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2020年7月5日説教「天のエルサレム」松本敏之牧師

天のエルサレム

イザヤ書2章1~5節 ヨハネ福音書4章5~26節

(1)主イエスも疲れる

主イエスの一行は、シカルというサマリアの町の町はずれにある井戸のところに到着しました。正午頃のことです。弟子たちは町へ食べ物を買いに行っており、イエス・キリストだけがそのまま井戸のところに、いわばへたり込んでおられました。「イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた」(6節)と記されています。夜中から、あるいは明け方から正午まで歩き続けたのかも知れません。
これを読んで、私は、「イエス様でも疲れるんだ。私たちと同じなんだ」という風に思いました。しかし主イエスは、水がめも小さな器も何も持っておられません。そこへちょうど、水がめをもった一人の女性が近づいてきました。そこで、主イエスは彼女に「水を飲ませてください」と言いました。

(2)サマリアの女の言葉の意味

彼女はどきっとして、このように問い返しました。「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませて欲しいと頼むのですか」(9節)。この言葉には、さまざまな意味と思いが込められております。
第一に、このすぐ後に記されておりますように、ユダヤ人はサマリア人と交際していなかったということです。特にユダヤ人がサマリア人を軽蔑し、嫌っていたのです。
第二は、イエスが男であり、彼女が女であったということです。当時の風習としては、公の場所で男が女に声をかけてはいけなかったのです。挨拶すらしてはいけなかった。ユダヤ教の教師であるラビは、特にそうでありました。もし公の場所で、誰か女性に声をかけているのを見られたら、それは教師としての名誉を失墜してしまうことになる。そういう風習の中で起きた出来事であります。
そういう二つの背景がありますから、彼女は主イエスを横目で見て、その存在に気づいてはいたでしょうが、まさか声をかけられるとは思っていなかったでしょう。声をかけられてどきっといたしました。
しかし彼女がどきっとしたことには、もう一つの個人的理由がありました。彼女はできるだけ人と会いたくなかったのです。ですから昼の最も暑い時間に水をくみに来ていたのです。普通は、水くみは朝の早い時間か夕方の涼しい時間、という風に相場が決まっておりました。女性たちは主に、家の中で仕事をしていましたから、この水くみの時が貴重な社交の場でもありました。この時に彼女たちは、家の仕事から一時解放されて、たわいもないおしゃべりをして息抜きをしたでしょうし、いろいろと情報交換をしたでしょう。日本語にも井戸端会議という言葉があります。
しかしこの女性は、そうした交わりそのものがいやだったのです。誰からも声をかけられたくなかった。声をかけられなくても、ひそひそとうわさをされる。それがもっといやだったことでしょう。「あら、こんにちは。お久しぶりですわね。」よそよそしい挨拶をされて、その直後で、「ねえ今の人、知ってる。こそこそこそ。」「まあそうなの。人は見かけによらないわね」とか、「そう言えば、化粧が派手だと思ったわ。その道の人だったのね」とか、うわさされる。
この後18節のところでイエス・キリストが言い当てられた通り、彼女には5回の結婚歴があり、今連れ添っている人も正式な夫ではなく、ただ同棲していただけでありました。彼女は、「身持ちの悪い女」としてレッテルを貼られ、サマリアの女性たちの交わりからもはずされていたのです。
「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」。この問いは、率直な驚きを表しているとも受けとめられますし、同時に、彼女が受けている民族差別、性差別、そして個人的差別の仕返しのような、ちょっと意地悪な響きがあるようにも受けとめられます。「普段は口もきかないくせに、困った時だけ頼み事ですか。自分でお汲みになったらいかがですか」。そういうことかも知れません。このところの主イエスは、本当にみじめな、あわれな感じがいたします。
この時主イエスは、このサマリアの女に向かって、「水を飲ませてください」と懇願することによって、イエス・キリストはみんなから差別され、自分でも卑下しているようなこの女性の下に立たれたのです。命の水を持ち、生きた水を持ち、汲めどもつきない泉のようなお方が、「のどが渇いた。水をください」と彼女に懇願しておられる。私は、この一見矛盾するようなイエス・キリストの姿にこそ、まことの救い主の姿を見るのです。そのようにしてしか、彼女との会話は始まらなかった。そのようにしてしか、この後深まっていく彼女の救いを求める、求道のプロセスも始まらなかったでしょう。

