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2026年5月17日説教「キリストを着る」松本敏之牧師

出エジプト記20:1~17
ガラテヤの信徒への手紙3:21~29

(1)真実が現れる

ガラテヤの信徒への手紙を続けて読んでいます。本日は、第9回目で、3章21~29節をお読みいただきました。このテキストの中に、有名な言葉があります。それは次の3章28節の言葉です。

「ユダヤ人もギリシア人もありません。奴隷も自由人もありません。男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからです。」3:28

これは、パウロの高らかな宣言であります。この言葉については、後で改めて触れたいと思いますが、少し前のほうから読んでいきましょう。最初のほうに、「真実が現れる」といういささか馴染みのない表現が出てまいります。23節と、25節です。

「真実が現れる前は、私たちは律法の下(もと)で監視され、閉じ込められていました。やがて真実が啓示されるためです。こうして律法は、私たちを信仰に導く養育係となりました。私たちが真実によって義とされるためです。しかし真実が現れたので、私たちは養育係の下にはいません。」3:23~25

ちょっとわかりにくい表現です。この「真実」という言葉は、ギリシア語ではピスティスという言葉で、「信仰」とも訳せる言葉であるということを以前に申し上げたことがあります。実際、新共同訳聖書では「信仰が現れる」というふうに訳されていました。いずれにしろわかりにくいのですが、新共同訳聖書では、こうなっていました。

「信仰が現れる前には、わたしたちは律法の下で監視され、この信仰が啓示されるまで閉じこめられていました。こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。わたしたちが信仰によって義とされるためです。しかし信仰が現れたので、もはや、わたしたちはこのような養育係の下にはいません。」3:23~25、新共同訳

この養育係としての律法を代表するものは、先ほど読んでいただいたモーセの十戒でありましょう。

「真実が現れる以前」。「信仰が現れる以前」。いずれにしろ、ここには隠れた言葉があります。それは、イエス・キリストという言葉です。「イエス・キリストの真実が現れる以前(と以後)」あるいは「イエス・キリストへの信仰が現れる以前(と以後)ということです。」

パウロは、ここで時代を二つに分けます。それは「イエス・キリストの真実が現れる以前」と「イエス・キリストの真実が現れた以後」ということです。真実が現れる以前、私たちは律法の監視下にあったが、そこで律法は、養育係のようなものであった。子どもが手ほどきを必要とするように、導き手が必要だ。それがないと何をしでかすかわからない。だから律法が与えられたのだ。しかしイエス・キリストの真実が現れたからには、もはやそうした養育係はいらない。それがここでパウロが言おうとしていることです。この「真実が現れる」というのは、もっと直訳的に言えば、「真実が来る」という言葉です。「真実が来る」というのは、さらに変な感じのする言い方かもしれません。私たちは普通そういう言い方はしません。「来る」というのであれば、「キリストが来る」「キリストが来られる以前」と「キリストが来られた以後」という方がわかりやすいかもしれません。あるいは「信仰」ということが言いたいのであれば、「信仰をもつようになる以前」と「もつようになった以後」の方がわかりやすいかもしれません。しかしパウロは、「真実が来る以前」「信仰が来る以前」と「以降」という言い方をするのです。

そのことは、「信仰」というものも、キリストと同じように、あるいはキリストと共にと言った方がいいかもしれませんが、それは「外からやって来るものだ」、あるいは「賜物として与えられるものだ」ということを暗示しているのでしょう。私たちは自分で決心をして信仰を持つようになったと思っていますが、実はそうではなくて、「信仰」も外から恵みとしてやってくるものである。そうでなければ、私たちは信仰をもつことができない、ということでありましょう。

(2)キリストを着る

そしてパウロは、ここで突然「私たち」から「あなたがた」と言い換えます。

「あなたがたは皆、真実によって(信仰により)、キリスト・イエスにあって神の子なのです。」3:26

「神の子」と呼ばれるのは、本来、イエス・キリストだけでありましょう。しかしそのキリストに結ばれているあなたがたも、キリストの真実によって神の子なのだ、とパウロは言います。そしてそれを次のように言い換えるのです。

「キリストにあずかる洗礼を受けたあなたがたは皆、キリストを着たのです。」3:27

ここでもまたパウロは馴染みのない変わった表現をしています。「キリストを着る」。「洗礼を受ける」とは、キリストを着ることである。洗礼を受けたからと言って、すぐに私たちが変わるわけではありません。それまでと同じように罪を犯します。相変わらず悪いことを考えたりします。「自分の洗礼は、どうもあまり効き目がなかったから、もう1回洗礼を受けてやり直したい」、と思う人もあるかも知れません。しかしそうではない。その必要はありません。私たちは変わっていないようであっても、そこでキリストを着たのだ。キリストが私たちの身を覆っている。それはどういうことかと言えば、神は私たちを見るときに、私たちよりも先に、私たちを覆っているキリストをご覧になる。あたかもキリストを見るかのようにして、私たちを見てくださる、ということです。キリストが神の子であるから、それに結ばれているあなたがた、それを着ているあなたがたも神の子である。

