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2020年11月8日説教「大祭司の尋問」松本敏之牧師

大祭司の尋問

ヨハネによる福音書18章12~14、19~24節

(1)アンナスとカイアファ

 本日のテキストは、イエス・キリストが逮捕され、大祭司のもとに連れて行かれ、そこで尋問を受けたという物語であります。もう一度最初の部分を読んでみます。「そこで、一隊の兵士と千人隊長、およびユダヤ人の下役たちは、イエスを捕えて縛り、まず、アンナスのところへ連れて行った。彼が、その年の大祭司カイアファのしゅうとだったからである」(12~13節)。
 ヨハネ福音書の受難物語は、他の福音書と違っている部分が幾つかあります。そのひとつは、イエス・キリストがまずアンナスのもとに連れて行かれたということです。他の福音書では、いきなり大祭司カイアファのところへ連れて行かれます。このアンナスという人は、カイアファのしゅうとであったとのこと。逆に言えば、カイアファはアンナスの娘婿であります。大祭司というのは、祭司の中の最高責任者、最高権威です。
13節によれば、「カイアファがその年の大祭司であった」となっていますので、ここだけ読むと、1年交替の職務であるかのように思えますが、元来は、一度大祭司になれば生涯大祭司、終身制であったようです。歴史を見てみますと、紀元15年にローマの総督としてエルサレムに着任したヴァレリウス・グラートゥスは、時の大祭司アンナスをその地位から下ろし、別の人物を大祭司にしたということです。さらにその後も、しばしば大祭司の更逐を行い、次々に交代させました。宗教的権威を骨抜きにし、ローマへの従属意識を高めることを狙ったのでしょうか。
アンナスは紀元6年から15年まで9年間、大祭司でありました。その後、たて続けに数人の大祭司が交代した後、カイアファが紀元18年に大祭司になりました。彼は、その後36年まで、18年間大祭司を務めました。
しかしこカイアファの時代になっても、このアンナスという人物は影響力を持ち続けたようです。イエス・キリストが十字架にかけられたとき、アンナスはもう大祭司ではありません。そのことは13節からすれば、これを書いたヨハネ福音書記者自身も知っているはずです。しかしあたかもその食い違いに気づかないかのごとく、19節では、アンナスのことを「大祭司」と呼んでいるのです。福音書記者ヨハネは、ここでわざと裏で影響力を持っているアンナスを大祭司と呼んでいるのかもしれません。

(2)真の大祭司キリスト

祭司とは、本来、人を神様に執り成す仕事です。ところがそういう権威が集中するところであるからこそ、人のことよりも自分のことを考えることが起きてくる。人間のエゴイスティックになっていく姿が見えてくるようです。このアンナスもカイアファも、そういう意味では、大祭司にふさわしい人物であったとは言えません。
(アメリカ合衆国のトランプ大統領も、まさにそういう人物のように思えます。利害関係で物事を判断していく。今朝のニュースでは、次期大統領が一応バイデン候補に決まったようですが、トランプ氏はまだまだ権力へのしがみつきを見せているようです。)
さてこの時、目の前で裁かれているイエス・キリストこそ、まことの大祭司にふさわしいということが浮かび上がってきます。イエス・キリストは、誰を犠牲にするよりも、あるいはどんな動物の犠牲を捧げるよりも、自分自身を犠牲の捧げ物にして、父なる神様に私たちを執り成してくださったお方です。だからこそ、受難物語の直前にある、17章の1章全体にわたる、イエス・キリストの長い祈りも「大祭司の祈り」と呼ばれるのです。

(3)軍隊の出動

さらにヨハネ福音書は、イエス・キリストを捕らえた人についても、他の福音書と違った書き方をしています。他の福音書では、祭司長たちや民の長老たちの遣わした大勢の群衆が、剣や棒をもってゲツセマネの園に押しかけたことになっていますが、ヨハネ福音書では、最初から官憲、ローマの軍隊が動いています。「一隊の兵士と千人隊長」(12節)とあります。「一隊の兵士」とは、恐らく「百人隊」であろうかと思います。しかしここでは百人隊長を飛び越えて、その上に立つ千人隊長が指揮をしていたというのです。これも他の福音書にはありません。他の福音書では小さな拉致事件のようですが、ヨハネでは大掛かりな軍隊を率いての逮捕として描かれているのです。

(4)形式的尋問

 大祭司の尋問も、あまり本質的なことに踏み入っていません。例えば、「お前は来るべきメシアであるのか」とか、この後でピラトが尋ねるように、「お前は王であるのか」とかいうようなことは、尋ねていません。「大祭司はイエスに弟子のことや教えについて尋ねた」(19節)とあります。いわば周辺的な質問です。
 また主イエスの方も、この尋問に対して直接答えてはおられません。「わたしは、世に向かって公然と話した。わたしはいつも、ユダヤ人が皆集まる会堂や神殿の境内で教えた。ひそかに話したことは何もない。なぜわたしを尋問するのか。わたしが何をしたかは、それを聞いた人々に尋ねるがよい」(20~21節)。

