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2024年4月28日説教「同 行」松本敏之牧師

出エジプト記33章12~17節
ローマの信徒への手紙8章35~39節

(1)「私自身は、一緒に行かない」

私たちは、月に一度くらいのペースで出エジプト記を読み進んでおります。前回(4月7日)は、出エジプト記32章を読み、モーセの命がけのとりなしの話をいたしました。本日の33章でも、モーセの神様へのとりなし、モーセと神様の対話が続いています。33章は、このように始まります。

「主はモーセに告げられた。『さあ、あなたも、あなたがエジプトの地から導き上った民も、私がアブラハム、イサク、ヤコブに誓って、『あなたの子孫に与える』と言った地に、ここから上っていきなさい。私は、あなたに先立って使いを差し向け、カナン人、アモリ人、ヘト人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人を追い出す。乳と蜜の流れる地に上りなさい。しかし私は、あなたの間にいて一緒に上ることはない。私が途中であなたを滅ぼすことのないためである。あなたはかたくなな民であるから。』」33:1~3

いかがでしょうか。微妙な言い回しです。ここでは三つのことが語られています。一つ目は、「約束の地に向けて出発しなさい」ということ。二つ目は、「あなたに先立って使いを送る」ということ。三つ目は、「しかし私自身は、一緒に行かない」ということです。一緒に行かない理由は、「あなたを滅ぼさないため」というのです。無事に旅を全うさせるための配慮でしょうか。神は「さあ行きなさい」と言いながら、「自分は一緒に行かない」というのですから、突き放したような言葉です。イスラエルの人々は、これを悪い知らせと受け止めました。彼らは、金の子牛を造った裁きは免れましたが、同時に、「神が共に行かれる」という守りからもはずされてしまったのです。

「民はこの悪い知らせを聞いて嘆き悲しみ、一人として飾りを身に着けなかった。」33:4

飾り物を身に付けない、ということは、悔い改めのしるしでありました。この後、主はモーセに、「今すぐ、あなたの飾りを体から外しなさい。そうすれば、私はあなたのために何をすべきか考えよう」(33:5)と言われますが、それを先取りしているのでしょうか。

(2)友と語るように

モーセは、次に、宿営(キャンプ地)の外、遠く離れた所に、一つの天幕をはって、「会見の幕屋」と名づけました(33:7)。これは、さきに細かい指示を受けた、あの本格的な幕屋ではありません(25~31章参照)。臨時の簡単なものです。モーセが神様と会い、神様と話すための場所です。宿営の外にそれを置く。

この後のイスラエルの歴史を見ていきますと、宿営の外というのは汚れた所、神様の祝福、守りからはずれた所という意味合いをもってくるのですが、この時は逆です。宿営そのもの、イスラエルの民そのものが汚れ、罪に満ちているから、神様はその外でモーセとお会いになるというのです。

モーセがその会見の幕屋に行く時、イスラエルの民は皆立ち上がって、それを見送りました。モーセが幕屋に入ると、雲の柱が降りてきて幕屋の入り口で、それが止まりました。神様が来られたことの徴です。それを見ながらイスラエルの民は、それぞれ自分の天幕(テント)の入り口で礼拝をしました。彼らは彼らで、できる限りの誠実さを示そうとしたのです。 主なる神様はモーセと、その会見の幕屋の中でお会いになります。

「主は、人がその友と語るように、顔と顔を合わせてモーセに語られた。」33:11

これは本来、ありえないことでした。神様が人間に語られる時、人間は決して神様の顔を見てはいけない。汚れた者は、神様のきよさのゆえに死ぬ、と言われていました。

この33章の終わりの部分でも(別の文脈ではありますが)、神様はモーセに対して、「あなたは私の顔を見ることはできない」(33:20)とおっしゃっています。これが本来の関係です。ところが、この会見の幕屋の中では、神様はモーセと、顔と顔とを合わせて語られたというのです、友のようにして。確かに、この後、モーセと神様は、より突っ込んだ話をします。そして食い下がるモーセの願いを神様が聞き届けられるのです。そこで、神様はモーセを対等な交渉相手、パートナーとして見ておられるようです。これは非常に興味深いことです。

