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2021年4月11日説教「聖書に親しみ、み言葉を蓄えよう」松本敏之牧師

詩編119編103~112節  ヨハネによる福音書14章15~26節

(1)礼拝での朗読聖書変更

先週から2021年度が始まりました。鹿児島加治屋町教会では、今年度から主日礼拝における朗読聖書を、これまでの新共同訳聖書から2018年12月に出版された新しい聖書協会共同訳聖書に切り替えることになりました。

「聖書協会共同訳」というのは随分長い名前です。当初は「標準訳」という名前を考えていたようですが、それ以外の訳が「標準」的でないかのような誤解を生むということで、かなりぎりぎりのタイミング(出版の1年前)で「聖書協会共同訳」になったように思います。私としては、「標準訳」が出たら、世に出そうと思っていた川柳がありました。「標準訳?東京弁やと思うけど」。

そういうのを考えていたのですが、名前が変わってしまいましたので、幻の川柳となってしまいました。それにしても「聖書協会共同訳」という呼び方は長いので適当な略称がないのかと思っていましたが、昨日説教準備で読んでいた資料の中で、「協会共同訳」という呼び方をしておられる方がありましたので、私もそう呼ばせていただきます。

(2)変わらない言葉を変わりゆく世界に

さて3月28日の定期教会総会でも、「なぜ聖書を変更するのか」という質問がありました。これまでも何度か触れてきていますが、改めて今日はそういう話をしたいと思います。新しい「協会共同訳」聖書の帯には「変わらない言葉を変わりゆく世界に 31年ぶり、0(ゼロ)からの翻訳」と記されています。この言葉は、この聖書の特徴をよく表していると思います。今回の協会共同訳は、新共同訳をもとに改訳したわけではありません。一からというかゼロから訳し直しています。

聖書の言葉は、基本的に昔から変わらないものですが、私たちの世界は変化しています。それと共に言葉も変化しています。同じ日本語でも30年前の日本語と今の日本語では随分変わってきています。

これまでの新共同訳聖書が1987年の発行でしたので、日本聖書協会としては31年ぶりの新しい翻訳です。その前のいわゆる口語訳聖書は、1955年の発行でしたから、新共同訳聖書まで32年の期間がありました。もうひとつ溯れば、いわゆる文語訳聖書の大正改訳と呼ばれるものが1917年の発行でしたから、口語訳聖書まで38年の期間がありました。大体30数年に一度新しく翻訳し直されています。日本聖書協会としてはそのように時代に対応してきたということでしょう。「もう変わるの。この前、新共同訳になったばかりだのに」と思われる方もあるかもしれませんが、知らないうち、皆さん、それだけ年を取っているということであり、実は特に早いというわけではありません。

(3)不快語、差別語、難解語の変更

たとえば30年前は何とも思わなかったけれども、今では古く感じる言葉があります。あるいは不快に感じる言葉があります。新共同訳聖書で、「婦人たち」と訳されていた言葉は、協会共同訳では「女たち」となりました。また「兄弟」という言葉は漢字で記されていましたが、協会共同訳ではひらがなで「きょうだい」となりました。そこには「女性たちも含まれていますよ」という意味が込められています。「はしため」という言葉も差別的だということで「仕え女」になりました。

また神が人間に語る言葉は、新共同訳では、しばしば「お前」「お前たち」と訳されていましたが、これは現代においては不快だという意見があり、「あなた」「あなたがた」となりました。会社でも上司から部下を呼ぶ時、学校でも教師が生徒を呼ぶ時「お前」「お前たち」とはあまり言わなくなったのではないでしょうか。差別的な言葉も、大分注意して訳し直されています。

また今までわかりにくいとされてきた言葉は、より分かりやすい言葉になりました。たとえば神様が人間に与えるもの(ナハラー)を「嗣業」と訳していましたが、日本語として一般的に定着していないので、土地の場合は「相続地」と訳され、民の場合は「所有の民」と、訳し分けられています。

さらに最新の学問の成果をできるだけ取り入れています。考古学、文献学、社会史、フェミニズム、そう言った分野は、日々進歩しています。動物、植物、宝石などの同定もそうです。たとえば、香辛料の名前も、これまで「薄荷、いのんど、茴香」と訳されていたものは「ミント、ディル、クミン」になりました(マタイ23:23)。

