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2020年8月23日説教「勇気を出す」松本敏之牧師

勇気を出す

ヨハネによる福音書16章25~33節

(1)遺言中の遺言

今日、私たちに与えられたヨハネ福音書16章25~33節は、13章より4章にわたって長く続いたイエス・キリストの別れの説教のしめくくり部分であります。その一番最後に、こう語られています。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(33節)。何と力強い、そして慰めに満ちた言葉でしょうか。すべての注釈を抜きにして、私たちの心に、直接、響いてくる言葉です。これこそが聖書の究極のメッセージであると言ってもいいのではないでしょうか。この言葉、実は、私の高校時代からの愛唱聖句です。昔からこの言葉にどれほど励まされてきたか、わかりません。私は、学生時代に所属していた教会の青年会報か何かの自己紹介で、好きな聖句として、この言葉を選んだことがありました。ちなみに以前の口語訳聖書では、「あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」という訳でした。特に、私は二浪していましたから、それなりに悩み多き青年でした。ウェルテルほどではありませんが。また浪人していましたので、勝つとか負けるとかいう言葉に敏感であったかも知れません。青年には青年なりの悩みがあります。壮年には壮年の、熟年には熟年の悩みがあります。いや子どもにだって、子どもなりの悩みがあるものです。そこで押しつぶされそうになる。ここで「苦難」と訳された言葉は、圧迫、重圧というニュアンスのある言葉です。それはどんなに文明が発達しようと変わらないものです。医学は発達し、さまざまな病気が克服されてきましたが、それと同時に、新しい病気も生まれてきました。現代人には、現代人ならではの、ストレスがあります。メンタルクリニックが、これまで以上に重要な時代になってきました。
機械は発達し、多くのものを作れるようになりましたが、それだけ忙しくなりました。乗り物が発達し、どこへでも行けるようになりましたが、それだけ活動半径が広がり、仕事が多くなりました。コンピューターが発達し、世界は大きく広がりましたが、それだけ問題も世界規模で広がってしまいました。この度の新型コロナウイルス感染症がこれほど世界全体を巻き込む事態となったのは、まさにそうした現代ならではの総合的な問題であると言っても良いでしょう。そうした中、先ほどの16章33節の言葉こそは、私たちが、どんな困難な課題、苦しみ、悩みに遭遇しようとも、自分を見失わないで生き抜く、そしてそれを乗り越えていく人生の秘訣が含まれているのではないでしょうか。イエス・キリストの遺言とも言える長い別れの説教の締めくくりの言葉でありますが、まさに遺言中の遺言、結論です。この言葉を告げるために、イエス・キリストは、この世に来られたと言っても過言ではないでしょう

(2)もはやたとえによらない

さて私たちに与えられた16章25節以下の言葉を見てまいりましょう。「わたしはこれらのことを、たとえを用いて話してきた。もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る」(25節)。ヨハネ福音書の中で、たとえと言いますと、「わたしはよい羊飼いである」とか「わしはまことのぶどうの木」とかを思い起こしますが、そういうさまざまな言いかえをしながら、ご自分が誰であるかということを示されてきました。しかし今はもうたとえには頼らない。ここから先は、十字架への道です。まさにその行為を通して、父のみ心、つまり自分が何をするために来たかを示されることになるのです。

(3)イエス・キリストの御名によって

「その日には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる」(26節a)とあります。これは、前回の終わりの言葉を受けています。「今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる」(24節)。この時、イエス・キリストは、まだ肉体をもった形で、弟子たちと共におられました。しかし去っていかれた後、「その日には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる」と言われているのです。ですから私たちは、今まさに、「その日には」という時を生きているということになるでしょう。私たちは、「イエス・キリストの御名によって祈ります」という祈りのフォーム、形式をもっています。教会へ初めてやって来て、どうやって祈ったらいいかわからない、という中で、私たちはそうした祈りの枠組み、呼びかけとこの締めくくりの言葉を学ぶのです。「イエス・キリストの御名によって祈ります」という時に、イエス・キリストが確実に父なる神様のもとに届けてくださるという風に、私たちは理解しています。

