1. HOME
  2. ブログ
  3. 2021年8月15日説教「死から命へ」松本敏之牧師

2021年8月15日説教「死から命へ」松本敏之牧師

ヨハネ福音書5章17~30節

(1)召天者記念礼拝は延期

新型コロナウイルス感染症が全国的に拡大しています。鹿児島でも8月6日に「爆発的感染拡大警報」が発令され、できるだけ外出を自粛するようにという要請がありました。これを受けて、鹿児島加治屋町教会では、本日8月15日と22日、29日の3回の礼拝を、動画配信のみとすることにいたしました。9月以降のことについては、改めて通知させていただきます。

本日は、鹿児島加治屋町教会では、例年のように、お盆の帰省シーズンにあわせて召天者記念礼拝を行う予定でしたが、それも中止することになりました。昨年の8月も行うことができませんでした。来年の8月に3年間の召天者を記念して礼拝を行うか、あるいは別の時期(たとえば、日本基督教団の永眠者記念日である11月第一日曜日)に行うか、これも状況を見ながら判断していきたいと思います。

ただし説教に関して言えば、召天者記念礼拝を心に留めて「死から命へ」という説教題にして、聖書箇所も召天者記念礼拝にふさわしいものとして選んだものでありますので、召天された方々のことを心に留めてお話しさせていただきます。

ヨハネ福音書第5章17~30節を読んでいただきました。この箇所は、何かの出来事ではなく、主イエスの説教とでも言えるような長い話ですので、少しわかりづらいかも知れません。このところには、イエス・キリストがどういうお方であるかということがよく示されています。この箇所を通して、イエス・キリストがどういうお方であるかということを三つの点から、お話ししてみたいと思います。

(2)父なる神と一体のお方

第一は、「イエス・キリストは父なる神と一体の方である」ということです。こう記されています。

「子は、父のなさることを見なければ、自分からは何もすることができない。父がなさることは何でも、子もそのとおりにする。父は子を愛して、ご自分のなさることをすべて子に示されるからである。」(ヨハネ5:19~20)

イエス・キリストは、父なる神と一体であり、父なる神のお考え通りに、この地上で働かれる方だと言うことです。イエス・キリストのほうでもそうであるし、父なる神のほうでも、イエス・キリストを愛して、すべてを示したというのです。そして少しとばして、22~23節では、こうと語られました。

「また、父は誰をも裁かず、裁きはすべて子に委ねておられる。すべての人が、父を敬うように、子を敬うためである。子を敬わない者は、子をお遣わしになった父をも敬わない。」(ヨハネ5:22~23)

この言葉は、当時のユダヤ人たちを驚かせ、怒らせたことでありましょう。ユダヤ教では、どんなにすぐれた人間であっても、父なる神との間に一線がひかれていたからです。この世に生を受けた人間が、父なる神の子である、そして神に等しい者であるということは考えられないし、許されることではありませんでした。それは父なる神に対する冒涜であったと考えられました。

主イエスはこの言葉に先立って、17節でも「私の父は今もなお働いておられる。だから私も働くのだ」と、自分と父なる神が一つであることを遠回しに語られましたが、それを聞いて、「このためにユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうと付け狙うようになった。イエスが安息日を破るだけではなく、神を自分の父であると言い、自分を神と等しい者とされたからである」(18節)と記されています。

しかしながら、そこにこそキリスト教のキリスト教たるゆえんがあるのです。その点が、キリスト教が他の宗教と違うところです。キリスト教において、イエス・キリストは、ただ単に一人の優れた預言者であっただけではありません。あるいはキリスト教の教祖というのでもない。確かにイエス・キリストはすぐれた預言者でありました。父なる神の意志を人々に伝える、優れた器でありました。しかしそれを超えて、つまり預言者として指し示す方であると同時に、救い主として指し示される方であった。それがキリスト教の大きな特徴、と言いますかメッセージであります。

