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2020年7月26日説教「神の国へのサウダージ」松本敏之牧師

神の国へのサウダージ

ヨハネによる福音書16章16~24節

(1)先の先まで

ヨハネ福音書を月に一度くらいのペースで続けて読み進めてきました。しばらく中断して教団の聖書日課の箇所を読んできましたが、今日は、元来の続きの箇所に戻って、ヨハネ福音書の16章の16節以下をテキストとしました。これはイエス・キリストの別れの説教と呼ばれる長い部分の終わり近くの言葉です。
イエス・キリストは、この別れの説教において、弟子たちに慰めと励ましの言葉を残そうとしておられるのがよくわかります。今日の箇所はこういう言葉で始まります。「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる」(16節)。
弟子たちは、イエス・キリストの言葉と態度に、何かしら、いつもと違うただならぬものを感じ取っています。はりつめた空気が漂っています。しかし、その言葉の真意を悟ることはできません。この時になっても、まだイエス・キリストが次の日に十字架にかかって死なれるということを、誰も信じることができなかったのでしょう。
弟子たちは互いに、言い合いました。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』とか、『父のもとに行く』とか言っておられるのは、何のことだろう」。また言った、「『しばらくすると』と言っておられるのは、何のことだろう。何を話しておられるのか分からない」(17~18節)。
この時、弟子たちは不安と恐れのただ中にありました。まだ悲しみはそれほど感じていないかも知れません。主イエスがまだ目の前におられる訳ですから。しかし、主イエスは彼らの悲しみを先取りして、しかもその悲しみは一時的なものだと言って慰め、その先には喜びが待っていると告げられるのです。「しばらくすると」という言葉が2回出てきます。これから「しばらくすると」自分はいなくなる。しかしまた「しばらくすると」帰ってくる。イエス・キリストは、二つ先まで読んでおられるのです。三度目、同じ言葉が出てきます。
「イエスは、彼らが尋ねたがっているのを知って言われた。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』とわたしが言ったことについて、論じ合っているのか。はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる」(19~20節)。

(2)苦しみは喜びに

「しばらくすると」は、原語のギリシャ語では、ミクロンという言葉です。ミクロンとは、現代では1ミリの1000分の1を指す単位です。ミクロの世界という言葉もあります。目に見えない小さな世界です。それほど小さな間、というニュアンスでしょう。
時間の感覚は、主観的なものです。「しばらく」というのも、それがどれくらいの長さなのかは、状況次第です。同じ時間でも、楽しい時間はあっという間に過ぎますが、苦しい時間は、言いようもなく長く感じたりします。
「テレビドラマの25分はあっという間なのに、説教の25分はなんでこんなに長いのか」と感じている人もあるかも知れません。逆ならいいですけど。まあそういうことは滅多にないでしょう。
20節、「はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。」少しとばして、22節「わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。」
この時、弟子たちは不安と恐れのただ中にありました。ただ主イエスはまだ目の前におられる訳ですから、苦しみはそれほど感じていないかもしれません。しかし、主イエスは彼らの苦しみを先取りして、その苦しみは一時的なものだと言って慰め、その先には喜びが待っていると告げられるのです。

(3)サウダージ

私はこの箇所を読みながら、ポルトガル語のサウダージ(Saudade)という言葉を思い起こしました。「サウダージ」は、ポルトガル語の中で最も美しい言葉であると言われます。他国語に訳すのが難しいのですが、一般的には、「ノスタルジア」、「郷愁」と訳されます。
サウダージとは、「本来そこにあるべきものが欠けている状態において、それを熱く求める気持ち」と言えばよいでしょうか。「どこそこへ行きたい。でも行けない」「何々が欲しい。でも手に入らない。」「誰それに会いたい。でも会えない。」そうした熱い思いです。単なる過去への郷愁ではありません。
私は、約8年間ブラジルで宣教師として働きましたが、前半の4年間は一度も日本に帰りませんでした。最初のうちは平気でしたが、3年を超えたあたりから、無性に日本へのサウダージが強くなりました。急に日本の夢を見るようになりました。何でもないことですが、「日本の本屋を一日中うろうろ歩いてみたいなあ」などと思いました。
昔、ブラジルへやってきた日本人たちがそうしたサウダージを強くもったことが、何となくわかりました。サンパウロの教会員の一人は、「空港へやってきては、『あの飛行機に乗れば日本へ帰れるのだなあ』と考えた」と言っておられました。今は逆に、私の中でブラジルへのサウダージが突然、膨れ上がることがあります。