また昔の聖書で「らい病」(ツァラアト、レプラ)と訳されていたものは、学問的にも、これはいわゆるハンセン病とは別の病であることがわかってきまして、新共同訳聖書も途中から「重い皮膚病」に変わりました。今回の協会共同訳では、それでも差別的な意味合いがあるということで、「規定の病」になりました(マタイ8:2等)となりました。そして巻末に詳しい用語解説が付けられています。

(4)礼拝での朗読にふさわしい翻訳

さて前後しましたが、今回の協会共同訳聖書の最も大事な特徴は「礼拝での朗読にふさわしい翻訳」ということです。ですから直訳に近い逐語訳をめざすのでもなく、わかりやすくし過ぎて説明調になるのでもない。新共同訳聖書はやや説明調の傾向がありました。まどろっこしい。聖書らしい荘重さと威厳があると思います。きりっとした感じがします。その点では、少し以前(1955年)の口語訳に戻ったような面もあります。さらに翻訳委員には、聖書のもとの言葉であるヘブライ語、ギリシア語の専門家だけではなく、日本語の専門家や文学者も入れられました。そして何度もキャッチボールをしたり、読み合わせをしたりして、礼拝の朗読の際に、耳で聞いても分かる日本語をめざし、最終的な訳文が仕上がっていきました。翻訳の準備を始めてから10年の歳月をかけて、そして何百人(もしかするとそれ以上かもしれません)という人々がかかわって完成した聖書です。聖書朗読を主な目的としてできた翻訳です。私たちも(もちろん私を含めて)これから何年礼拝にあずかれるかわかりません。できるだけ早く、できるだけ長くこの恵みにあずかりたいと思って決断をいたしました。

もちろんご自分の手元で読む分には、これまでの新共同訳を見ていただいて全く問題ありません。かえってそのほうが、「どこが新しくなったかがよくわかって興味深い」ということもあるかもしれません。

さてそうしたことを踏まえて、新年度の年間主題は「聖書に親しみ、み言葉を蓄えよう」といたしました。ですから第一義的には、新しい聖書協会共同訳聖書になじみ親しんでいただきたいということがあります。そしてみ言葉を蓄えていただきたいと思います。新共同訳聖書に比べると、暗唱しやすくなったのではないかと予想しています。

(5)聖書全巻通読へのチャレンジ

また聖書が新しくなったのを機に、ぜひ皆さんに、聖書全巻通読にチャレンジしていただきたいと思います。もちろん聖書協会共同訳で、ということを第一義的に考えたことですが、それ以外の聖書でもかまいません。あるいはこの機会に、外国語の聖書、たとえば英語で読んでみるというチャレンジをなさってもよいかもしれません。

教会としてもそのことを願って、聖書通読計画表を作成いたしました。すでに読み始めておられる方も多いと思いますが、今からでもどうぞ加わってください。途中から加われた方は最初にさかのぼって追いついていただくのも一つですが、その日の箇所から読み始めていただいてもよいでしょう。最後まで行ったら、旧約の通読チャレンジを始めることを考えていますが、同時に、新約聖書通読も2周目を、同じ順序で始めますので、読み始めた箇所でそこで完読できるように考えています。完読というのはいい言葉ですね。置いておくだけで読まないことを「ツンドク」と言いますが、「ツンドクから通読へ」、これもキャッチコピーとしてなかなかいいのではないでしょうか。これまでの聖書で通読されたことのある方も、初めての方もぜひ一緒に読み進めて行きましょう。教会で、「先週の箇所、難しかったねえ」とか、「いや、そうでもないけど」とか、聖書通読のことを話題にすると励みになるかもしれません。ある方は「その日のところを塗りつぶすのは快感です」と言っておられました。通読計画表は受付に置いてありますし、公式ホームページからもダウンロードできるようにしてあります。

私も毎週ではありませんけれども、随時、できれば月に一度か二度ほど、その日曜日の前後の聖書日課の箇所で、その書物の説明も含めて、説教をしたいと考えています。通読表の当該箇所を塗りつぶしていただくか、聖書そのものに鉛筆で日付を書き込むか。 また通読する順序も、福音書ばかり、また手紙ばかり続いて飽きないように、取り交ぜて並べました。マルコ福音書から始めます。

