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2020年9月13日説教「真理と自由」松本敏之牧師

真理と自由

ヨハネ福音書8章31~36節

(1)国立国会図書館の理念

本日、私たちに与えられたヨハネによる福音書8章31~36節は、本日の日本基督教団の聖書日課の前半部分です。先週読みました「わたしは世の光である」(8:12)という言葉が出てくる少し後の箇所です。それを聞いて反発し、受け入れなかったユダヤ人たちと、それを信じたユダヤ人とがいたようです。イエス・キリストは、まずそれを信じたユダヤ人に向かって語りかけました。彼らは信じたのだけれども、まだ信じきれない。もっと話をしながら確かめたいという思いであったのでしょう。今日の聖書箇所の中の「真理はあなたたちを自由にする」(32節)という言葉は、ヨハネ福音書の中でも有名な言葉の一つです。『聖書名言集』というようなものには、必ず入れられるものでしょう。ただしもしかすると教会の中よりも、外において有名であるかも知れません。最もよく知られているものとしては、国立国会図書館に刻まれている「真理がわれらを自由にする」という言葉があります。国会図書館のホームページには、次のように記されています。「国立国会図書館は昭和23年に公布された国立国会図書館法前文にあるように、『真理がわれらを自由にするという確信に立って、憲法の誓約する日本の民主化と世界平和のために寄与することを使命として』設立されました。この言葉は国立国会図書館設立の基本理念といえます。」ただしこの国立国会図書館の理念である「真理がわれらを自由にする」という言葉は、元の聖書の言葉と微妙違っています。聖書では、「あなたたちを」となっているのに、こちらは「われらを」となっているのです。これは国立国会図書館法の起草にかかわった羽仁五郎という人がドイツ留学中にフライブルク図書館の銘文として記憶していた言葉であり、彼の記憶違いか、あるいはあえてそれを書き換えたものか、どちらかでしょう。もっとも国会図書館には、日本語と一緒に聖書のオリジナルのギリシャ語も記されていて、ギリシャ語の方は、どういうわけか、聖書どおり「あなたたち」となっています。聖書が「あなたたち」と言っているものを、日本語では「わたしたち」と置き換えている。私は、この違いはかなり決定的であるような気がしました。

(2)「あなたたち」か「わたしたち」か

この「あなたたち」と「わたしたち」の違いに注目してみますと、聖書の方は、あくまでイエス・キリストの言葉として書かれています。イエス・キリストは、私たちに向かって、「あなたたち」と呼びかける他者です。しかも人格的存在です。それを「わたしたち」と言い換えてしまう時に、そのような人格的他者として、私たちに向かって呼びかける方の存在がぼやけ、見えなくなってしまうように思います。またそのことによって、「真理」という言葉が、意味する内容まで変わってくるのではないでしょうか。もちろん国会図書館が理念とする「真理」というのがキリスト教の真理であっては困りますので、わざとそうしたのかも知れません。図書館が言うところの「真理」とは、宗教的な事柄ではなく、学問によって到達する一般的真理、あるいは哲学的真理、科学的真理、数学的真理のような事柄でしょう。しかし聖書の方は、必ずしもそういうことではありません。この聖書の言葉の前後をもう一度読んでみましょう。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」(31~32節)。「本当にイエス・キリストの弟子になる時に、私たちは真理を知るようになるのだ」ということが告げられ、そして「キリストの弟子として真理を知るようになれば、その真理が私たちを自由にしてくれる」というのです。それが、本来の意味です。ですから、この言葉は有名であるにもかかわらず、いささか聖書本来の意味と違って理解され、流布していると思いました。

