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2021年9月12日説教「世界史の中の福音」松本敏之牧師

ルカによる福音書3章1~14節

(1)ルカ福音書とはどういう書物か、著者は誰か

鹿児島加治屋町教会独自の聖書日課、先週からルカ福音書に入りました。本日の聖書のテキストは、昨日の聖書日課である第3章から選ばせていただきましたが、これまでのように、ルカ福音書とはどういう書物であるのか、全般的なことも、少しお話させていただきます。

ルカ福音書は、マタイ福音書同様、マルコ福音書を共通の資料をもとにしています。マルコ福音書は紀元70年の少し後に書かれたと思われますが、ルカ福音書は紀元後70年代後半から90年代前半、恐らく80年代であろうと言われます。

著者は一体誰なのか。伝統的には、パウロの伝道旅行に同行した医者のルカであったと言われ、ルカによる福音書という書名もそこから来ているのですが、今日の聖書学では、そのルカがこの福音書を書いたということはまずありえない、というのが定説です。

では一体誰がこの書物を書いたのか。名前はわからないですが、いろいろな事柄から人物像は浮かび上がってきます。まずこの人は非常に高い教育、しかもギリシアの教育を受けた人です。新約聖書は、ギリシア語で書かれていますが、ルカ福音書のギリシア語は、マルコやマタイよりも語彙も豊富で流麗で、とても文学的なのです。つまりこの著者は、素人ではなく、いわばプロの作家、文筆家だということが想定されます。さらに、ユダヤのヘブライズムとギリシアのヘレニズム、当時の二大文化の両方を熟知している、かなりの教養人です。

宗教的には、もともと異邦人であったけれども、キリスト教に触れて、キリスト教に改宗した。そういう人物であった、ということが推察されます。ということで、本当の著者名はわからないので、便宜上、この著者のことを「ルカ」と呼ばせていただきます。

(2)執筆動機

さて、ルカ福音書の冒頭には「献呈の言葉」という表題が付けられ、次のような言葉で始まります。

「私たちの間で実現した事柄について、最初から目撃し、御言葉に仕える者となった人々が、私たちに伝えたとおりに物語にまとめようと、多くの人がすでに手を着けてまいりました。」(ルカ1:1~2)

最初から目撃した人々がいて、その伝承があった。ルカはそうした伝承を耳にし、そして既に書かれていた福音書を手にしながら、自分もきちんと書きたいと思ったのです。どうも今あるものでは満足できない。自分はそこに書かれていない事柄もたくさん見聞きしている。それに今あるものは、どうも文学的に稚拙だ。これだと、とても教養のある人たち、特にギリシアのような高い文化の中の人たちに読んでもらえない。自分だったら、もっとよく、もっと詳しく、そしてもっと順序だてて、説得力のある形で書ける。それが、ルカがこの福音書を書いた動機でありました。しかしそれは決して自己顕示欲ではありません。イエス・キリストの福音がより多くの人たちに伝えられるためです。特に異邦人世界、ルカの目はすでにそちらに向いています。ですからルカはこう続けます。

「敬愛するテオフィロ様、私もすべてのことを初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈するのがよいと思いました。お受けになった教えが確実なものであることを、よく分かっていただきたいのです。」(ルカ1:3~4)

すでに素人っぽい文章で伝わっているけれども、それが学者にも通じるような形で書き直したい。そういうふうに言うのです。ここには、ルカの大きな使命感があったと思います。自分にできることをしたい。いや、これは恐らく自分にしかできないことである。それをしなければならない、という召命感がルカにはあったことであろうと思います。

この書物を献げた人として「敬愛するテオフィロ様」と出てきます。これが一体誰なのか、これもまたわからないのです。この書物のスポンサーであったという説もありますが、恐らく実在の人物ではなくて、架空の人物であろうと言われます。ルカは、歴史における位置づけを重視するのですが、テオフィロという人物は歴史に出てきません。「テオフィロ」というのは、「神を愛する人」という意味のギリシア風の名前です。ルカが想定した読者(教養を持った文化人、しかも神さまを愛する読者)の代表のようにして、こういう名前を掲げたのではないかと思われます。そうだとすれば、この「テオフィロ」(神を愛する人)というのは、後々の読者も含まれている。私たちにまで続いているものと言ってもよいのではないでしょうか。

