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2024年3月10日説教「香油を注がれた主」松本敏之牧師

(ヨブ記19章23~29節)
ヨハネ福音書12章1~11節

(1)ベタニアにて

先ほどお読みいただいたヨハネによる福音書12章1~11節は、本日の日本基督教団の聖書日課です。「ベタニアで香油を注がれる」という標題がつけられています。実は、これととてもよく似た物語は、マタイ福音書にもマルコ福音書にも出てきます。恐らく同じ話が別の形で伝わったものであると思われますが、マタイやマルコが、それを主イエスがエルサレムへ入られた後の出来事、受難物語の最初の出来事として記しているのに対して、ヨハネでは、エルサレム入城の直前に置かれています。

「過越祭の六日前に、イエスはベタニアに行かれた。そこには、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロがいた。イエスのためにそこで夕食が用意され、マルタは給仕をしていた。ラザロは、イエスと共に食事の席に着いた人々の中にいた。」12:1~2

ベタニアというのはマルタとマリアとラザロの住んでいた町です。今日の箇所の直前の11章には、有名なラザロの復活の物語が記されています。その最初の11章2節には、「このマリアは主に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった女である」と、本日の箇所を先取りして紹介されていました。11章に記されているように、自分たちの弟をよみがえらせてくださったということで、マルタはできる限りのおもてなしをしようとしていたのでしょう。イエス・キリストのために一生懸命給仕をしていました。

この情景は、ルカ福音書10章に記されている有名なマルタとマリアの話(ルカ10:38~42)を彷彿とさせます。ただあの時と違ってここでは、マルタは不平を言ってはいません。恐らく、これが自分なりのイエス様への仕え方だと、すでに納得していたのでしょう。

(2)香油を注ぐマリア

そこへ妹のマリアがやってきました。

「その時、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を1リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足を拭った。家は香油の香りでいっぱいになった。」12:3

美しい情景が目に浮かぶようです。目に浮かぶだけではなく、そのかぐわしい香りが伝わってくるようです。1リトラというのは、聖書巻末の度量衡対照表によれば、326グラムということですから、それほどの量ではありません。しかし、この後のユダの言葉によれば、それは約300デナリオンの価値がありました。当時の一日の労働者の賃金が1デナリオンでありましたので、労働者の約1年分の給料に相当する位の価値があったのでしょう。

マルタはマルタなりの仕方で主イエスに仕え、マリアはマリアでマリアにしかできないことをしました。マリアのしたことは、まわりの人の度肝を抜くようなものでした。彼女がどうしてこんなことをしたのかは、よくわかりません。「主イエスに対して、自分は何ができるか。最上のささげ物をしたい。そして行為をもってそれを表したい。」そういう風に考えているうちに、瞬間的に、直感的に決めたのかも知れません。少なくとも事前にお姉さんのマルタや弟子たちに相談した結果ではなかったでしょう。相談していれば、きっとみんなから反対されていたと思います。一人の女性が、自分でそれだけのことを決心したというのは、当時としては大変なことであったと思います。

もしかすると、彼女はこの香油をラザロの埋葬のために用いるつもりであったのかも知れません。彼は死んで四日目に、イエス・キリストによってよみがえらされたので、この香油を使う必要がなくなった。それで感謝のしるしに、ぜひ主イエスのために用いたいと思ったのでしょうか。あくまでひとつの想像であります。

彼女の行為にはどういう意味があったのでしょうか。油を注ぐという行為は、古代近東では、何らかの特別な役割、あるいは任務への選びを意味していたと言われます。「キリスト」(ヘブライ語でマーシーア〈メシア〉)という言葉は、「油注がれた者」という意味です。ですから、彼女はこの行為によって「この方こそキリストである」と、象徴的に宣言していると見ることができるでしょう。

もう一つは主イエスが語っておられるとおり、主イエスの埋葬ためであったということです。先ほどこの香油はラザロのために使うつもりであったかも知れないと申し上げましたが、人が死んだ時に、死体が臭くならないように、香油をかけたそうです。もちろん彼女自身は、この後、主イエスが十字架にかけられて死ぬということは知らなかったでしょう。しかし主イエスがそのように「私の埋葬の日のため」と意味づけられたのです。

