1. HOME
  2. ブログ
  3. 2020年9月27日説教「弁解」松本敏之牧師

2020年9月27日説教「弁解」松本敏之牧師

弁 解

出エジプト記による説教(6)
出エジプト記4章10~13節、ルカによる福音書9章57~62節

(1)第一、第二の抗弁

月に一度くらいのペースで出エジプト記を読み進めていましたが、新型コロナウイルス対応で、長い説教を避けるために、しばらく休んでいました。今日は3か月ぶりくらいに、出エジプト記で説教をいたします。先ほどは聖書朗読が長くなるのを避けるために、4章10節からお読みいただきましたが、4章1節からを本日のテキストといたします。
この前の出エジプト記第3章は、モーセの召命物語でありました。燃える柴の中から、神はモーセに語りかけ、次のように言われました。「今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ」(3:10)。しかしこの召しに対して、モーセは「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか」(3:11)と、抗弁をいたしました。これは第一の抗弁と言うべきもので、神様とモーセの対話はその後、今日読んでいただいた4章17節まで延々と続くのです。神は、モーセの第一の抗弁に対して、「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたたちはこの山で神に仕える」(3:12)と答えられました。
しかしモーセはまだ納得せず、神に尋ねます。「彼らに『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うに違いありません。彼らに何と答えるべきでしょうか」(3:13)。これは第二の抗弁と言ってもよいでしょう。それに対して、神様は「わたしはある。わたしはあるという者だ」とお答えになりました。この「神の名」については、すでに詳しく申し上げましたので、今日は繰り返しません。

(2)第三の抗弁

本日の第4章は、モーセがそれでもなお、抗弁するところから始まっています。いわば第三の抗弁であります。「それでも彼らは、『主がお前などに現れるはずがない』と言って、信用せず、わたしの言うことを聞かないでしょう」(1節)。このモーセの抗弁に対して、神様はもはや言葉で答えるよりも、もっとはっきりとしたしるしをお示しになります。神はモーセに、「あなたが手に持っているものは何か」と問い、モーセが「杖です」と答えると、「それを地面に投げよ」と言われました。モーセが杖を地面に投げると、杖はへびに変わりました。そして今度は「しっぽをつかめ」と言われて、しっぽをつかむと、蛇は杖に戻りました。さらに神は、今度はモーセに「ふところに手を入れてみよ」と言われました。モーセがふところに手を入れて、出してみると、手は真っ白になって、「重い皮膚病」にかかっていました。そして言われるまま、もう一度ふところに手を入れて出してみると、今度は元通りの手になっていたというのです。
さらにこう言われました。「しかし、この二つのしるしのどちらも信ぜず、またあなたの言うことも聞かないならば、ナイル川の水をくんできて乾いた地面にまくがよい。川からくんできた水は地面で血に変わるであろう」(9節)。これらがモーセの第三の抗弁に対する神様の答えでありました。

(3)第四の抗弁、モーセの本音く

しかしそれでもなお、モーセは抗弁を続けるのです。「ああ、主よ。わたしはもともと弁が立つ方ではありません。あなたが僕にお言葉をかけてくださった今でもやはりそうなのです。全くわたしは口が重く、舌の重い者なのです」(10節)。第二、第三の抗弁は、「イスラエルの民の方が自分を信用しないだろう」という内容でしたが、この第四の抗弁では、モーセは自分自身の資質を問題にしています。これは第一の抗弁で、「わたしは何者でしょう」と述べたことに通じるものでしょう。「全くわたしは口が重く、舌の重い者なのです」。この言葉を聞いて、神はやや怒り気味にこう言うのです。
「一体、誰が人間に口を与えたのか。一体、誰が口を利けないようにし、耳を聞こえないようにし、目を見えるようにし、また見えなくするのか。主なるわたしではないか。さあ、行くがよい。このわたしがあなたの口と共にあって、あなたが語るべきことを教えよう」(11~12節)。
「人間の口も、目も耳も、それらすべてを司っているのは、それを創ったわたしだ。そのわたしが『行け』と言っているのだから、何も心配することはないのだ。」本当に力強い言葉です。あれだけのしるしを見せてもらい、その力を持った方からこれだけの力強い言葉をいただいたのです。普通であれば、もうこの辺で「わかりました。あなたの熱意に負けました」と、観念するものでしょう。
これは、いわば第五の抗弁ですが、抗弁にすらなっていません。モーセの本音の吐露です。本当は行きたくないので、行かなくてもいい理由を、一生懸命見つけて、断ろうとしていたということが、この言葉からわかるのです。神様も、とうとうここで堪忍袋の緒を切らします。
「主はついに、モーセに向かって怒りを発して言われました。『あなたにはレビ人アロンという兄弟がいるではないか。わたしは彼が雄弁なことを知っている』」(14節)。そのようにして、神様はモーセと共に、モーセより三歳年長の兄アロンを共に遣わすのです。
「彼によく話し、語るべき言葉を彼の口に託すがよい。わたしはあなたの口と共にあり、また彼の口と共にあって、あなたたちのなすべきことを教えよう。彼はあなたに代わって、民に語る。彼はあなたの口となり、あなたは彼に対して神の代わりとなる。あなたはこの杖を手にとって、しるしを行うがよい」(15~17節)。
これがモーセに語られた最後の言葉です。モーセはもうそれ以上何も語っていませんが、この続きを読んでみると、エジプトへ向かう決心をしたことがわかるのです。

