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2021年7月11日説教「共に生きる意志」松本敏之牧師

マタイによる福音書5章43~48節

(1)「教え」の多い福音書

鹿児島加治屋町教会独自の聖書日課は、先週からマタイ福音書にはいりました。先週の日曜日は、マタイ福音書の第一の特徴として、旧約聖書と深いつながりがあると申し上げました。つまり、マタイは、イエス・キリストこそユダヤの歴史において長く待ち望まれてきた救い主(メシア)であるということを、特にユダヤ人たちに向かって語っているということです。

さてマタイ福音書の第二の特徴は、「教え」が多いということです。その中でも特に重要なのは、5章から7章のいわゆる山上の説教です。

(2)山上の説教

このところ、5章から7章には、イエス・キリストのさまざまな教えがまとめられています。「山上の説教」という呼び名は、5章1~2節の言葉に基づいています。

「イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが御もとに来た。そこで、イエスは口を開き、彼らに教えられた。」(マタイ5:1~2)

そして7章の終わりまで、さまざまな教えがあります。最初にあるのは「心の貧しい人々は幸いである」という言葉に始まる8つの祝福です。その後、「あなたがたは地の塩である。あなたがたは世の光である」という有名な言葉が続きます。そして先週、取り上げた「私が来たのは律法や預言者を廃止するためではなく、完成するためだ」という言葉です。そこからさまざまな教えが続くのですが、その中には、主の祈りもあります。「空の鳥、野の花をよく見なさい」という言葉もあります。全部、見逃せない。全部大事です。その中の幾つかの教えはルカ福音書にも出てきます。それらは、先週、申し上げたように、マタイとルカが共通して知っていたQ資料に基づくのであろうと思います。

(3)ルカの「平地の説教」との対比

ちなみに、ルカ福音書では、マタイ福音書の「山上の説教」と対比し「平地の説教」と呼ばれています。ちょっと面白いので、見てみましょう。

ルカ福音書の6章17節をご覧ください。(聖書協会共同訳では、111頁です。)

「イエスは彼らと一緒に山から下りて、平地にお立ちになった。大勢の弟子とおびただしい民衆が、ユダヤ全土と、エルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方から、イエスの話を聞くため、また病気を治してもらうために来ていた。」(ルカ6:17~18)

この対比、とてもおもしろいと思いませんか。先週、マタイ福音書とルカ福音書の違いは、マタイは伝統志向で、ユダヤ教のことをよく知っている人々に向かって語り、ルカは未来志向で、ユダヤ人以外の人々、いわゆる異邦人に向けて、その人たちにも福音が開けていることを語ろうとしていると、申し上げました。その対比がここにもあらわれているのです。

マタイは、わざわざ山に登って、弟子たちに向かって、つまり選ばれた少数の人々に向かって語るという舞台設定です。それに対して、ルカのほうはわざわざ山から下りて、平地で説教なさっている。その話を聞く人も、一部の、いわばエリート級の弟子たちではなく、大勢の群衆です。その中には「ティルスやシドンの海岸地方」から来た人々もいました。そこは生粋のユダヤ人からすれば、異邦人の血が混じった汚れた地とも思われていた地方でした。内容を見ると共通したものもあるのですが、視点がやはり違います。

(4)隣人を愛する

今日は、その山上の説教の中から、5章43節以下の「敵を愛しなさい」という教えに耳を傾けていきましょう。

主イエスは、最初に、マタイ5章43節で、「隣人を愛し、敵を憎め」という当時言い伝えられていた言葉を引用しておられますが、実はこういう言葉は旧約聖書には出てきません。旧約聖書に出てくるのは、「隣人を愛しなさい」(レビ記19:18)という言葉です。しかしイスラエルの人々は、「隣人」という言葉を自分たちの民族同胞と理解し、愛する対象を限定していました。「隣人」という枠の外の人は愛する必要がないのです。ましてや敵にいたっては、憎まなければならない、と教えていたようです。しかし旧約聖書をよく読めば、そうではないことがわかります。