(5)カイアファの助言

アンナスの質問が形式的であることは、先ほど言いましたように、彼らが実はすでにイエス・キリストに対して、裁きの判決を決めてしまっていることを示しています。いつ彼らがそれを決定したのか。それは、ずっとさかのぼって11章47~53節に記されています。
「そこで、祭司長たちとファリサイ派の人々は最高法院を召集して言った。『この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう』」(11:47~48)。
下からの暴動が起きると、それによって自分たちが倒されてしまうかも知れないし、そうでなかったとしても、ローマ軍がそれを鎮圧しにやってきて、自分たちの居場所もなくなってしまう。それでカイアファがこう言うのです。
「あなたがたは何も分かっていない。一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか」(49~50節)。
これは、説得力のある論理でした。そこでは、その人間が正しいのかどうかということは二の次です。どちらが好都合か。どちらが自分たちの利害に合致するかということです。(これもトランプ大統領の発想に似ていると思います。)「その男を犠牲にすることによって、みんなが助かるのであれば、それでいいじゃないか」ということを、カイアファは提案したのです。ですから既に、「この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらん(でいた)」(11:53)のです。陰で殺そうというのではありません。ユダヤの最高議会で、それを決定したのでした。あの時、カイアファが口にした言葉の通りに、ことは進んでいきます。福音書記者ヨハネは、それを確認するかのように、ここでもう一度、「一人の人間が民の代わりに死ぬ方が好都合だと、ユダヤ人たちに助言したのは、このカイアファであった」(14節)と記すのです。
表面的には、カイアファの思惑通りにことが進んでいるように見える。それは、非常に人間的なこと、政治的なことです。ところがそこには、神様の意志が働いていました。カイアファをして、神様が語らしめた。カイアファは自分で語っている言葉の深い意味を知りません。「一人の人間が民の代わりに死ぬ方がよい。」それは神様の意志でもありました。そのことがこの後、粛々と進められていくのです。 

(6)体を差し出すイエス

 イエス・キリストのアンナスへの返答を聞いていた下役の一人が、「大祭司に向かって、そんな返事のしかたがあるか」(22節)と言って、イエスを平手打ちにしました。「お前はどなたと話しているのか分かっているのか」という風に、イエス・キリストをしかったのです。これも滑稽な情景です。この下役のほうこそ、今、自分の目の前にいるのがどなたであるか、分かっていない。彼はいかにも権力におもねる人間です。権力をもっている人間と、そのまわりを取りまいている人間。それに対して、地上的な意味では、何も持たず、しかも手が縛られている状態で、イエス・キリストが立っている。この対比の中で、むしろイエス・キリストの力強さ、真の権威が浮き上がっているように思うのです。
この下役がイエス・キリストを平手打ちした時、イエス・キリストは、「何か悪いことをわたしが言ったのなら、その悪いところを証明しなさい。正しいことを言ったのなら、なぜわたしを打つのか」(23節)と語られました。この言葉を聞いて、下役は恐らくひるんだのではないでしょうか。ちなみにこの言葉は、ヨハネ福音書が書かれた当時(紀元90年代)、教会が根拠のない言いがかりによって迫害を受けていたということが反映されていると言われます。
また「あれ?イエス様は、『誰かがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい』(マタイ5:39)」と言われたのではなかったか」と思われる方もあるかも知れません。確かに、イエス・キリストは、口では相手を批判されていますが、体は、左の頬どころか、体全体を差し出して、ここに立っておられます。ここに受動的ではなく、能動的、積極的に十字架に向かっていくイエスの姿があります。
ちなみに、この「何か悪いことをわたしが言ったのなら、その悪いところを証明しなさい」という言葉が、ヨハネ福音書が書かれた当時(紀元後90年代頃)の教会が、そのような証拠のない言いがかりで迫害を受けていたことが反映されていると言われています。
受難物語を読んでいると、人間の罪の現実、謀略、あさましさ、そういうものを見せつけられる思いがいたします。私たち自身もイエス・キリストを裁く側に立っていることを思わざるを得ません。

(7)映画「パッション」

「パッション」という映画を、ご存じでしょうか。2004年に、メル・ギブソンという有名な映画俳優が監督を務めた映画です。残虐なシーンが次々と出てくるので、封切当時、世界中で賛否両論が巻き起こり、大きな話題になりました。実は、この映画の中に、監督を務めたメル・ギブソン自身が一瞬だけ出てくるのです。俳優ですから、それは当然ありうるでしょうけれども、出方が変わっているのです。顔は出てこない。手だけが出てきます。それは横たわった十字架にイエス・キリストを釘付けにする場面、ハンマーで打ち付ける場面です。あのハンマーを持つ手が、メル・ギブソン自身の手だということです。なぜそんなことをしたのかと言うと、「イエス・キリストを十字架につけたのは、他ならぬ私である」と、自分に思い起こさせるためだというふうに語っています。
私たちは、「イエス・キリストを十字架につけたのは、他ならぬ私である」とわかる時に、同時に、それを赦してくださるイエス・キリストの偉大さもわかるのではないでしょうか。イエス・キリストは、私のためにも体をはって立っておられる。引こうと思えば引けたはずのイエス・キリストが引かないで、私を赦すために立っておられる。そのことを深く心に留めたいと思います。
カイアファの「一人の人間が民の代わりに死ぬ方がよい」という言葉は、私にも妥当している。イエス・キリストは、この当時の人々のためだけではなく、私たちのためにも、そして他ならぬ私のためにも、代わりに死んでくださったのです。

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