(3)キリスト・イエスにあって一つ

そして次のように言うのです。

「ユダヤ人もギリシア人もありません。奴隷も自由人もありません。男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからです。」3:28

これは聖書の中で、最も美しい言葉の一つであると思います。しかし、現在世界で起こっている戦争のことを考えますと、私たちの現実は、いかにこのパウロの言葉から遠く離れているかということを思わざるを得ません。アメリカ合衆国とイスラエルによるイランへの奇襲攻撃、あるいはその前のイスラエルによるパレスチナのガザに対するほとんど無差別的な攻撃などを見ると、その背景には、中東の人々に対する民族差別が根強く存在するということを思わされます。

私たちは、このパウロの宣言、有名な言葉を、私たちはどう考えればよいのでしょうか。新共同訳聖書では、「ユダヤ人もギリシア人もなく」の前に「そこでは」という言葉がありました。「そこでは」という言葉の前を見てみますと、「キリストにあずかる洗礼を受けたあなたがたは皆、キリストを着たのです」とありますから、「そこでは」ということなのでしょう。そこでは、ユダヤ人もギリシア人もない。奴隷も自由人もない。男も女もない。

確かに第一義的な意味として、そのことを踏まえなければならないでしょう。洗礼を受けてクリスチャンになること、キリストを着ることによって、そのような私たちの世界でどうしても越えられないような線を越えて一つになることができるのだ。「あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」。

(4)古今の三大差別

ここで注意しなければならないのは、問題はその違いそのものではなく、その違いに基づく差別であります。違いがなくなるわけではない。区別は依然としてあります。女が男のようになるわけではないのです。ここで、それぞれ対になっている二つの人間タイプ、「ユダヤ人とギリシア人」「自由人と奴隷」「男と女」。このそれぞれの二つの間には、大きな差別があったのです。つまりユダヤ人はギリシア人を(異邦人として)差別し、自由人は奴隷を差別し、男は女を差別していました。ここで例として掲げられているこの三つは、いみじくも当時の三つの大きな差別を代表しています。

つまり一つ目の「ユダヤ人とギリシア人」というのは、民族差別・人種差別です。二つ目の「奴隷と自由人」というのは、社会的差別、あるいは階級差別です。そして「男と女」というのは、性差別です。

私は、これは非常に興味深いことであると思いました。というのは、この三つの差別というのは、現代世界にも形を変えて存在する差別の三つの形態に他ならないからです。パウロは、「キリストにあっては、この三つの間に差別は存在しない」、と宣言しているにもかかわらず、他ならないキリスト教世界においても(おいてこそ)、その差別がずっと続いてきました。

人種差別と、階級差別(お金持ちが貧乏人を差別すること)、性差別。そしてこの三つの差別をめぐって、最近になってようやく、ここ5、60年ほどの話ですが、聖書の読み直しが起こり、広い意味での「解放の神学」というものが生まれてきました。それは不思議にも、別々のところでほとんど同時期に始まりました。いわば同時多発的に起こりました。それは1960年代後半のことです。

人種差別をめぐっては、ジェームズ・コーンというアメリカの黒人神学者が「黒人解放の神学」というものを唱え始めました。1968年に最初の著作が出版されています。私は、ユニオン神学校という学校で、直接、彼の講義を聴きました。ジェイムズ・コーンは、マルチン・ルーサー・キング・ジュニアやマルコムXの思想や運動の影響を大きく受けています。

階級差別をめぐっては、一握りのお金持ちが大多数の貧しい人々を支配する南米、ラテンアメリカから、解放の神学が起こってきました。ペルーのグスタヴォ・グティエレスという神学者が『解放の神学』という最初の本を出版したのが、やはり1968年でありました。私は、ブラジルでこのラテン・アメリカ・タイプの解放の神学から大きなものを学びました。

そして三つ目、性差別をめぐっては、北米の白人女性を中心とするウーマン・リベレーション、ウーマン・リブの運動の中からフェミニスト神学が生まれてきました。やはり1960年代のことであろうと思います。そしてその後の「解放の神学」というものは、この三つの軸(人種 Race、階級 Class、性 Sex/Gender )をめぐって、さまざま展開をして、今日にいたっています。今日は、それらについて詳しく述べることはできませんが、もしも興味があられましたら、私が共同監修した『そうか! なるほど!! キリスト教』という本の中に、私自身が「解放の神学って、何を解放するの」という文章を書きましたので、どうぞそれを読んでみてください。

その三つのタイプの「解放の神学」のことを思うと、キリスト教世界が、ようやくこのパウロの言葉に追いついてきたのかという感じがいたします。「(そこでは)ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もありません。」
パウロは、2000年前に、すでにそう宣言していたのです。