(3)「なんてもったいないことをするんだ!」

さてそれに対して、弟子の一人であるイスカリオテのユダがこう言いました。

「なぜ、この香油を300デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」12:5

なかなか立派なことを言っています。この言葉そのものは何も間違っていません。問題は、それを言っている人間の心がどこにあるのかと言うことです。ヨハネ福音書は、その後にわざわざ「彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。自分が盗人であり、金入れを預かっていて、その中身をごまかしていたからである」(12:6)とコメントしています。

他の福音書では、「弟子たち」(マタイ26:8)、「ある人々」(マルコ14:4)が、そのように言ったということです。私も、恐らくその場にいた多くの人が同じように考えたのではないかと思います。ヨハネ福音書では、わざわざイスカリオテのユダが悪い特別な存在であるようにコメントしていますが、みんなの代表のようにしてそう言ったのかなと思います。彼女のしたことを見て、「ああもったいない」と思った。しかしイエス様の前では、「なんてもったいないことをするんだ」とは言えませんから、「なぜ、この香油を300デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか」と言ったのでしょう。

(4)ブラジルの貧しい人のコメント

すでにお話したことがありますが、私がブラジルで働いていた頃、貧しい教会の家庭集会で、マタイ福音書かマルコ福音書でしたが、この物語を読んでいました。その時、その場にいた貧しい女性が、こう言いました。「この(ユダの)言葉は、今の州議員候補(政治家)とまるでおんなじだ。いつも『貧しい人のために何々をする』と言いながら、してくれたためしがない。」彼女は、このユダの言葉の中に、そうした政治家の公約と同じ何かしらを感じ取ったのです。「貧しい人を引き合いに出して、かっこいいことを言いながら、結局、心の中では自分のことを考えているんじゃないか。」

この女性とユダがもし議論をしていたら、ユダの方が勝ったであろうと思います。ところが、このユダの言葉に比べて、マリアの行為には愛情があって、心がこもっていました。イエス様は、こう言います。

「この人のするままにさせておきなさい。私の埋葬の日のために、それを取っておいたのだ。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、私はいつも一緒にいるわけではない。」12:7~8

イエス・キリストは、ユダの言葉を否定されたわけではありませんでした。「それは確かにそうだ。あなたの言う通りだ」と言いながら、そこに彼の心が宿っていないということを見抜いておられたのです。

(5)「正しい」言葉に潜む偽善

イエス・キリストは、ユダの優等生的な言葉を聞きながら、それを否定しないで、そのユダの言葉の上に、マリアの愛情深い、真実な心を置かれたのです。私たちは正しい言葉を聞く時に、やはりそれはそれとして、きちんと受けとめなければならないと思います。そしてそれと同時に、その背後には何があるのか。その背後にあるのは、偽善ではないか。自己正当化ではないか。ということを見抜く訓練もしなくてはならないと思うのです。

教会の中においてもそういうことが起きる。いや教会の中で、そうしたことが起きる時に、他の世界よりももっとやっかいです。神様を持ち出してくるからです。正しい言葉を語りながら、時に意識的に、時に無意識のうちに、人を裁くことがある。実際に、私たちの教団でもそうしたことが起きてきます。魔女狩りのようなことが起きる。聖書の言葉でさえも、神様の御心と反対の方向のことを、正当化するために使われることがあるのです。私たちは、「正しい」言葉を聞く時にもそれを聞きながら、慎重に、その心はどこにあるかということを見抜かなければなりません。

(6)ヨブの友人たちの「正しい」言葉

私たちは、12月頃、私たちの教会独自の聖書日課でヨブ記を読んできましたが、ヨブ記の大半はヨブと3人の友人たちの議論です。ヨブの友人たちは、ヨブに向かってある意味で正しいことを語るのです。「神様は正しい、公正なお方だ。よい人間にはよい報いを、悪い人間には悪い報いを与えられる」ということです。

