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2020年8月30日説教「真の裁き主による赦し」松本敏之牧師(代読 保雄一郎)

真の裁き主による赦し

ヨハネによる福音書8章1 ~11節

(1)括弧に入れられた話

この度は、耳の治療のために急遽入院することになりましたので、説教原稿を代読していただくことにいたしました。本日の聖書箇所は、日本キリスト教団の聖書日課によるものです。ヨハネ福音書第8章1節から11節です。新共同訳聖書では「わたしもあなたを罪に定めない」と題が付けられていますが、全体が〔 〕の中に入れられています。実を言いますと、ヨハネ福音書の写本には、この物語が出ているものと出ていないものがあるのです。ただしそのことは、この物語が、必ずしも実際にイエス・キリストがなさった出来事ではないだろうということではありません。確かにこの物語は、ヨハネ福音書よりも他の三つの福音書に出てくるイエス・キリストの姿をほうふつとさせるものです。今日は、聖書学上の難しい議論の紹介は省きますが、それでもこれは、まさにイエス・キリストならではの、「本物の迫力」というものが備わった物語であると思います。

(2)罠が仕掛けられていた

改めて少し筋を追ってみましょう。
朝早く、主イエスはエルサレム神殿の境内で、腰を下ろして大勢の民衆に教えを語っておられました。そこへ律法学者たちやファリサイ派の人々が、一人の女性を連れて来て、主イエスに向かってこう言いました。
「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか」(4~5節)。彼らは、イエス・キリストの判断を仰ぐために尋ねたわけではありません。「イエスを試して、訴える口実を得る」(6節)ための一種の罠であったのです。ここで、もしもイエス・キリストが「その女を赦してやりなさい」とおっしゃれば、「律法を無視するのか」ということになります。「そんな女は石で打ち殺せ」とおっしゃれば、民衆の心が主イエスから離れていくでしょう。どちらになっても、彼らには都合がよかったのです。「こういう女は石で打ち殺せ」とありますが、実はこれにぴったりのモーセの律法というのは、旧約聖書にはありません。一番近いのは、「人の妻と姦淫する者、すなわち隣人の妻と姦淫する者は姦淫した男も女も共に必ず死刑に処せられる」(レビ記20章10節)という言葉でしょう。「モーセの律法」という形で広げられたものがユダヤ人の間に伝えられていましたので、その中に「石打ちの刑」というのがあったのかもしれません。このレビ記の言葉で印象深いのは、姦淫は、男女が同等に罰せられることが明記されている点です。ところが実際には、姦淫という時には、女性だけが裁かれることが多かったようです。日本でも戦前には姦通罪というのがあったそうですが、それは女性にだけ適用されたと聞いています。そうした男女差別がここにも入り込んでいるのです。

(3)沈黙のメッセージ

彼らは主イエスの答えを待っていますが、主イエスはすぐにお答えにはならず、座ったまま地面に指で何か書き始められました。ちなみにイエス・キリストが何か字を書かれたということが聖書に出てくるのは、ここだけです。イエス・キリストは一体何を書いておられたのでしょうか。あるいは何語で書いておられたのでしょうか。興味深いところですが、それも書いてありません。
昔から、聖書の一節を書いておられたのではないか、と言われてきました。この直前の7章38~39節を裏返したような言葉として、次のエレミヤ書17・13の言葉を思い浮かべる人もあります。
「あなたを捨てる者は皆、辱めを受ける。
あなたを離れ去る者は、
地下に行く者として記される。
生ける水の源である主を捨てたからだ。」
(もう一度言いますが、エレミヤ書17・13の言葉です。)
あるいは、ここで何を書いておられたかという内容よりも、沈黙そのものに意味があると言えるかもしれません。「姦通の現場を押さえたと言うのであれば、どうして女だけを連れてきたのか。そこに男もいたはずではないか。男のほうは、一体どこにいるのか。モーセの律法に従うというのであれば、男と女が同等に裁かれるべきではないか」という抗議を感じるのは、私だけでしょうか。主イエスが十字架にかかられる前、ピラトの裁判を受けられた時も、主イエスは沈黙しておられました(マタイ27・12~14)。沈黙には沈黙のメッセージがあるのです。