なぜマルコによる福音書から始めるのかといえば、これが一番先に書かれた福音書であり、これをもとにして、マタイ福音書とルカ福音書は書かれています。マルコ福音書に描かれているイエス・キリストが一番原型に近いと言われます。生のイエス・キリストを一番伝えているのはマルコ福音書だと言われますので、ここから読み始めるのがよいだろうと考えました。マルコ福音書にはいわゆるクリスマス物語はなく、いきなりイエス・キリストが公的な活動を始められた30歳の頃から受難までのおよそ3年間(公生涯、パブリック・ライフと呼ばれます)のことだけを記しています。

(6)「あなたの言葉は私の足の灯、私の道の光」

さて、「聖書に親しみ、み言葉を蓄えよう」という年間主題から、例年のように、旧約と新約、それぞれから年間聖句を選びました。
まず旧約聖書は詩編119編105節の「あなたの言葉は私の足の灯、私の道の光」という言葉です。この言葉も、実は新共同訳聖書から少し変わりました。新共同訳聖書では「あなたの御言葉は、わたしの道の光、わたしの歩みを照らす灯」という訳でした。順序が逆になり、「わたしの歩みを照らす灯」から「私の足の灯」になりました。前のほうが、趣があってよかったと思う方もあるかもしれませんが、今度のほうが原文のニュアンスに近いですし、しかも短くて覚えやすいということもできるでしょう。

(7)主イエスの「別れの説教」

新約聖書のほうは、ヨハネ福音書14章23節の「私を愛する人は私の言葉を守る」という言葉を選びました。こちらは「わたし」が平仮名から漢字になっただけで同じ言葉です。

ヨハネ福音書13章の後半から16章の終わりまでは、イエス・キリストの「別れの説教」と呼ばれます。イエス・キリストが十字架にかかる前夜に、弟子たちに語ったとされる、遺言のような言葉であります。実際にはその時、一気に語られたのではなく、さまざまな時に語られた言葉がここに集められたのだろうとも言われますが、まさにこれから去って行こうとする、イエス・キリストの気持ちがよく表れています。

先ほどお読みいただいた言葉の中の、16節のところで、こう語られました。

「私は父にお願いしよう。父はもうひとりの弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」(ヨハネ14:16)

弁護者とは、聖霊と言い換えることもできます。体をもったイエス・キリストは去っていくけれども、体をもたないがゆえに、かえっていつでもどこでも私たちと共にいてくださることが可能になったとも言えます。そしてこう続けられます。

「私はあなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る」(ヨハネ14:18)。

これが弁護者。聖霊です。これは有名な言葉で、とても励まされる言葉です。早速、皆さんに暗唱して覚えていただきたい、そういう言葉です。

イエス・キリストはさらに「しばらくすると、世はもう私を見なくなるが、あなたがたは私を見る。私が生きているので、あなたがたも生きることになる」と言われました。しばらくやり取りした後、「イスカリオテではないほうのユダ」というお弟子さんがこう尋ねるのです。「主よ、わたしたちにはご自分を顕そうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、なぜでしょうか」。

(8)「私を愛する者は私の言葉を守る」

それに応えて、語られたのが、年間聖句の言葉です。「私を愛する者は私の言葉を守る」。そしてそれに続けて、「私の父はその人を愛され、父と私とはその人のところに行き、一緒に住む」という約束の言葉を語られました。

この言葉は、やはり私たちをとても励ましてくれる言葉であると思います。ここで「私を愛する人」ということを「私の言葉を守る」ということが一続きで語られていますが、「私の言葉を守る」というのは、ただ単にイエス・キリストの言葉を知る。あるいはそれを覚えるだけではなくて、「それを行う。」「み言葉を実践する」ということまで含んでいるのだと思います。イエス様の言葉を守り、行うということこそ、イエス様を愛するということでしょう。なぜならば、イエス様が大事にされたことを私たちも大事にする、ということが、イエス様を愛することに他ならないと思うからです。

しかしそれは条件のように、つまり「私の言葉を守る人のところにだけ共にいる」というふうに、考えないほうがよいと、私は思います。先ほど申し上げたイエス様の約束の言葉、「私はあなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る」という言葉は無条件で、私たちに与えられている約束でしょう。しかしその約束を私たちが受ける時には、そのイエス様の言葉を守って、イエス様を愛して生きていくようになる。そういうふうな促しが含まれているのではないでしょうか。

私たちは、イエス様の約束の言葉を受けると同時に、イエス様の言葉を守り、その言葉を実践する者として生きていくようになりたいと思います。この1年も、そうしたことを心に留めて過ごしてまいりましょう。

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