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2024年1月14日説教「不 在」松本敏之牧師

出エジプト記24章1~18節
ヨハネによる福音書16章15~7節

(1)契約の締結

月に一回くらいのペースで、出エジプト記を読み進めていますが、本日は24章から御言葉を聞いていきましょう。24章の12節以下で、モーセが一時、民のもとを離れたことが記されています。

「そこで、モーセとその従者ヨシュアは立ち上がり、モーセは神の山に登った。モーセは長老たちに言った。『私たちがあなたがたのところに帰るまで、この場所で待ちなさい。……そこで、モーセは雲の中に入り、山に登った。モーセは四十日四十夜山にいた。』」24:13~14、18

モーセが不在になった後、民は不安になります。しかし不在には不在の意味があります。モーセが新しくされて帰ってくるために、それは必要な期間でありました。イエス・キリストも、復活された後、40日地上で過ごされ、天に昇って行かれました。弟子たちは不安になったことでしょう。

ペンテコステの10日前は、教会の暦では昇天日と定められています。昇天日とは、イエス・キリストが復活し、40日間、この地上で過ごされた後、天に上げられたことを覚える日です(使徒1:3~11参照)。そしてその10日後に、聖霊として帰ってこられますので、この10日間は、いわばイエス・キリストの不在期間であったと言えるかも知れません。

もちろん、そこにも意味があります。いつでも、どこでも、どんな時に私たちと共にいるために、しばしの間、去って行かれたということです。このことについては、後でもう一度触れます。

さてこの24章は、「契約が結ばれる」と題されています。神様がモーセに現れて、十戒を与えられ(20:1~17)、さらに契約の書を与えられる(20:22~23:33)。この二つの大事なものを与えられた締めくくりの物語であります。

契約付与の話は19章から始まっていましたが、その最初の部分ですでに、モーセが「民の長老たちを呼び寄せ、主が命じられたこれらの言葉をすべて彼らの前で語った」(19:7)ということが、記されていました。それに対し、民は皆、口をそろえて、こう答えました。「私たちは、主が語られたことをすべて行います。」(19:8)

この応答とほぼ同じ言葉が、しめくくりの24章にも出てきます。

「さて、モーセは戻って来て、主のすべての言葉とすべての法を民に読み聞かせた。民は皆声を一つにして、『主が語られた言葉をすべて行います』と答えた。」24:3

さらに7節でも、「主が語られた言葉をすべて行い、聞き従います」(24:7)と繰り返されています。ここに神様と神の民との契約が成立いたします。

「そこで、モーセは血を取り、民の上に振りかけて言った。『これは、主がこのすべての言葉に基づいてあなたがたと結ばれる契約の血である。』」24:8

しかしこの民の応答は、「返事はいいけれども、行動が伴わない」ということになっていきます。そのために神様は心を痛め、やがて大きな決断をして、神の民のために新たな契約を備えられることになるのです。この箇所は、そうした神様の今後のご計画を予見させるような内容を含んでいますが、テキストに従って見てまいりましょう。

(2)アロン、ナダブ、アビフ

「あなたは、アロン、ナダブ、アビフ、およびイスラエルの七十人の長老と共に主のもとに登り、遠くからひれ伏しなさい。モーセだけは主に近づくことができるが、他の者は近づいてはならない。民はモーセと共に登ってもいけない。」24:1

ナダブ、アビフというのはアロンの息子、長男と次男です。この二人は、神様の御心に背いたということで、若くして神様がその命を取られることになります(レビ記10:1~2)。この二人の下には、更にエルアザルとイタマルという二人の弟、三男、四男がいるのですが、この二人は、アロンの継承者として生き延びて、祭司の家系を作っていくことになります(レビ記10章参照)。今日の出エジプト記24章の段階では、この三男、四男はまだ幼かったのか、生まれていなかったのか、ここには登場しません。

モーセは、アロン、ナダブ、アビフおよびイスラエルの70人の長老を連れて、主のもとに行くのですが、モーセ以外の人々は、「遠くからひれ伏しなさい」とあります。この頃、神様に近寄った者、特に神様を見た者は必ず死ぬというふうに言われていました。それだけ神様は、聖いお方であって、汚れた者は死ぬと信じられていました。それゆえモーセだけが近づいていくのです。