(4)他人の罪、自分の罪

主イエスは、とうとう身を起こしてこう言われました。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」(7節)。これは、誰も予期していなかった言葉でありました。きっと小さな静かな声であったでしょう。しかしそこには聞く人に有無を言わせぬほどの迫力、本物の迫力がありました。誰もこの言葉に対して、反論することができません。イエス・キリストは、再び腰を下ろして、また地面に何か書き始められました。沈黙が続きます。その間に人々はだんだんと手を下ろし、一人去り、二人去りして、最後には誰もいなくなってしまいました。私たちは他人の欠点、罪、過ちというのはよく見えても、自分自身のことはなかなか見えないものです。見えないにもかかわらず、見えていると思い込んでいる。自分の罪は棚上げにして、他人を責めて、他人の罪を裁こうとする。ところが一番の問題は、自分自身の中にあるのではないか。そういう問いかけです。よく言われるように、私たちが誰かを指差して「お前が、お前が」という時には、人差し指以外の三本の指は自分自身を指しているのです。イエス・キリストのなさったことは、それに通じるものでありましょう。ただしこれは、相手の悪いところを改めさせるために何もしてはいけない、忠告してもいけないというようなことではありません。そうしたことが本当に通じるためにも、その前にすることがあるではないかということです。相手の罪や負い目を共に担っていくという姿勢において、初めて相手に対する言葉もきちんと聞かれるのだと思います。

(5)年長者からはじめて

「あなたがたの中で罪のない者が」という言葉が、不思議に彼らの心に響きました。彼らの良心を呼び起こしたのです。石を握り締めていた彼らの手が、だんだんと下がっていきました。そういう意味では、このファリサイ派の人々や律法学者たちにも、まだ良心のかけらが残っていたということができるでありましょう。ここで「年長者から始まって、一人また一人と、立ち去って」いったというのは、興味深いことです。年を経た者ほど、自分の罪のことをよく知っていた、自分には石を投げつける資格がないということを悟っていたということではないでしょうか。そしてその年長者の姿を見て、若い人々も、自分にもその資格がないということを悟っていったのです

(6)真に裁くことのできる方

イエス・キリストの言葉は、「あなたにはその資格があるのか」と問いつつ、「本当に彼女を裁くことができるものは誰か」を指し示しています。彼らの中にその資格のある人は誰もいませんでした。。最後に残ったのは、この女性とイエス・キリストだけでありました。主イエスが「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか」(10節)と問いかけると、彼女は「主よ、だれも」と答えました。そして主イエスは告げられました。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」(11節)。罪を裁くことのできる唯一の方がここにおられます。イエス・キリストは、この女性の罪を決してもみ消しにされたわけではありません。また律法を否定したり、無視したりされたのでもありません。律法は律法として、神様の意志は意志として、罪は罪として、厳然と存在する。罪の赦しということと、罪の是認ということは違うということを心に留めなければならないと思います。

(7)安価な恵みと高価な恵み

ディートリヒ・ボンヘッファーは、「安価な恵み」と「高価な恵み」ということを言いました。「罪をそのままでいいというのは、安価な恵みである。イエス・キリストの恵みというのは、そうではない。罪のゆるしというのは、高価な恵みである。」そこにはイエス・キリストのわざ、十字架へとつながっていく御業が背後にあるのです。「わたしもあなたを罪に定めない」ということは、実は「その裁きは、私が引き受ける」ということなのです。罪は裁かれなければならないのです。徹底的に罪が裁かれて、その中から赦しの宣告がなされるのです。この罪のゆるしの言葉が語られる時、その罪に対して、確かに血が流れている。ところが不思議なことに、それが彼女の身の上に起こったのではなく、彼女とここで向き合って、身を起こして立ったイエス・キリストの上に起こるのです。イエス・キリストの十字架の上に血は流されるのです。この時には、イエス・キリストはまだ十字架におかかりになっていません。しかしすでに十字架を見据えておられたのであろうと思います。「わたしもあなたを罪に定めない」という言葉にはそれだけの重みがあるのです。私たちは、クリスチャンとして生きる時に、どちらかと言えば、この「律法学者やファリサイ派の人々」のように、人を裁いてしまうものであります。イエス・キリストは、そのような私たちの思いをも身に引き受けて、間違いをただしながら十字架におかかりくださったのです。そのことを深く心に留めたいと思います。

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