(4)「イエス・キリスト、世界の希望」

ブラジルには、このサウダージをモチーフにした「イエス・キリスト、世界の希望」(Jesus Cristo, Esperança do Mundo)という美しい賛美歌があります。ブラジル・ルーテル教会の S. Meincke, E. Reinhardt, J. Gottinari という3人によって作られたもので、この曲の歌詞の3番、4番、5番には、サウダージという言葉が冒頭に出てきます。直訳すると、次のようになります。

1 現在の少し向こうで
未来は喜びをもって告げる
夜の影は去り、新しき良き日の光が射すと
(繰り返し)
御国が来ますように、主よ
命の祝宴が再び開かれる
私たちの期待と熱意は大きな喜びに変わる

2 希望のつぼみは開く
咲こうとする花の予感
豊かな生命をもたらすあなたの臨在の約束

3 邪悪のない世界、蝶の羽と花の
楽園(エデン)へのサウダージ
憎しみも痛みもない世界
平和と正義と兄弟愛へのサウダージ

4 争いのない世界へのサウダージ
平和と純潔への願い
武器もなく死も暴力もなく
体と体、手と手が出会う

5 支配者のいない世界へのサウダージ
そこには強者も弱者もいない
宮殿とバラック小屋を生み出すシステムが
すべて崩壊する

6 私たちは今すでに貴重な種
御国の保証をもっている
未来が現在を照らし出す
あなたは来る。決して遅れることはない

この「サウダージ」は、単に過去への郷愁ではありません。エデンの園を思い起こしつつ、神の国が実現しますようにという「熱い思い」が歌われているのです。
ブラジルは大変な貧富の差のある国です。サンパウロのような大都会では、極端に偏った富と極端な貧しさが隣り合わせになっているため、治安の悪さなど多くの深刻な社会問題を引き起こしています。ブラジルなど南米から、「神は貧しい人を優先される」という「解放の神学」が生まれてきたのは、きわめて自然なことであり、ある意味で当然のことでした。この賛美歌も、その「解放の神学」のメッセージを歌った賛美歌だと言えるでしょう。
私はこの賛美歌の日本語歌詞を作ってみました。残念ながら「サウダージ」という言葉は入れられませんでしたが、この後、一緒に歌うことにしています。
弟子たちに向かって、主イエスは「一時は、あなたがたを苦しめる者が勝ち誇ったように喜ぶことになるが、それがずっと続くわけではない。やがてそれは過ぎ去る。やがて覆されることになる」と告げられました。
私たちに対しても、今の試練、苦しみが取り去られ、必ず喜びの日がやってくるという約束が与えられているのです。


〈イエス・キリスト、世界の希望〉

(Jesus Cristo, Esperança do Mundo)
日本語歌詞:松本敏之


今の時をこえて  未来は告げている
夜の闇は去りて  明るい日が来ると

御国よ、来ませ  命が踊り出す
私たちの夢は   喜びに変わる


つぼみが花となる 徴であるように
キリストは未来の 喜びのしるし


憎しみもねたみも 争いもない国
真実と正義と   愛に満ちた世界


抑圧と力が    支配する世界は
主が来られる時に すべてが崩れ去る


共に手をたずさえ 共に抱きしめ合い
誰も排除されず  誰ももう泣かない


未来から光が   今ここに差し込み
神の国の種が   大地から芽を出す

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