(4)父なる神と一体

 「わたしがあなたがたのために父に願ってあげる、とは言わない」(26節b)。これは見放されるということではありません。そうではなく、逆にもう一つ進んだ形、父なる神様と私たち自身が、もちろんその中にはイエス様もおられて一体となっている姿、それは終わりの日を指し示している状況であると思います。「父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである。あなたがたがわたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである」(27節)。イエス・キリストと父なる神様が一つであるように、その中に私たちも引き入れられるのです。そしてイエス・キリストは、さらに「わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く」(28節)と言われます。弟子たちはこの別れの言葉を聞き、「今は、はっきりとお話しになり、少しもたとえを用いられません。あなたが何でもご存知で、だれもお尋ねする必要のないことが、今、分かりました。これによって、あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます」(29~30節)と答えました。弟子たちは主イエスの言葉を聞いて、「信じます」とはっきり告白しています。私たちのためにイエス・キリストが来られて、その言葉と業によって、イエス・キリストを知り、父なる神様の意志を知る。聖書の神様を信じるというのは、漠然と、「この天地を創られた方がおられるのだろうな」ということではなくて、むしろ聖書という言葉によって、イエス・キリストが誰であるかを知り、それを信じる、そういう信仰です

(5)ひとりにする日が来ても

しかしそれでも、私たちはどこまでも誤解している部分があります。この時、弟子たちも「今、分かりました」というのですが、イエス・キリストは、「今ようやく、信じるようになったのか。だか、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている」(31~32節)と言われました。
またまた弟子たちを不安にさせるような言葉です。しかし実際、そのようになっていくのです。このすぐ後、イエス・キリストは逮捕されます。その時、弟子たちは、去って行ってしまいます。イエス・キリストはそのことさえも、すでにご承知であった。承知の上で、弟子たちを受け入れておられるのです。
そして同じように私たちをも受け入れてくださっているのです。私たちも「今、分かりました。信じます」と言いながら、次の瞬間にはどうなるか分からない、そういう不安定な者であります。それを承知しながら、イエス・キリストは、そのもう一つ先まで見越して、励ましておられるのです。
イエス・キリストご自身、「みんな去ってしまって、ひとりきりになる」と言いながら、「それでも父なる神様が共におられる」と語られました。これはもう一つ、次の時代に弟子たち自身が経験することでもあります。みんなが去って、弟子たちが「ひとりきり」にされてしまう時が来る。それでもあなたがたは「独りきり」ではない。主イエスは、14章18節のところで、「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない」と言われました。そうしたみ言葉が二重写しになってきます。そして「勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」と締めくくられたのでした。

(6)イエス・キリストが共に歩まれる

私は牧師です。牧師という仕事は、みんなから祝福されて、教会の人と共に歩む、最も幸いな仕事であると思っています。しかし同時に、ある面、孤独な仕事でもあります。さまざまな問題に直面する中で、一人で向き合わなければならないことも多いものです。誰にも言えないし、言ってはならないこともあります。当然のことです。しかしそうしたところでこそ、牧師たちはイエス・キリストによって支えられているのだと知り、励まされるのです。「勇気を出す」ということは、「くよくよするな。とにかくがんばれ」というようなことではありません。そのようなことであれば、私たちはかえって不安になったり、そうできない自分とのギャップに悩まされたりするものです。あるいは、先を見ないで何か自爆テロのような形で「勇気を出して死ね」と言われても、それはおかしなことです。本当に勇気を出してよい、その根拠が聖書の中にあります。「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。」私たち自身は、苦難の中、悩みの中にある。さまざまな問題に取り囲まれている。八方ふさがり。どこから突破口を見つけたらよいのかわからないような状態の中に置かれている時に、イエス・キリストはすでにそれを克服しておられる。そしてそのイエス・キリストが共にいてくださることによって、私もそれを乗り越えることができる。それが信仰の最も大きな賜物ではないでしょうか。

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