新約聖書の中でも、イエス・キリストが弟子たちのことを友と呼ばれたことがありました。

「私の命じることを行うならば、あなたがたは私の友である。私はもはや、あなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人のしていることを知らないからである。私はあなたがたを友と呼んだ。」ヨハネ15:14~15

これも本来は、ありえないことでした。主人の方から僕であるはずの者に向かって、そう言われたからこそ、実現したことです。それを髣髴とさせるような言葉が、神様の口からモーセに向かって語られたのです。

(3)モーセの願いを超える答え

それで、モーセは二つのことを神様に願い出ました。

「あなたは私に、『この民を導き上れ』と仰せになりました。しかし、私と共に遣わされる者は示されていません。」33:12

さらにモーセは続けます。

「しかもあなたは『私はあなたを名指しで選んだ。あなたは私の目に適う』と仰せになりました。もしあなたの目に適うのなら、どうか今、あなたを知ることができるように、私にあなたの道をお示しください。」(33:13

ところが神様は、このモーセの二つの願い(「遣わされる者を示してください」と「神様の道を示してください」)に、直接、答えようとはなさらず、より深い次元の答えをされるのです。しかしこれこそが実は、モーセが一番欲しかった答えであります。

「私自身が共に歩み、あなたに安息を与える。」33:14

神様ご自身が「自分は一緒に行かない」と言われていたから、モーセはそれを求めることはできなかったのでしょう。しかし、神様はモーセの深い求めがどこにあるのかを察知して、「私自身が同行しよう」とおっしゃったのです。

(4)モーセの召命の時

以前にもこれと似たようなことがありました。それは、最初にモーセが召し出された時でした。モーセは、ミデアンの地にひっそりと妻と子どもと一緒に過ごしていましたが、そのモーセに向かって、神様はこう呼びかけられました。

「さあ行け。私はあなたをファラオのもとに遣わす。私の民、イスラエルの人々をエジプトから連れ出しなさい。」出3:10

この召し出しに対して、モーセはこう問いかけました。

「私は何者なのでしょう。この私が本当にファラオのもとに行くのですか。私がイスラエルの人々を本当にエジプトから導き出すのですか。」出3:11

モーセの「私は何者なのでしょう」という言葉には、「私はそんな大それた人間ではありません」という思いと、モーセのアイデンティティー・クライシスが表れています。モーセは、生まれから言えばイスラエル人、育ちから言えば、エジプトの王女の息子であったので、二つの相いれないアイデンティティーを抱えもっていたのでした。

しかし、神様はこのモーセの「私は何者なのでしょう」という問いにはお答えにはならず、少しはずれた答えをされた。それは「私はあなたと共にいる。これが、私があなたを遣わすしるしである」(出3:12)という言葉でした。モーセは自分の資質を問うたのですが、実はモーセが誰であるか、どんな人物であるかということは、関係がない。大事なことは、神様が共にいてくださるということです。だから「私は何者なのでしょう」という問いに対して、「私はあなたと共にいる」と答えられたのでした。神様の約束こそがモーセがリーダーであることを示すものでありました。

今日の33章でも、モーセの「遣わされる者を示してください」「道を示してください」という言葉に答えるよりも、それらすべてを超える答え、「私自身が同行し、あなたに安息を与える」とおっしゃった。これは深い御言葉であると思います。

(5)モーセの必死の願い

モーセは、この神様の答えを聞き逃したのでしょうか。まさかそんなことはあるまいと思ったのでしょうか。あるいは、それを確認しようとしたのでしょうか。もっとはっきりと、神様の同行を願い出ます。

「あなた自身が共に歩んでくださらないのなら、私たちをここから上らせないでください。」33:15

あなたが来てくださるかどうか、これこそが最も大事なことです。モーセは、自分が召しだされた時のことを思い起こしていたかも知れません。「私はあなたと共にいる。これが、私があなたを遣わすしるしである。」