彼らがよい返事をした後で、「モーセは主のすべての言葉を書き記し、朝早く起きて、山の麓(ふもと)に祭壇を築き、イスラエルの十二部族にちなんで十二の石柱を立て」ました(4節)。12というのは特別な数字であり、そこに全イスラエルの代表がいるということの象徴でしょう。

「モーセはイスラエルの人々のうちから若者を遣わした。彼らは数頭の雄牛を焼き尽くすいけにえと会食のいけにえとして主に献げた。」24:5

聖い神様の前に出るのに、献げ物をしなければならない。動物のいけにえ、その血によって清めていただく。まだ祭司制度が整っていませんので、若者たちがそのために遣わされたのです。

(3)聖餐式の下敷き

そしてこの後は、まずその血を二つに分けます。そして半分を鉢に入れて、残り半分を祭壇に振りかけるのです。半分が民の側にあり、半分が神様の側にあって、それによって契約が交わされているということでしょう。そしてモーセは「契約の書」を取って、一つ一つ声に出して読んで聞かせました。人々が「すべて行い、聞き従います」と声に出して、誓いの言葉を述べると、モーセは半分の鉢の方の血を取って民の方に振りかけ、こう宣言するのです。

「これは、主がこのすべての言葉に基づいてあなたがたと結ばれる契約の血である。」24:8

これはイエス・キリストの聖餐式の予型(プロトタイプ)、下敷きと言えるのではないでしょうか。

「この杯は、私の血による新しい契約である。飲む度に、私の記念としてこれを行いなさい。」コリント一11:25

イエス・キリストは、それまでの契約とは違う「新しい契約」を立てると言われましたが、それは、イエス・キリストご自身の血(犠牲)によって、なされなければなりませんでした。その前提となっている、そもそもの古い契約が、今日の箇所に記されているのです。

「アロン、ナダブとアビフ、およびイスラエルの七十人の長老と一緒に主のもとに登り」(1節)とありましたが、9節でその命令が実行に移されます。

「イスラエルの神を仰ぎ見た。その足の下にはラピスラズリの敷石のようなものがあり、澄み渡る天空のようであった」24:10

ラピスラズリは、青く、透明な、澄んだ宝石です。それは大空の色を指し示すものであります。その足の下に、このラピスラズリがいっぱいあったと言うのです。

「神はイスラエルの人々の指導者たちを手にかけなかったので、彼らは神を見つめて、食べ、また飲むことができた。」24:11

これは不思議な光景です。こういう形、つまり神様を見つめて食事をし、飲んで、しかも死ななかったというのは、旧約聖書でここだけに記されていることです。神様が手にかけなかったというのは、彼らがそれによって死ななかったということを意味しています。神様が共におられるところで飲み食いをする。これもまたイエス・キリストによって制定される聖餐式の前触れ、先駆けと言えるのではないでしょうか。

(4)石の板に刻まれた

モーセは、その後、再び神様の声を聞き、山に登っていきます。

「山に登り、私のもとに来て、そこにいなさい。私は彼らに教えるために、律法と戒めを書き記した石の板をあなたに授ける。」24:12

いよいよ十戒が刻まれた石の板を授かるのです。モーセは後に後継者となっていくヨシュアと共に山へ登って行くのですが、長老たちにこう言いました。

「私たちがあなたがたのところに帰るまで、この場所で待ちなさい。ここに、アロンとフルがあなたがたと共にいる。」24:14

アロンは、モーセの兄弟です。フルについては、よくわからないのですが、モーセの姉ミリアンの夫ではないかと言われます(ヨセフス)。

(5)モーセの不在

モーセは、山に登って行って、そのまま帰ってこなかったというのではありません。この後、新しい形で、神様の言葉をしっかりと携えて、神様と人間の仲保者として立てられたことを、身に帯びて帰ってきます。いわば民の中に帰ってくるために、しばしの間、不在となったということができるでしょう。