(3)サマリアの女の応答

主イエスは、こう言われました。
「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう」(10節)。
主イエスの、この謎かけのような言葉を、彼女はすぐには理解することができませんでしたが、何か大事なことが含まれていると、感じたのでしょう。「主よ、あなたはくむ物をお持ちではないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」(11~12節)
彼女は、主イエスに向かって、「主よ」と呼びかけます。「自分の前にいる、この人はただ者ではない」ということを、彼女は感じ始めているのです。
彼女の中で、すでに何かしら変化が起き始めています。

(4)魂の奥深い渇き

彼女は「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください」(15節)と言いましたが、主イエスは、彼女の言葉に直接には答えられません。唐突に「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」(16節)と言われました。彼女にしてみれば、一番聞かれたくないことを聞かれた、一番触れられたくない部分に触れられた、ということになるでありましょう。
主イエスは、なぜ突然そのことに触れられたのでしょうか。彼女を困らせようとされたのではありませんし、彼女の弱みにつけこもうとされたのでも、彼女をからかおうとされたのでもないでしょう。もちろん興味本位のことでもありません。彼女の本当の渇き、魂の渇きが、そこにあるということをご存じであったからだと思います。彼女は主イエスに、「主よ、渇くことがないように、その水をください」と言いました。それは表面的な理解ではありましたが、彼女は自分でも知らずして、イエス・キリストに向かって魂の叫びを発していたのではないでしょうか。
もう少し続けて読んでみましょう。
「女は答えて、『わたしには夫はいません』と言った。イエスは言われた『「夫はいません」とは、まさにその通りだ。あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたはありのままを言ったわけだ。』」(17~18節)
主イエスは、彼女の状況を見事に言い当てるのです。主イエスは彼女の急所をぐさりと突き刺し、それをえぐり出します。彼女は、すべて見透かされたので、ぐうの音も出ず、「主よ、あなたは預言者であるとお見受けします」(19節)と言いました。
この5回も結婚と離婚をくり返したという事実をどう受けとめるか。彼女の生活はみだらなものであったと言う人もあるかもしれません。しかし私は、むしろこれは彼女の不幸な結婚生活を表しているのだと思います。彼女は恐らくその都度、今度こそ幸せになりたいと思って結婚したのではないでしょうか。しかし男の方はそうは思ってはいない。彼女のことを本気で思っているわけではない。遊び半分、「いやになればいつでも離婚すればいい、彼女はもう何遍もそれをやってるんだ。」そう思って結婚したのではないかと思います。そして捨てられるのですね。それのくり返し。今同棲している相手も、彼女のことをそのようにしか考えていないかも知れません。だから結婚もしないのでしょう。彼女自身、一人でいる寂しさに耐えられず、誰でもいいから、と言うと言い過ぎかも知れませんが、とにかく寄りかかる相手が欲しかったのではないでしょうか。言葉を換えて言えば、彼女の渇きを一時的にでもいやしてくれる相手、満たしてくれる相手、あるいは忘れさせてくれる相手が欲しかったのです。しかしその水はいくら飲んでも渇く、満たされることがない水なのです。イエス・キリストは、彼女の本当の渇きが一体どこにあるのかということを知っておられたのです。生活のあり方に、どこか根本的なひずみがある。彼女自身、そのことに気づいているのかも知れないけれども、自分ではどうすることもできない。悪循環です。そのようにして時が経っていく。いずれどんな男も自分を振り向いてくれない日が来るかも知れない。歳をとっていく。しかしそのことを認めたくない。恐ろしい。そのことを正面から見据えることができない。イエス・キリストは、そこを捉え、永遠の命に至る水をどこにあるか、そして自分がそれを持っていると言おうとされたのでしょう。