(3)主イエスの活動年代

さてルカによる福音書は、1章2章のクリスマス物語に続いて、第3章から、新しい部分に入ります。3章はこう始まります。

「皇帝ティベリウスの治世の第15年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、リサニアがアビレネの領主、アンナスとカイアファが大祭司であったとき、神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに臨んだ。」(ルカ3:1~2)

この記述は味気ない記述で、読み飛ばしそうな言葉ですが、実は、この言葉はとても重要な意味を持っているのです。それは、この世の歴史と聖書の福音が交差する言葉であるからです。この記述によって、イエス・キリストの活動年代を世界史の中に位置づけることができるのです。ルカは、もともと、1章3節で「私もすべてのことを初めから詳しく調べていますので」(1:3)と書いていましたが、1章5節、2章1~2節に続いて、ここでも歴史的年代を述べて、明らかな一般の歴史の中、世界史の中に神のなさった業、特別な福音の歴史を位置づけようとします。

皇帝ティベリウスというのは、聖書以外の歴史書にも出てくる名前です。皇帝ティベリウスの即位は、紀元14年ということがわかっていますので、「第15年」ということは、単純に足し算をすると、紀元28年になります。

大体イエス・キリストの公生涯は、大体紀元27~29年の間であったと言われます。ピラトは、紀元26年以来、ユダヤとサマリアの総督でありました。ここに記されているヘロデというのは、あのヘロデ大王の息子であります。洗礼者ヨハネが登場したのは、そういう時代であったというのです。まさにルカならではの記述であります。

(4)道備え

私たちは、イエス・キリストの福音が語られる前に、その道備えをした人がいたことを忘れてはならないでしょう。それが洗礼者ヨハネです。福音書記者は、そういうヨハネの活動を、預言者イザヤの言葉の成就であるといたしました。もともとの「イザヤの預言」というのはイザヤ書40章3~5節からの引用です。

これは、紀元前6世紀、バビロニアの国に捕らわれの身となっていたイスラエルの民に向かって語られた言葉です。イスラエルの民は、出エジプト以降も、何度も何度も神様に背き続け、自分たちに都合のいい神を造ったり、その偶像を拝んだりいたしました。そこから目を覚まさせるために、神様はバビロン捕囚を用いられたと言ってもよいでしょう。そしてその捕囚の期間がもうすぐ終わるという頃、再び民に向かって何をなすべきかが告げられたのです。イスラエルが荒れ野を通って再び祖国へ帰って行く準備。解放の日が近づいたのだから、その準備に取り掛かりなさい、というのです。元来は、そういう趣旨の言葉です。

(5)「救い」と「社会正義の実現」

ただし、この言葉は、文字通りにエルサレムへの帰り道を整えるということの他に、神様の望まれる社会について述べているのでしょう。旧約聖書の預言者たちは、公平で、正義と慈しみに満ちた社会を実現していくことに大きな関心がありました。イザヤ(ここでは第二イザヤ)もそういう預言者でした。

ちなみにルカの引用ではこのような言葉になっています。

「主の道を備えよ。
その道筋をまっすぐにせよ。
谷はすべて埋められ
山と丘はみな低くされる。
曲がった道はまっすぐに
でこぼこの道は平らになり
人は皆、神の救いを見る。」(ルカ3:4~6)

「谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる」というのは、「極端な貧しさや、富の集中がなくなり、公平な社会が実現される」ということと言えるでしょう。「曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになる」というのは、「不正がなくなり、正義が実現されていく」ということでしょう。つまり不公平がなくなり、正義が実現して初めて、「人は皆、神の救いを見る」というのです。言い換えれば、公平と正義の実現なしには、神の救いを見ることはできない、ということです。これは、とても大事なことです。私たちは、しばしばこの二つ、つまり「救い」ということと「社会正義の実現」ということを切り離して考えているのではないでしょう。救いを強調する人たちのことを「福音派」と呼び、「社会正義の実現」を強調する人たちのことを「社会派」と呼ぶこともあります。しかし元来、この二つは切り離せない、くっついているのです。

(6)「究極のもの」と「究極以前のもの」

ボンヘッファーは、この二つの事柄を「究極のもの」と「究極以前のもの」と呼びました(『現代キリスト教倫理』)。「究極のもの」とは、神様と私たちに関すること、「究極以前のもの」とは、この世界に関することだと言うことができようかと思います。ボンヘッファーは、「究極以前のもの」として、人権の問題や、差別や抑圧をなくすというようなことを考えていました。彼が最も緊急の課題として考えていたのは、ナチス・ドイツの時代のユダヤ人の人権の問題でありました。「究極のもの」と「究極以前のもの」というのは、一応、別の事柄ですが、深くつながっています。