(3)復活の主であるお方

第二のポイントは、「イエス・キリストは復活させられた方であり、同時にまた私たちを復活させてくださる方である」、ということです。そしてまた、イエス・キリストこそ、命の主であり、命をお与えになる方です。先ほどの5章20節の後半は、このように続いています。

「また、これらのことよりも大きな業を子にお示しになって、あなたがたは驚くことになる。父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、自分の望む者に命を与える。」(ヨハネ5:20~21)

「これらのこと」というのは、5章の最初に出てきた奇跡、つまり歩くことのできなかった病人を立ち上がらせ、歩けるようにさせられた出来事のことでしょう(ヨハネ5:8~9)。その中の「起きて(起きよ)」という言葉は、実は「死人よ、よみがえれ」という言葉と同じ言葉なのです。つまり、足の歩けない人を立ち上がらせた出来事は、死者の復活をも指し示していたのだと言えるでしょう。そして、このようにもおっしゃっています。

「よくよく言っておく。私の言葉を聞いて、私をお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁きを受けることがなく、死から命へと移っている。」(ヨハネ5:24)

何と力強い宣言であり、何と大きな慰めでしょうか。ここに「よくよく言っておく」と語られています。この言葉は、何か大事なことを語られる時の定型句であったようで、聖書の中に何度も現れます。今日の箇所でも、この24節の他に、19節、25節でも使われています。新共同訳聖書では、「はっきり言っておく」、文語訳聖書では「誠にまことに汝らに告ぐ」と訳されておりました。威厳のある言い方です。この「よくよく」とか「はっきり」とか「誠にまことに」というのは、なかなか訳すのが難しいのです。訳さない方がかえってわかりやすいかも知れません。これは原語では「アーメン、アーメン」という言葉なのです。「アーメン」というのは、「その言葉は真実です」というような意味です。ですから私たちはお祈りの終わりに、「アーメン」と唱えますけれども、それは「その言葉は真実です」と、みんなで唱和するしるしなのです。

(4)聖書の言う「死」と「命」

さて、この言葉の内容ですが、それは「イエス・キリストの言葉を聞いて、神を信じる者は死から命へと移っている」ということです。この言葉が意味する「死」とか「命」とか言うのは、私たちの肉体的な死や命、あるいは生物学的な死や命ということを超えたものを指し示しています。

聖書が言う「命」というのは、神様とつながっている状態のことなのです。逆に「死」とは、神様から切り離された状態というふうにお考えくだされば、よいのではないでしょうか。ですから私たちが肉体的な死を経験していても、神様とつながっているならば、「命」は途絶えないのです。逆に肉体的には生きていても、心臓が動いて、脳が動いていても、神様から切り離されているならば、それは死んでいることになると、言わなければならないかも知れません。

しかしそれは、私たちに身近な存在として、私たちのもとに来てくださったイエス・キリストにつながることによって回復する。イエス・キリストにつながる時、私たちは死すべき存在であっても、死んだのと同じ状態であっても、再び命の中へ入れられる。死から命へと移されるのです。それが聖書の語る真理、聖書の語るメッセージです。

そして「よくよく言っておく」と、もう一度繰り返して、次のように告げるのです。

「死んだ者が神の声を聞き、聞いた者が生きる時が来る。今がその時である。」(ヨハネ5:25)

この言葉は、聖書の時代を超えて、私たちに告げられたイエス・キリストの力強い約束ではないでしょうか。「私につながれ。わたしとつながって命を得よ。私の声を聞いた者は生きるのだ。」そのように、イエス・キリストの声は、私たち一人一人に向かって告げられているのだと思います。

(5)裁きの権能をもつお方

第三のポイントは、「イエス・キリストは、裁きの権能を父なる神から授かっておられるお方である」と言うことです。

「また、父は裁きを行う権能を子にお与えになった。子は人の子だからである。このことで驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞く。そして、善を行った者は復活して命を得るために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るであろう。」(ヨハネ5:27~29)