(4)主イエスに従う

この神様とモーセのやりとりについて、まずモーセの側、つまり人間の側から、続いて神様の側から、少し考えてみたいと思います。
まず人間の側から言えば、私たちは神様からの召しを断ろうと思えば、いろいろと理由をあげることはできる。いつだって断る何らかの理由を持っている、ということです。
先ほど読んでいただいた主イエスが弟子を召される物語を思い起こします(ルカ9:57~62)。最初に自分の方から主イエスに従いたいと申し出た人との対話がありますが、その後の二人は、主イエスの方から「わたしに従いなさい」と呼びかけられたのを断ったというエピソードです。
この後半の二人のうちの一人目は、主イエスの呼びかけに対して「まず、父を葬りに行かせてください」(59節)と言いました。これは、もっともなことのように思えます。子どもが親を葬るというのは、古今東西を問わず、誰しもが大切にすることでしょう。日本でも身内の葬儀ともなれば、すべてを中断してそれを優先するものです。二人目は、こう言いました。「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください」(61節)。これも気持ちはよくわかります。
しかしこの二つのケースは、つまり父の葬り、家族へのいとまごい、それらは、実は私たちの想像以上に時間のかかることでありました。一瞬で終わることではない。一日や二日で終わることではないのです。父を葬るという営みは何か月もかけてすることであったようです。家族へのいとまごいも、どこでもってよしとするか、どこで未練を断ち切るかは、なかなか線が引けません。「もう少し先にしよう、いや来年にしよう」ということになってしまいがちです。「ちょっと家に帰って挨拶をして、すぐ帰ってきます」というようなわけにはいかないのです。

(5)「まず」

この二人の返事に共通する言葉があります。それは「まず」という言葉です。彼らは、主イエスに従うことよりも、「まず」他のこと、特にこの世の生活において大事とされていることを優先させたのです。イエス・キリストは、あるいは福音書記者はあえて、この世の価値観において最も大事とされているようなケースと、主イエスに従うことを、対比させたのでしょう。
この「まず」という言葉で、私は、主イエスが語られた別の「まず」を思い起こしました。それは「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」(マタイ6:33)という言葉です。主イエスは、この言葉に続けて、「そうすれば、これらのもの(必要なもの)はみな加えて与えられる」と言われました。私たちは、この世の生活を営んでいく限り、大切にしなければならないことがあります。人とのおつきあいがあります。仕事の面で優先しなければならないこともあります。家族を養わなければなりません。子どもを育てなければなりません。年老いた両親の面倒をみなければなりません。不安もあります。しかしそうしたさまざまなの「しなければならないこと」に取り囲まれた生活の中で、究極のところ一体何を優先するのかということが問われるのです。
主イエスは、私たちのがんじがらめのような生活をすべてご存じの上で、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」と言われたのではないでしょうか。そして「明日のことを思い悩むな。必要なものは、みな加えて与えられる」と、約束されたのではなかったでしょうか。さまざまな問題がすべて解決してから、主に従おうとするならば、私たちはいつまで経っても従うことができないでしょう。結局それで一生を終えてしまうことになりかねません。要は、そこで何を優先するか、「まず」何をすべきかということです。主の召しを受けたとき、今、主が自分を召されたと実感したとき、それが従う時なのです。そこで主に従う決心をする中で、他の事柄もそれなりに道がつけられていくのではないでしょうか。