しかしそのモーセの不在期間に一体何が起こったかを、やがて読むことになります。モーセがいない間に、だんだん神様のことがわからなくなってくる。神様が共におられるということが信じられなくなってくる。そしてアロンに頼んで、「金の子牛を造ってくれ」と言うようになるのです。偶像です。神様が共におられることがわからなくなる時に、私たちは別のものに頼りたくなります。そうした人間の弱い思いをよく表す出来事であると思います。やがてモーセは帰ってきて、その情景を見て憤慨します(32章参照)。そのために再び戒めが与えられなければならなくなります(34章参照)。しかし戒めが再び与えられても、イスラエルの民は、神様との契約の相手としてふさわしくその歩みを全うできませんでした。

(6)新しい契約

普通、契約というのは、どちらかが約束を守らない場合、破棄されることになります。しかし神様と私たち人間の間の契約は、それで破棄されてよいものなのか。神様ご自身が、「いやそのようなこと、人間の不信仰によって、不服従によって、破棄されてはならない」と自問自答し、ある決意をされるのです。神様は何をなさるのか。新しい契約を、イスラエルの民の中に送られるのです。それは旧約聖書と新約聖書を結ぶ大事な、そして美しい言葉です。ぜひ覚えてくださるとよいでしょう。

「その日が来る――主の仰せ。私はイスラエルの家、およびユダの家と新しい契約を結ぶ。それは、私が彼らの先祖の手を取って、エジプトの地から導き出した日に結んだ契約のようなものではない。」エレミヤ31:31

この「かつて結んだ契約」こそ、私たちが今読んでいる出エジプト記24章の「契約」です。

「私が彼らの主人であったにもかかわらず、彼らは私の契約を破ってしまった∸―主の仰せ。その日の後、私がイスラエルの家と結ぶ契約はこれである――主の仰せ。私は、私の律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心に書き記す。」エレミヤ31:32~33

最初の契約は、「石の板」に記されましたが、「新しい契約」は、石の板ではなくて、「胸の中に授け」、「心に書き記す」というのです。

「私は彼らの過ちを赦し、もはや彼らの罪を思い起こすことはない。」エレミヤ31:34

これがエレミヤに与えられた神様の新しい契約の約束です。ちなみに「新約聖書」の「新約」という言葉は、このエレミヤ書31章31節に由来しています。古い契約(旧約)に対する新しい契約(新約)ということなのです。

(7)いつも共にいるために

神様は神の民が不信仰に陥って、そこから去ってしまう時にも、決して見捨てられない。神の民であり続けるために、直接、心にその律法を記すと約束されました。それはイエス・キリストという形で、この地上に実現した。私たちクリスチャンは、そのように信じるのです。

イエス・キリストは、30年間、この地上に、「神が私たちと共におられる」ことをはっきりと伝えるために、人間という形で共に過ごされました。十字架にかかり、死に、そして復活され、さらに40日の間、復活した体で、この地上で過ごされました。聖書によれば。

しかし肉体をもったイエス・キリストは、ある場所とある時間の中におられ、限定されています。私たちのように遠い日本の、しかも2000年の後に生きている者と共にいることはできません。

イエス・キリストが来られたのは、神様の約束、「神が私たちと共におられる」という約束が実現するためでしたが、それが普遍的に妥当するために、「昇天」という出来事は起こらなければならなかったのです。天に昇って、聖霊という新しい形で、いつでもどこでも私たちと共にいてくださる神様として、新たに降られるのです。

今日は、ヨハネ福音書16章の言葉を読んでいただきました。

「実を言うと、私が去って行くのは、あなたがたのためになる。私が去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。私が行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。」ヨハネ16:7

肉体をもったイエス・キリストが去って行くことによって、肉体から自由になった、聖霊という弁護者があなたがたのところへ帰ってくる、と約束されたのです。

「私は、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。」ヨハネ14:18

イエス・キリストの力強い約束です。イエス・キリストが聖霊として共にいてくださる。しかしながら、その聖霊は目に見えないものですから、私たちは、あのモーセの時代の神の民と同じように、「神様は、本当に私と一緒にいてくださるのだろうか」と、不安になることもあるでしょう。どんなに強い信仰を持っていても試練が来た時に、そういう気持ちになるものです。しかしながら、「イエス・キリストは再び帰ってこられる」という約束の中で、信仰はより確かな希望に変えられていくのではないでしょうか。もう一度、目に見える形で、私たちの世界に来られる。私たちはその日を待ち望みながら、今、聖霊が共にいてくださることを覚えつつ、それぞれに与えられている歩みを全うしたいものです。

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