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2020年5月10日説教「私が選んだ」

「私が選んだ」
エレミヤ書1章4~8節   ヨハネによる福音書15章11~17節>

(1)選ばれた者として生きる

「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」(16節)何と深遠な言葉でしょうか。この言葉を、自分に語られた言葉として受けとめる時に、私たちの人生は変わり始めるのではないでしょうか。この言葉は、恵まれた人生を歩んでいると感じている人にとっても、逆に人目に不運と見られるような経験をしている人にとっても、それぞれに大きな意味を持った言葉であると思います。環境に恵まれ、お金に恵まれ、あるいは才能に恵まれている。人からそう思われ、自分でもそう思う。そういう人は、ただ、自分はラッキーだと思ったり、いや自分の努力でそれを得たのだと思ったりしてはならないでしょう。そこに私たちの傲慢が入ってきます。またその恵みを自分自身のために用いるにとどめてはならないと思います。神様は何らかの意図があって、そうした恵み、そうした賜物を与えられたのだということを、考えなければなりません。そこに神様の選び、目的というものを見抜く目を持っていただきたいと思います。しかしまた逆に、「よりによって、自分はどうしてこんなつらい経験をしなければならないのか」と思う人にも、この言葉は心に響いてくるのではないかと思います。ヨハネ福音書9章に、生まれつきの盲人の話が出てきます。彼を見ていた弟子たちは「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」(9:2)と尋ねました。主イエスは、それに対して、「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」(9:3)とお答えになりました。自分の人生に対して否定的な思いを持っていた多くの人が、この言葉によって生の転換を経験してきました。「神様は、何らかの理由があって、これを自分に委ねられたのだ。」もちろん、これは決して他人がどうこう言うことはできないものです。「あなたがこういう障碍をもっているのも賜物の一つだ」と言うのは、無責任な押し付けでしょう。それが賜物として受け入れられるかどうか、恵みと感じられるかどうかは、あくまでその人と神様との関係におけることだと思います。

(2)同性愛の人への招きの言葉

私が、この言葉、「あなたがたが私を選んだのではない。私があなたがたを選んだ」という言葉を、ある種のショックをもって受けとめたのは、留学中の一九八九年、ニューヨークのある教会において、でありました。それはウォール・ストリートという金融街にある聖公会のトゥリニティー・チャーチという教会でした。アメリカ最古の教会の一つです。その教会の玄関に小さなパンフレットがあり、その冒頭にこの聖句が大きく記されていました。それは、同性愛の人々を招くためのパンフレットでした。今日の医学や社会学など、さまざまな学問での共通理解は、同性愛というのはその人自身が、好きで選んでいるのではないということです。気がついてみたら、自分は同性愛者であったということです。そしてそれは隠すことはできたとしても、変えられるものではありません。それを隠して生きるのか。積極的に受けとめるのか。それを否定しなければ、自分の人生は祝福されないのか。同性愛の人自身が、大きなチャレンジを受けています。私は、当時は全く考えたことのない問題でしたが、「本当の自分を隠すことによってしか祝福されない生を、神様は創造されるはずがない。むしろ変わらなければならないのは社会や教会のほうだ」と思い、納得できました。この聖公会の教会は、「あなたがたが私を選んだのではない。私があなたがたを選んだ」という言葉によって、そうした同性愛の人の「生」を肯定し、積極的な意味づけをしているのです。厳しいかもしれないけれども、また逆風の中を歩むことを強いられるかもしれないけれども、神様は何らかの意図があって、あなたにそういう「生」を与えたのだというメッセージです。私は目から鱗が落ちたように思いました。そしてその後の私の歩みにも大きな影響を与えるものになりました。それから30年以上になりますが、今では同性愛だけではなく、さまざまなセクシュアル・マイノリティ(LGBT)の人々のことも、社会や教会で少しずつ受け止められるようになってきました。

(3)預言者も神に召された人

旧約聖書の預言者たちも、神様に立てられた時に、躊躇をいたしました。エレミヤもそういう人でした。「主の言葉がわたしに臨んだ。『わたしはあなたを母の胎内に造る前から、あなたを知っていた。母の胎から生まれる前に、わたしはあなたを聖別し、諸国民の預言者として立てた。』わたしは言った。『ああ、わが主なる神よ、わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから。』しかし、主はわたしに言われた。『若者にすぎないと言ってはならない。わたしがあなたを、だれのところへ遣わそうとも、行って、わたしが命じるすべてを語れ。彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて、必ず救い出す』と主は言われた。」(エレミヤ書1:4~8)そのようにエレミヤは神様の選びを自分のものにしていくのです。

(4)真の友なるイエス・キリスト

神様は、無責任に私たちを選び、召されるのではありません。このところでイエス・キリストは愛について語られました。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(13節)。こうした真実な愛は、私たち人間同士の世界でなかなか見ることはできません。自分を犠牲にしているわざとらしさがつきまとうものです。この言葉を最もよく示しているのは、イエス・キリストの生涯、そして死であると思います。ご自分の命を賭けて私たちを選び、招いておられる。そしてそこから「私があなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これが私の戒めである」(12節)と言われるのです。イエス・キリストが友として、私たちのために命を捨ててくださった。そしてそのイエス・キリストご自身が、私たちを友と呼んでくださった。「わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである」(14~15節)。僕、召使いは、主人の言われたとおりにしなければなりません。自分の判断を差し挟む余地はありません。しかし私たちと主イエスの関係は、そうではない。イエス・キリストの思いを知って、納得してそれに従う。だから「友」だとおっしゃるのです。その「友」は、私たちのこの世のすべての友を超えています。この世の友は、どんなに親しくても裏切られる可能性があります。「世の友われらを 捨て去るときも祈りに応えて  なぐさめられる」(『讃美歌21』493より)この世の友がどうであろうと、イエス・キリストだけは真の友としていてくださる。そのイエス・キリストが、私たちを選び、召し出されるのです。

(5)問題のただ中において支えられる

私は、これまで伝道師時代も含めると5つの教会で働いてきました。鹿児島加治屋町教会で6つ目です。それらの教会はそれぞれに多かれ少なかれ問題を抱えていたように思います。行ってからその問題がわかる、ということもありました。そんな時に、牧師として、「神様、これはきついですね」と思うこともありましたが、そうした時には、この御言葉が支えになりました。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたを選んだ。」そこで神様は、「この問題を解決できるのはお前しかいない」と思われて、私を選んで派遣されたのかな、と受け止め直し、気持ちを立て直して取り組んできました。そして退任する頃は、それなりに道が付けられていったかなと思います。今も、若干、「神様、この問題を解決するために、私を遣わされたのですか」という思いもしないわけではありませんが、そうした中にあっても神様の大きな計画、摂理への信仰が与えられているのは感謝です。そしてまたさまざまな問題があることは、それにより信仰が強められる時であり、連帯が強められる時でもあると感じています。皆さんの中にも、教会で困難を覚えられることがあれば、私たちは神様の大きな計画のもとに置かれているという信頼のもと、その問題から逃げないで、積極的に受け止めていっていただきたいと思います。

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