば、真理を指し示すイエス・キリスト自身が、同時に、真理として指し示される方であるというのです。ヨハネ福音書14章6節のイエス・キリストの言葉がそれをよく表しています。

「私は道であり、真理であり、命である。」ヨハネ14:6

ここでシモン・ペトロも、「この方こそが私たちを救う力を持った方であり、神から遣わされた方である。」というふうに、そのことを正面から、イエス・キリストに答えたのでした。

(6)苦しむメシア

それを受けて、イエス・キリストは誰にも話さないようにと命じながら、次のように語られます。

「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」ルカ9:22

これは苦しむメシア(救い主)です。人々が思い描き、待ち望んできたメシアは、そうではないでしょう。もっと強いメシアです。しかしここで示された姿は、何と弱々しく敗北的でしょうか。弟子たちもそれを聞いた時は一体、どうしてそんなことを言われるのか、わからなかったでしょう(マタイ16:22等参照)。

しかしながら、そういうお方として私たちの世界に来られたからこそ、実はもっと深い意味で、一人ひとりの心に届く、そして一人ひとりを救うことができるメシアであることが明らかになっていくのです。

イエス・キリストは、「私に付いて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を負って、私に従いなさい」と言われましたが、主イエスご自身、ご自分の十字架を負っていかれました。今日は読みませんでしたが、本日の旧約聖書の日課は、イザヤ書63章7節以下でありました。その中の8節以下に、次の言葉があります。

「主は言われた、 彼らは確かに私の民、偽りのない子らであると。 そして主は彼らの救い主となられた。 彼らが苦しむときはいつでも主は苦しまれた。」イザヤ書63:8~9

これを読むと、はっとさせられます。私たちに「自分の十字架を負って、従いなさい」と言われるお方は、私たちに苦しみをお与えになる方ではなく、共に苦しまれる方、そして私の十字架を共に負ってくださる方であります。

(7)共苦のイエス・キリスト

昨日、3月11日は、東日本大震災から12年目の日でありました。多くの場所で記念式典が行われ、午後2時46分には多くの所では黙祷が捧げられました。あの東日本大震災の折に、「神は果たして存在するのか」ということが改めて問われました。「神様がおられるのなら、どうしてこんな悲惨な出来事が起きるのか。やはり神様などいないのではないか。」という問いでした。

それに対して、キリスト者はどう答えたか。明確な答えはありません。当時のローマ教皇、ベネディクト16世も「日本の子どもたちはどうしてこんな苦しい目にあわなければならないのか」という子どもの問いかけに対して、「私もわからない」というようなことを言っていました。無責任な答よりは、ずっと誠実だと思いました。そうした苦しい状況の中で、ひとつの答えは、「神も共に苦しんでおられる」ということです。そして「イエス・キリストは、まさにそこで十字架にかかっておられるのだ」と言われました。そして十字架の意味としては、贖罪(私たちの罪を贖ってくださる)ということが強調されますが、それだけではなく、それと共に、「共苦」(共に苦しまれる)という意味が十字架にはあるということを、東日本大震災の折に、改めて教えられました。

先のイザヤ書63章8節に、「彼らが苦しむときはいつでも主は苦しまれた」とあります。神のメシアであるイエス・キリストも、共に苦しむメシアです。私たちが自分の十字架を負おうとする時、あるいは否応なく負わされる時、イエス・キリストも、共にその十字架を負ってくださるのです。

それだけではありません。私たちをも背負い、担ってくださる。その大きな御手によって、私たち自身が支えられているのです。だからこそ、安心して、私たちも、日々、自分の十字架を負うことができるのではないでしょうか。

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