ボンヘッファーは、こう言いました。「神の究極の言葉の宣教と共に、究極以前のもののためにも配慮することが、どうしても必要になってくる」(『現代キリスト教倫理』p.124)。なぜなら、この世界には、「キリストの恵みの到来を妨げる人間の不自由、貧困、無知の深淵が存在する」からというのです。福音宣教のために、それらを取り除いていかなければならない。彼はその仕事を「道備え」と呼びます。「道備え」とは、このルカ福音書で洗礼者ヨハネのした仕事です。

「(道を備えるという)この課題は、キリスト・イエスが来り給うことを知っている者すべてに無限の責任を負わせる。飢えている者はパンを、家なき者は住む家を、権利を奪われている者は正当な権利を、孤独な者は交わりを、規律に欠けている者は秩序を、奴隷は自由を必要としている。飢えている者を飢えたままにしておくことは、神と隣人とに対する冒涜である。なぜなら、まさに神は最も深い困窮にある時にこそ、いと近くにおられる方だからである……。飢えている者にパンを与えることは、恵みの到来の道備えである」(同、p.127)。

つまり「神様なんかいない」としか思えない苦しい状況にある人に向かって、「神様は共にいてくださる」ということを伝えようとすれば、それがわかるように、社会を変えていかなければならない、社会を整えていかなければならないということです。

「究極のもの」と「究極以前のもの」、神様のこととこの世界のこと、信仰の問題と人権や正義といった社会の問題、これらの両方をきちんと見据えて、教会の中で位置づけていかなければならないでしょう。

洗礼者ヨハネという人は、ボンヘッファー流の言葉で言えば、「究極のもののために、究極以前の働きをした人」ということができるでしょう。福音の道備えをしたのです。彼は、自分の働きの意味とその限界をよくわきまえていました。ですから彼はあとで、「わたしよりも優れた方が来られる」(16節)と語ることができました。

(7)ヨハネの具体的な勧め

洗礼者ヨハネは、「悔い改め」ということで、具体的に何を語ったのでしょうか。それはとても単純で、わかりやすいことでした。

「下着を二枚持っている者は、持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ。」(ルカ3:11)

徴税人にはこう言いました。

「規定以上のものを取り立てるな。」(ルカ3:13)

兵士には、こう言いました。

「誰からも金をゆすったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ。」(ルカ3:14)

非常に単純で、明快な答えです。

(8)9・11の後遺症に向き合う

ボンヘッファーにはボンヘッファーの生きていた背景がありました。ユダヤ人たちが家も持ち物も家族もすべて奪われ、殺されていく状況の中で、多くの教会、牧師たちは、自分たちや教会を守るために、その状況を見て見ぬふりをしようとしました。しかしボンヘッファーは、それは切り離せないのだ。それを知らないふりをして福音を語り続けることはできないとして、彼はそこに身を置いていったのです。

今日の私たち社会にも、その独自の課題があります。身近なところでもそうした証しをしていかなければならないでしょうし、一見豊かな日本の社会においても、実は最低限の権利を奪われて生きている人がたくさんいることを忘れてはならないでしょう。地球規模で世界を見れば、特にアフガニスタンの問題は深刻です。私たちはそこから逃れてくる人たちを、隣人として日本の社会に迎えることが求められているのではないでしょうか。昨日は、2001年の9・11事件から20年目の節目の日でしたが、その後遺症にどう向き合うかが問われていると思いました。究極の言葉である福音が語られるために、その道備えをすることが、私たちにも求められているのではないでしょうか。

洗礼者ヨハネは、イエス・キリストに先立って働きましたが、私たちはイエス・キリストの歩まれた道の上を、イエス・キリストのあとに従って歩んでいます。

しかし同時に、イエス・キリストが再び、この世界に帰ってこられて、神の国を完成されるという、終わりの日を待ち望んで生きています。その道備えをする責任があり、その使命が与えられているのではないでしょうか。私たちは、洗礼者ヨハネよりも幸いなことに、イエス・キリストのあとに続きながら、再び来られる備えをするのです。前からも後ろからも、イエス・キリストにサンドイッチされるようにして、その業に就くことができる。そのような働きを、私たちも、私たちの教会もなしていきましょう。

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