(5)クリスチャンの中だけの話か

さて問題はここからですが、果たしてこれは、洗礼を受けたクリスチャンのことだけを語っているのだろうかということです。原始キリスト教会では、奴隷も教会に来れば(教会の中では)、主人と対等であった、と聞きます。教会の中では、外に比べて、女性が一人の人間として重んじられた、ということもあるかも知れません。そしてパウロは何よりも、このところで語っているのは、ギリシア人、つまり異邦人クリスチャンもユダヤ人クリスチャンと同じだ、差別してはならない、ということを巡って、このガラテヤ書が書かれたのであります。しかし、それは教会の中だけの話なのでしょうか。信仰を持つ者は、そうしたことから解放されている。どうでしょうか。

私は、確かにここではまずクリスチャンの世界を描いていることを踏まえなければならないと思いますが、この言葉は、クリスチャンの世界に留まらない、それを超えたことを指し示していると思います。そうでなければ、キリスト教の内側においては、差別はないけれども、その外の世界に出ると、かえって外のものを差別するということが起きてきかねません。

今回のイランへの攻撃というのも、私にはそのようなアメリカ人のものの考え方、内と外を使い分ける考え方、キリスト教+ユダヤ教世界とその外にあるアラブ世界、あるいはイスラム世界を区別して、それを差別があるように思えてなりません。そうであればこそ、まずクリスチャン自身がイエス・キリストにあって、そうした差別意識から解放されなければならない。敵意という誘惑から解放されなければならないと思うのです。

そのためには、私たちが信仰をもっているかどうか以前、あるいは洗礼を受けているかどうか以前に、イエス・キリストご自身がそんなこととは無関係に、どんな一人もかけがえのない一人として愛されたこと、クリスチャンであるかどうかにかかわらず、すべての人のために祈り、十字架にかかり、死なれたということを思い起こさなければならないと思うのです。それが差別意識を克服する原点であろうと思います。

エフェソの信徒への手紙の中に、「キリストは、……ご自分の肉によって敵意という隔ての壁を取り壊し、……十字架によって敵意を滅ぼしてくださった」(エフェソ2:14~16)という言葉がありますが、このことも、ただ単にクリスチャンの世界の話ではないはずです。むしろその内と外にある敵意をこそ、滅ぼすために十字架にかかられたのです。その敵意をもっている人々が、キリストを知っているかどうか、あるいはそう認識しているかどうかにかかわらず、そうなのです。キリストのなさった恵みの事実、十字架の事実というのは、そうしたことに先立つことなのです。

(6)ボンヘッファー「キリスト教徒と異邦人」

私はこのことを思うとき、ボンヘッファーがナチスに捕らえられて処刑される数ヶ月前に、獄中で書いた詩を思い起こすのです。それは「キリスト教徒と異邦人」(キリスト者も異教徒も)という題名で書かれた四行詩が三つ連なった形の詩です。


「人間は困窮すると神に向かい
助けを乞い、幸福と糧とを求め
病気、罪の負い目と死からの救済を祈る
すべて、キリスト教徒も異邦人もすべてこうする。」

(キリスト教徒であろうとなかろうと、人はだれでも困窮の中で神を求めるということです)。


「人間は神の困苦を知り神のもとへ行く
彼が貧しく、辱められ、屋根も糧もないのを知り
罪と弱さと死とに呑み込まれるのを眼にする
キリスト教徒は神の苦悩の中で神のもとに立つ」

(一体神はどういうお方であるのか。神ご自身が苦しみ、辱められ、貧しくなっておられる。キリスト教徒はそれを知っている、というのです。キリスト教徒は、その神の苦悩の中で、神のもとに立つ。ここでキリスト教徒と異邦人の違いが現れるということでしょう)。


「神は困窮するすべての人間のもとに来る
そして彼らの肉体と魂を彼の糧でいやし
キリスト教徒と異邦人のため十字架の死につく
このようにして彼ら両者をともに赦す」
『ボンヘッファー獄中詩篇 詩と註解』J・ヘンキュス編、内藤道雄訳

これが、ボンヘッファーがナチスに捕らえられた後、獄中で書き残した「キリスト教徒と異邦人」という詩です。ボンヘッファーはキリストの十字架が、キリスト教徒の罪も異教徒の罪も赦すほど、けた外れに大きな恵みであることを知っていました。
「あの人も、あの民族もキリストは愛された」。「あの人のためにも、あの民族のためにも、キリストは十字架で死なれた」。この信仰に立つときに、私たちは差別意識や敵意から解放されるのではないでしょうか。

(7)恵みにふさわしい生き方をしよう

私たちは「キリストを着る」ことを許されました。今日も私たちは、ここでキリストを着て、それぞれ帰っていきます。教会へ来て礼拝をする、ということは、キリストを着て帰ることなのです。日曜日ごとにキリストを着直して、装いを整えて家路につくのです。そのキリストという衣を通して、神様は私たちを「神の子」と呼んでくださる。その恵みを感謝しつつ、受けた恵みにふさわしい生き方をしたいと思います。

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