(6)語る言葉は神が与えてくださる

またモーセが、人前で語る自信がなく、「全くわたしは口が重く、舌の重い者なのです」と言った時、神様はどうなさったでしょうか。神様はこう言われます。「一体、だれが人間に口を与えたのか。一体、誰が口を利けないようにし、耳を聞こえないようにし、目を見えるようにし、また見えなくするのか、このわたしではないか。さあ、行くがよい。このわたしがあなたの口と共にあって、あなたが語るべきことを教えよう」(12節)。
語る本当の主体は神様であって、モーセはそれを民に伝える器です。だから安心して、与えられた言葉、教えられた言葉を語ればよいということです。極力、モーセの心配を取り除いてやろうという神様の配慮がうかがえます。このことも、主イエスが弟子たちを派遣する時に語られた言葉をほうふつとさせます。イエス・キリストもこう言われました。
「引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる。実は話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である」(マタイ10:19~20)。

(7)限界のある人間をそのまま用いる神

さて、この神とモーセのやりとりを神様の側から見てみると、どうでしょうか。神様は何と忍耐深い方なのかと思います。モーセの抗弁、弁解は、ほとんど一貫性がなく、脈絡がありません。論理的でもありません。次々に思いついたことを、神様に訴えている感じがします。しかしそのようなモーセの言葉に対して、神様の方はひとつひとつ丁寧に、本気で真剣に答えておられます。
興味深く思うのは、モーセが「わたしは口が重く、舌の重い者なのです」と言った時の神様の対応の仕方です。神様は、「口が重く、舌の重い」モーセを、そのまま用いられるのです。決して「雄弁な人間にしてあげよう」とおっしゃってはいない。モーセの「口の重さ」(訥弁)を直すのではなく、つまりその障害とも言えることを取り除くのではないのです。限界のある人間としてそのまま用いられる。
神様はご自分の計画を進めるため、実現するために、完璧な人間、能力の高い人間、欠けの少ない人間を用いられるわけではない。欠けは欠けのままで、障害は障害のままで、むしろそれを大事な個性として用いられるのです。そのことは、私たちにとって大きな励ましではないでしょうか。
では実際にはどうされるのか。具体的に二つのことが示されます。一つは、先ほども少し述べましたが、それを超えて働く神の全能を示されました。人間の口、人間の耳、人間の目をつかさどるのは、神であるということ。そしてその神ご自身が共におられるということです。これ以上の励ましはありません。神の全能の力は、人間の限界を超えて働くことができる。「人間にできることではないが、神は何でもできる」(マタイ19:26)と、イエス・キリストが語られたとおりです。私たちの能力が高められたとしても、あるいは障害が取り除かれたとしても、限界はあるでしょう。それよりも全能の神が共にいてくださることが示されるほうが力強いのではないでしょうか。
第二は、その弱点を補ってくれる人が助け手として備えられるということです。モーセの場合で言えば、兄のアロンでありました。アロンは雄弁でありました。しかも今、向こうからモーセに会いに来ようとしている。神様はそういう人間を備えられるのです。誤解してはならないのは、モーセがあまりにも頑ななので、神様は怒ってモーセを退けて、代わりに兄のアロンを立てられたということではないということです。指導者として立てられたのはあくまでモーセです。モーセが十分にその使命を果たすことができるように、モーセが安心して、あるいは否が応でも納得して、それを引き受ける決心をすることができるように、環境を整えられるのです。
別の言葉で言えば、神様の側から言えば、神様は人間の頑なさによって、挫折なさることはない。計画を取りやめられることはない。部分的に人間に譲歩しながら、その計画を大きなところでは、当初の予定通り進められるのです。この後の物語の展開を少し見てみると、最初はアロンが語っているのですが、その後のファラオとのやり取りや、イスラエルの民とのやり取りを見ると、モーセ自身が語っているのです。ですから、ここで「アロンがいるではないか」と言われたことは、必ずしもこれから先は、ずっとアロンが語るということを意味してはいない。このとき、モーセが引き受ける決心ができるように、「アロンがいるではないか」と言って、モーセを押し出されたということなのでしょう。
ここでモーセに示されたこと、そのひとつひとつの答えが、今日を生きる私たちにとって、非常に意味深いものです。神様はモーセを召そうとされた時と同じように、今私たちを召そうとしておられるのではないでしょうか。「召される」ということは、単に伝道者になるということだけではありません。クリスチャンとして生きるということは、キリストの弟子として生きる決心をするということであり、多かれ少なかれ、同じような困難を伴ってくるものでありましょう。しかし神が解決してくださいます。私たち一人一人が、そのような神の召しを、自分に語られた言葉として逃げずに受けとめていきたいと思います。

関連記事