この言葉は、私たちを戸惑わせるかも知れません。それは一見、「いいことをした人間は天国へ行き、悪いことをした人間は裁かれて地獄へ行く」という、いわばどこの国にでもある、あるいはどの宗教にもあるような、因果応報の考えをあらわしているように見えるからです。確かにそのことと無関係ではありません。私たちはそのように自分の生活、行いを、神様の裁きという視点から見ておかなければならないでしょう。しかしそういうことを前提としながら、聖書のメッセージはそうした考えを超えているのです。

聖書は、人間の行った善いことと悪いことを天秤にかけて、善いことの方が重かった人間を天国へ送り、悪いことの方が重かった人間を地獄へ送るという考えではありません。むしろそのようにするならば、「誰一人として、救われる者はいない」ということを告げています。「誰一人として裁きを免れ得ない。誰一人として救われない」というのです。

先ほど、「これらのことよりも大きな業を子にお示しになった」(20節)というのを、キリストの復活を指し示していると申し上げましたが、もっと厳密に言えば、その前に十字架があったということを見落としてはならないでしょう。もっと「大きな業」というのは、十字架と復活の両方を指し示している、ということであります。

(6)洗礼を受けずに死んだ人はどうなるのか

私たちはこの大きなキリストの恵みの御業、十字架の上で、イエス・キリストがなさった業の意味を単純化、矮小化してはならないと思うのです。つまり「だから洗礼を受けたクリスチャンは命を得て救われ、洗礼を受けていない人は裁かれて、天国へ行けない」というふうに理解してはならないと思います。裁きは神様の領域に属する事柄です。私たちの領域ではありません。このところの言葉で言えば、イエス・キリストにこそ、その権能が授けられている事柄なのです。

確かに「私の言葉を聞いて、私をお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁きを受けることがなく、死から命へと移っている」(24節)と書いてあります。この言葉は、そのまま信じてよい言葉でありましょう。それは私たちに与えられた聖書の約束です。そして私たちはそのように生きるように促されていることも確かでしょう。

ただ私たちは、実際には、そして私たちのまわりを見る時には、そのように導かれずに死んでいった人も大勢知っています。そうした人々は一体どうなるのだろうと、多くの人は考えるでしょう。私も考えます。

(7)子は自分の望む者に命を与える

しかし私は、「そのような人々もすべて、イエス・キリストのよき御手の中に置かれているのだ」ということを信じるのです。

なぜならば、こういうふうに書いてあるからです。「子も、自分の望む者に命を与える。また、父は誰をも裁かず、裁きをすべて子に委ねておられる。」(21~22節)

そして、その子なるイエス・キリストは、すべての人のために祈り、すべての人のために十字架にかかられた方であるからです。十字架の上で死んでいきながら、自分に敵対し、自分を十字架にかけた人々のためにまで、こう祈られました。

「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているか分からないのです。」(ルカ23:34)

これが、イエス・キリストの最後の切実な祈りでありました。この祈りに、今日のヨハネ福音書の「子も、自分の望む者に命を与える。」という言葉と重ね合わしてみます。そうすると、「自分が何をしているか分からない人もゆるされて、命が与えられる」というのが、イエス・キリストの望みであることがわかります。そしてさらに父なる神も、「誰をも裁かず、裁きをすべて子に委ねておられる」と言われるのです。

ですから私は、そのイエス・キリストの十字架上の祈りがむなしく終わるということは考えられませんし、そのイエス・キリストの十字架よりも重い罪というものを想像することもできません。そしてイエス・キリストがそのように十字架の上で広げられた両手の中に、入りきらないような滅びの世界があるということは、私には考えられないのです。イエス・キリストがそのように祈られた方であることを知っているからこそ、「子も、自分の望む者に命を与える。また、父は誰をも裁かず、裁きをすべて子に委ねておられる」という言葉の中に、私は大きな希望と限りない慰めを見るのです。

私たちの死と命、それは私たちの手を超えたところで神様の御手の中にある。そしてイエス・キリストの御手の中にあるということを深く心に留めたいと思います。

関連記事