たとえば、出エジプト記23章4節、5節には、こういう言葉があります。

「もし、あなたの敵の牛、あるいはろばが迷っているのに出会ったならば、必ずその人のもとに返さなければならない。もし、あなたを憎む者のろばが荷物の下に倒れているのを見たならば、放置しておいてはならない。必ずその人と一緒に起こしてやらなければならない。」(出エジプト記23:4~5)

敵といえども、困っている時には、助けてあげなければならない。それが旧約聖書以来、神の戒めとして聖書が教えていることです。「敵を憎め」とは言っていません。ただイエス・キリストは、ここでそれにとどまらず、もう一歩踏み込んで「敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5:44)と命じられました。これはキリスト教の愛の教えとして有名ですが、実行するのは非常に難しいことです。

(5)天の父の愛

イエス・キリストは、私たちの天の父である神の姿に目を向けさせようとします。

「(天におられる)父は、悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」(45節)方です。

私たち人間は、すぐに「あれはよい人、これは悪い人」「あれは正しい人、これは間違った人」などと区別をします。そしてよい人、正しい人は味方ですが、悪い人は敵であり、憎むべき対象です。しかし神様の目から見たら、そのような区別は実に些細なことであり、私たちの言う正しさも、神様の前ではどんぐりの背比べのようなものではないでしょうか。

神様が私たちを養ってくださるのは、私たちが正しい人間であるからでもなく、よい人間であるからでもありません。すべて神の恵みによって生かされているのです。

イエス・キリストは、こう続けます。

「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。あなたがたが自分のきょうだいにだけ挨拶したところで、どれだけ優れたことをしたことになろうか。異邦人でも、同じことをしているではないか。」(46~47節)

当時、徴税人は不当にお金を徴収して私腹を肥やす人が多かったので、罪人同様とされていました。異邦人とは、今風に言うならば「神を信じない人」ということでしょう。天の父がどんな人をも愛しておられるのだから、そういう天の父への信仰をもつならば、その「天の父の子となるため」(45節)に、その父の姿を映し出し、父なる神に似る者とならなければならないということです。

「あなたがたは、天の父が完全であられるように、完全な者となりなさい。」(48節)

これも難しい言葉です。意味が難しいのではなく、実現不可能に思える言葉です。私は、ここでいう「完全な者」というのは、絶対に間違いを犯さない、失敗をしない人のことではないと思います。もしもそうであれば、誰も、その通りにはなれないことになってしまうでしょう。

そうではなくて、天の父が愛において完全であるように、あなたがたも愛において完全な者になりなさい、ということではないでしょうか。つまり自分の基準によって分け隔てするのをやめて、徹底的に愛し、徹底的に許す人になれ、ということではないでしょうか。その時にはじめて、私たちは天の父の子、神の子としてふさわしい者になるのです。

しかしそれでも、自分にいやがらせをする人、自分を陥れようとする人まで愛するのは困難なことです。本当に誰かにひどく傷つけられた経験を持つ人ならば、「そこまでして、天の父の子となりたくありません。神様、それは願い下げです」と言いたくなるのではないでしょうか。

(6)敵を愛することの難しさ

マーティン・ルーサー・キング牧師は、黒人が社会的にだけではなく、法的にも差別されていた1950年代から60年代のアメリカ合衆国で、黒人の公民権を勝ち取る運動のために働きました。キング牧師は、白人たちの暴力、敵意、そして殺意に取り囲まれていました。そして事実、最後に暗殺されてしまいます。

そのキング牧師が、「汝の敵を愛せよ」という説教をしています。彼にとって、この戒めは特別大きな意味をもっていたことでしょう。彼は、「なぜ自分の敵を愛すべきか」と自問しながら、いくつかの理由をあげています。

第一に、「憎しみに対して憎しみをもって報いることは、憎しみを増すのであり、すでに星のない夜になお深い暗黒を加えるからだ」と言います。

第二に、「憎しみは相手の人格を歪めるだけではなく、自分の人格をも歪める」と言います。

そして最後に「憎しみをもって憎しみに立ち向かうことによっては絶対に敵を除くことはできない。われわれは、敵意を取り除くことによって、はじめて敵を取り除くことができる。愛は敵を友に変えることのできる唯一の力だ」と言いました(『汝の敵を愛せよ』72~75頁)。