(5)過去からではなく、将来から

彼女はそれを機会に、自分の個人的問題を超えた大きな社会的問題、歴史的問題を、イエス・キリストにぶつけるのです。このことは彼女にとっても大きな疑問であったのだろうと思います。「わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています」(20節)。彼女は特に宗教教育を受けた人間ではありません。しかし素人であればあるほど不思議に思える。「どうして一人の神様を、あなたたちユダヤ人と私たちサマリア人が、競い合うようにして張り合って、別の聖所を建てて礼拝しているのですか。おかしいではないですか。」これは素人ならではの、非常に率直な、そして鋭い問いであると思います。プロであれば、こんなことをもはや問わないかも知れません。「そこにはこういう歴史的由来があって、深い対立はずっと続いているのだ、残念なことだけれども。」そういう風に考え、そういう風に答えるのではないかと思います。
ところがイエス・キリストの答えは全く違っていました。歴史的なことなどは何も言っておられません。主イエスは全く違った次元の答えをなさったのです。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する日が来る」(21節)。過去を顧みるのではなくて、将来の話をされました。どうしてそういう対立が生まれたかということよりも、それを前提としつつ、それが克服される日が来る、という話をされたのです。それが天のエルサレムです。
彼女はどちらが本当の礼拝の場所か、ということを尋ねたのでしょうが、主イエスはそれを超えたところからお答えになりました。彼女のそのような二者択一そのものが問題なのであり、そのような発想そのものを退けられたと言ってもいいでしょう。

(6)誤った二者択一

これは今日に生きる私たちにとって、非常に重要な意味をもっていると思います。今の世界はあまりにも単純な二元論に陥り、誤った二者択一を私たちに迫ってくるからです。そのような二者択一の問いの立て方そのものが間違っているのです。「彼らが正しいのか、我々が正しいのか」。「正義はどちらの側にあるのか」。「正義と民主主義の側につくのか、それともテロリストの側につくのか」。「テロの脅威におびえながら過ごすのか、それとも悪の根をうち砕くのか」。私はこのような二者択一は非常に危険であり、その危険の中に入り込むことこそ、宗教的な表現を用いれば、悪魔の誘惑があると思うのです。そこにはまりこんで、人と人、国家と国家、民族と民族が対立し合うことこそ、悪魔の思う壺なのではないでしょうか。
宗教がそれにからんできます。しかし私は、本当は宗教によって戦争するのではないと思います。その背後には必ずこの世的な利害関係があり、打算があります。それを隠蔽するため、それを正当化するために宗教が、そして神の名が持ち出されるのです。必ずそうです。もっとも最先端で自爆したり、攻撃したりする者は、神のために、神の正義のためにと思っているかも知れません。しかしそれは洗脳です。マインドコントロールされているのです。それを操る人間の思惑と、それを神のためと信じ込ませられる人間の無謀さのコンビネーションで、戦争が遂行されていく。

(7)個人的事柄と社会的事柄

このサマリアの女と主イエスの対話で興味深いのは、彼女の非常に内面的な事柄、深い魂にかかわる事柄と、それをはるかに超えた大きな次元の事柄、歴史的・社会的事柄が、不思議に一つの問いになっているということです。しっかり切り離されずに結びついているのです。彼女にとっては、それは一続きの問いだったのです。
この二つの事柄は、しばしば切り離されて語られ、不幸なことにその間で対立、分裂する事さえあります。教会(同じ教団)の中でも「あの人は社会派だ。この人は福音派だ、あるいは教会派だ」という。いわゆる社会派の人は、福音が社会に根ざすことを伝道、あるいは宣教と考えますし、いわゆる福音派の人は、魂の救いを目指して、その事柄に触れていくことを伝道と考える。どちらが正しいか、どちらが聖書に即しているかということで、対立するのです。しかし私はこれもまた誤った二者択一であり、不幸な分裂であると思います。私がニューヨークのユニオン神学校でお世話になった小山晃佑先生の書かれたものに、「福音派でも社会派でもございません」という文章があります(『しばしあなたを捨てたけれども』同信社所収)。本質をよくついた言葉だと思います。これこそが聖書の本領、本当のキリスト教です。これを切り離してはならないし、切り離すことはできない。どちらかだけにしてしまうことはできないのです。
私は、今の世界は、分裂・対立の方向、自分と違った相手を自分の支配下におこうとする方向と、和解・共存の方向、違った相手と共に生き、お互いに生かし合って生きようとする方向、この両方の方向を含みもっていると思います。そういう中で、一体、神様はどのような世界を望んでおられるのかということをたずね求めなければならないのではないでしょうか。聖書そのものが、この対立・分裂という事実、現実をありのままに語っておりますし、共に生きるという方向も含んでいます。私は、この物語は、分裂・対立という現状の中で、それがやがて一つにされるということを終末論的次元で指し示していると思います。それが天のエルサレムです。

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