「神様、あの約束はどうなってしまうのでしょう。私は、あなたが共にいてくださるからこそ、そしてあなたがそうおっしゃったからこそ、今日までやってこられました。それなのに、あなたは、『ここから先は行かない。使いの者をやるから、お前がその使いと一緒にみんなを引っ張っていけ』とおっしゃるのでしょうか。あの約束は一体どうなってしまうのです。私には無理です。」モーセは続けます。

「私とあなたの民があなたの目に適っていることは、何によって分かるのでしょうか。あなたが私たちと共に歩んでくださることによってではありませんか。」33:16

モーセは、神様が「友と語るように」と語られたので、自分の最も願うこと、自分の民が最も必要なことを、率直に求めるのです。主なる神様は、モーセに答えられました。

「あなたの言ったそのことも行う。あなたは私の目に適い、私は名指しであなたを選んだのだから。」33:17

モーセのなりふりかまわぬ、必死のとりなしの祈りが聞き届けられたのです。

(6)神の主権

モーセはさらに言葉を重ねます。

「どうか、あなたの栄光を私にお示しください。」33:18

神様は答えられます。

「私は良いものすべてをあなたの前に通らせ、あなたの前で主の名によって宣言する。」33:19

「主」というのは、本来は「ヤハウェ」という名前であり、「私はある」という意味です。その名前をモーセに宣言されたのです。そしてこう語られました。

「私は恵もうとする者を恵み、憐れもうとする者を憐れむ。」出33:19

これはパウロも引用した有名な言葉、神様の主権を示す言葉です。パウロはローマの信徒への手紙9章で、この言葉を引用しています。少し訳が違いますが、こういう言葉になっています。

「私は憐れもうとする者を憐れみ、慈しもうとする者を慈しむ。」ローマ9:15

「誰に恵みを与えるかは私の自由だ。人間の側の功績などにはよらない」という神様の主権の宣言だと言ってもいいでしょう。

(7)イエス・キリストを待ち望む

このモーセの神様への問いかけ、必死の祈りは、イエス・キリストを待ち望む、いわばアドベントの祈りだと言ってもよいでしょう。

「あなた自身が共に歩んでくださらないのなら、私たちをここから上らせないでください。」モーセ自身の切実な祈りです。神様は、「あなたのこの願いも適えよう」とおっしゃった。この神様の約束は、クリスマスによって出来事となったと言えるのではないでしょうか。

「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」マタイ1:23

主の天使は、マリアの夫ヨセフにそのように告げました。インマヌエルとは、「神は私たちと共におられる」という意味です。どんな使いの者、預言者でもまだ足りない。神様ご自身が人と共に歩む。それはクリスマスによって実現するのです。私たちはその約束を心に留め、イエス・キリストが私たちと共におられることによってこそ、どんな困難をも乗り切ることができるのではないでしょうか。

パウロは言いました。

「どんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から私たちを引き離すことはできない。」ローマ8:39

その神様の愛が今、旧約聖書のはるか彼方から、イエス・キリストを待ち望むようにして、モーセの口から願われ、神様の口から約束として与えられているのです。

ここでモーセが祈ったような真摯な祈りを、神様はお聞き上げくださる。そしてそれによって、私たちの一人一人と、今日の教会があります。神様は名指しで呼ばれるお方です。モーセを名指しで呼ばれ、そのことのゆえにあなたの願いを聞き届けると言われました。

先ほどのヨハネ福音書15章で「私はあなたがたを友と呼んだ」と語られた直後に、こう語っておられます。

「あなたがたが私を選んだのではない。私があなたがたを選んだ。あなたがたが行って実を結び、その実が残るようにと、また、私の名によって願うなら、父が何でも与えてくださるようにと、私があなたがたを任命したのである。」ヨハネ15:16

私たちを一人一人選んで、名指しで呼ばれている。その呼び出しに答える時に、大きな祝福を与えてくださるのです。年度のはじめに深くそのことを心に刻み、この年度も歩んで行きましょう。

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