キング牧師は決して平穏な思いで、この説教をしたのではないでしょう。自分を迫害する者に取り囲まれて、大きな心の葛藤を経験しながら、自分自身に言い聞かせるようなつもりで説教をしたのではないでしょうか。もがきながら、キリストのみ旨を探るような言葉です。

キング牧師は、「敵をすら愛するということは、われわれの世界の諸問題を解くかぎである。イエスは非実際的な理想主義者ではない、彼は実際的な現実主義者なのだ」とも語りました。

私はこのキング牧師の言葉は、預言者的であり、50年以上経った今でも、現代の世界の問題を鋭く突いているように思います。現代の戦争は、国家対国家という単純な図式ではなくなり、目に見えない相手と戦わされる戦争です。そこで民間人を巻き込み、「敵意」がどんどん増幅していく。最後には、もはやどちらかが勝つということはあり得ず、双方が共に負ける戦争にならざるを得ないのです。

キング牧師は、「愛とは共に生きる意志だ」と言いました。これは、「好きだ」「嫌いだ」という自然な感情を超えたことです。イエス・キリストは、ここで「敵を好きになれ」とは言っておられません。敵であっても、自分を陥れようとする人であっても、嫌いであっても、好き嫌いの感情を超えて、共に生きる決心をするのです。同じ神様によって愛されている人間であるからです。

(7)自分の心を守る

「嫌いな人を好きになれ」と言われているのではないということは、ひとまず「ほっとすることです。しかしそれでも、「自分を陥れようとする人」、「執拗に自分にいやがらせをしてくる人」、それゆえに「嫌いな人」と共に生きる、というのは大変困難なことです。表面的には知らん顔をして、陰でそういう人たちとつながっている人もいます。

私も牧師ですから、イエス・キリストの言われることは頭ではわかるのですが、心がついていかないこともあります。執拗に自分にいやなことをしてくる人とどのように向き合うのかは、大変難しい。

そうした時に、どうすればよいか。まず自分の心の健康を保つことを優先すべきだと思います。心が折れそうになり、PTSDになることもあるでしょう。その時には、一旦距離を置くことも大事ではないでしょうか。

箴言4章23節にこういう言葉があります。

「守るべきものすべてに増して あなたの心を保て。命はそこから来る。」

いい言葉ですよね。新共同訳聖書では、こういう訳でした。

「何を守るよりも、自分の心を守れ。そこに命の源がある。」

こちらもいい訳です。私は人との人間関係に悩んでいる人には、この言葉を贈りたいと思います。ですから「敵を愛しなさい」という主イエスの言葉に押しつぶされそうになる時には、一旦そこから逃げてよい、その人から距離を置いてよいのだと思います。

「守るべきすべてに増して、あなたの心を保て。命はそこから来る。」

そこで自分を立て直し、そしてそれでも向き合わなければならない相手であれば、向き合う心の準備をしたらよいと思います。

それでも、嫌いな人、自分を陥れようとする人と共に生きなければならないことがあります。そうした時に、私は、聖書に立ち返って、二つのことを思い起こすようにしています。

ひとつは、「神は人を自分のかたちに創造された」(創世記1:27)のであれば、すべての人は神の姿を映し出していることになります。「あのいやなことをする人も神のかたちを映し出す存在、神の似姿なのだ」ということです。もうひとつは、「イエス・キリストは、あの人のためにも十字架にかかられたのだ」ということです。そしてあのいやなことをする人のためにも「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです」(ルカ23:34)と祈られたことです。そこにまで思いをはせる時に、それでも、共に生きる決心がまだできなかったとしても、少し冷静になれるのではないでしょうか。私は、そうしたところからでしか、人間関係は回復しないのではないか。そうしたところからしか世界は変わっていかないのではないかと思います。一旦、神様に戻す。イエス様に戻すのです。

主イエスは、この戒めを、ただ単に言葉として語られただけではなく、ご自身もその戒めのとおりに生き、その戒めのとおりに死なれました。つまり、この戒めには、イエス・キリストの命の重みがかかっているのです。

すべての人に注がれる天の父の愛は、イエス・キリストの生きざまと死にざまにおいて、最もはっきりと表れているのです。そのことを思い起こしつつ、そのことに感謝しつつ、少しでもそれにならい、それに従う者となりたいと思います。

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