そこに立って「ヨブには悪い報いが与えられたから、悪いことをしたに違いない」と言って、ヨブの間違いを正そうとし、ヨブを裁こうとするのです。

例えば、3人の友人のうち、一人目のエリファズは、ヨブにこう語りました。

「あなたは多くの人を諭し
その萎えた手を強くした。
あなたの言葉はつまずく者を起こし
弱った膝に力を与えた。」ヨブ記4:3~4

ここまでは、ヨブのこれまでの功績をほめています。ただ続けてこう言うのです。

「しかし今、あなたにそれが降りかかると
   あなたは耐えられない。それがあなたの身を打つと、あなたはおびえる。
 神を畏れることが
   あなたの頼みではなかったのか。
 その歩みが完全であることが
   あなたの望みではなかったか。」ヨブ記4:5~6

これはある意味で正しい言葉でしょう。しかしその正しい言葉が、ヨブを苦しめ、追い詰めていくのです。そして最後には、こう言うのです。

「神は傷つけても、また包み
 打っても、その手で癒してくださる。
 六度苦難が襲っても、神はあなたを救い
 七度襲っても、災いがあなたを打つことはない。」ヨブ記4:18~19

「悔い改めなさい。そうすれば、神様はきっと赦してください」ということでしょう。これも正しい言葉、立派な言葉です。しかしその立派な言葉がヨブを追い詰めていくのです。

それらのエリファズの言葉に対して、ヨブは叫ぶように、こう訴えます。

「どうか私の憤りが正しく量られ
私の災いも一緒に秤にかけられるように。
今、それは海の砂よりも重い。
そのために、私の言葉は激しいのだ。
全能者の矢が私に突き刺さり
私の霊はその毒を飲んだ。」ヨブ記6:2~4

エリファズの優等生的な言葉、教科書通り、マニュアル通りの正しい言葉に対して、ヨブの言葉は破れています。ヨブは、最初はエリファズに向かって反論していますが、最後は神様に向かって訴えるのです。

「人を見張る方よ、私が罪を犯したとしても
 あなたに何をなしえるでしょうか。
 どうして、私を標的にしたのですか。
 どうして、私が私自身の重荷を
 負わなければならないのですか。
 どうして、あなたは私の背きを赦さず
 私の過ちを見過ごしてぅださらないのですか。
 今、私は塵の上に横たわります。
 あなたが私を捜しても、私はいません。」ヨブ記7:20~21

エリファズの優等生的な、落ち着き払ったような、上から目線の言葉に対して、ヨブの言葉はなんだか破れかぶれです。しかしびんびんと響いている。彼の実存がかかった言葉です。こうしたヨブの神に叫ぶような言葉を聞いた二人目の友人ビルダドは、ヨブを叱るように、上から目線でこう言うのです。

「いつまであなたはこのようなことを語るのか。
 あなたが口にする言葉は激しい嵐だ。」ヨブ記8:2

結局、3人の友人たちの言葉は、ヨブを裁くばかりで、ヨブにとっては慰めにもなりませんでした。最後の最後に、ようやく神様が登場し、ヨブを叱責します。ヨブはそれに対して、何も答えられないのですが、神様がヨブの叫びに応えてくださったということ自体が、ヨブにとっては救いでありました。正しい言葉の奥に潜む「剣」というものを思わざるを得ません。

(7)ラザロの、存在という証し

さて、この箇所にはマルタとマリアの他に、復活させられたラザロが登場しています。マルタとマリアに比べると、ラザロは、特に何もしていません。ただここにいただけです。しかし、ラザロはラザロで、彼にしかできない大きな奉仕、大きな働きをしました。彼の場合、そこにいるだけで大きな意味がありました。彼の存在そのものが大きな証しであったのです。ラザロの存在は、イエス・キリストの力を証しするものでした。だからこそ、ユダヤ人たちは、イエス・キリストだけではなく、ラザロをも殺そうと謀ったのです(12:10)。

私たちは、教会の中で一体何ができるだろうかと、よく考えます。そして教会でも、自分にできることをしましょうと呼びかけます。マルタのように給仕ができる人もいるでしょうし、マリアのように大胆なことができる人もあるかも知れません。ただ、もしかすると自分には何にもできないと思われる方もあるかも知れません。しかし私は、皆さんがこの礼拝の中におられるということ、その中にすでに大きな意味があるということを覚えていただきたいと思うのです。特に年輩の方々の存在は、それだけで証しになる。まわりの人を励ます力のあるものだと思います。

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