(3)真理とは何か

「真理とは何か」ということは、私たち人間の究極の問いでしょう。だからそれに到達することと自由になることが深く結びついているのです。「真理とは何か」という問いは、実はイエス・キリストの裁判で、ポンテオ・ピラトも口にいたしました。イエス・キリストが「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く」と語られた時に、ピラトは「真理とは何か」(ヨハネ18:38)と問いました。ピラトはイエス・キリストに教えを乞う為に尋ねたのではないでしょう。あざ笑ったような言葉です。独り言であったかも知れません。しかしこのピラトの問いは、この歴史を貫いて、私たち人間がずっともち続けた問いでもあります。今日も、そして将来にわたって、私たちは生きている限り、「真理とは何か」という問いを発し続けているということもできるでしょう。聖書は、この問いに何と答えているのでしょうか。イエス・キリストは、「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14:6)と告げられました。あなたたちは「真理とは何か」と捜し求めているが、このイエス・キリストのもとにこそ真理がある。「この人を見よ」「この人の言葉のもとに留まれ。そこにこそ真理がある」「いやこの方こそ真理そのものだ」と、聖書は語るのです。

(4)ボンヘッファーの「愛」の理解

私は「真理とは何か」ということを考えていて、ディートリヒ・ボンヘッファーが「愛」について語っていることを思い起こしました。ボンヘッファーは、「神は愛である」という言葉を、こういう風に注解しています。私たちは、愛についてのなにがしかの概念をもっています。男女の愛、親の子に対する愛、博愛主義の愛。しかしそうした愛についての一般的概念から始めて、それを神様にあてはめてみても、「神は愛である」ということは決してわからないというのです。むしろ「愛である」という述語ではなく、「神は」という主語から始めなければならない。神様の中に「愛」を理解するヒントがある。神が一体何をしてくださったか、神がイエス・キリストを通して、私たちに何をしてくださったか、そこにこそ愛の原形がある。それを知らないでは、私たちは愛を知らなかったというのです。その出来事を通して、私たちは初めて愛とは何であるかを知るのです。これはとても大事なことを語っていると思います。ヨハネの手紙一には、こうに記されています。「神は独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」(ヨハネの手紙一3:7~10)。そしてこう続けます「愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです」(ヨハネの手紙一3:11)。この出来事を示されないでは、「互いに愛し合うべきです」という言葉も、よくわからないし、むなしいのです。

(5)キリストの姿から「真理とは何か」を学ぶ

話は広がりましたが、私は「真理」ということについても、このボンヘッファーの愛についての理解が役に立つのではないか、と思います。私たちは「真理とは何か」と尋ね求めます。学問をして、探求をして、真理に到達できると考えているかも知れませんが、むしろ聖書が告げている大事なことは、イエス・キリストが「わたしは真理である」とおっしゃったことです。イエス・キリストがなさったこと、そしてイエス・キリストの語られたことの中に「真理とは何か」ということを理解するヒントがある。私は、聖書がいう真理というのは、先ほどの「愛」ということに似ているのではないかと思います。イエス・キリストが「真理を伝えるためにこの世に来た」ということは、内容的に言えば、まさに「神様の愛を伝えるためにこの世へ来た」というのと同じことを指しているのでしょう。そこで示されている真理というのは、何か一般的な法則のようなものではありません。むしろ十字架を通して、神様が私たちに何をしてくださったのか。その出来事にあらわされた真理こそが、私たちを自由にする。聖書は、そう告げるのです。

(6)罪、死、悪しき伝統、固定観念からの自由

それでは、この「真理」は、私たちを一体、何から自由にしてくれるのでしょうか。
第一は、「罪から自由にされる」ということでしょう(34節参照)。イエス・キリストにつながらないでは、私たちは罪の奴隷であった。しかしながら、イエス・キリストを受け入れる時に、そうした罪から解放されるのだというのです。
第二は、「死から自由にされる」ということです(51節参照)。イエス・キリストにつながる時、私たちは決して死ぬことがないと、約束されているのです。
さらに第三に、悪しき伝統や固定観念からの自由ということもあるでしょう。日本の国会図書館が、その入り口に「真理がわれらを自由にする」という言葉も、指示しているものも、「悪しき伝統や固定観念からの解放」ということでしょう。正しい知識を身に着けることが正しい判断をすることの大前提であるからです。
イエス・キリストがここで向き合っておられるユダヤ人たちには、イエス・キリストの言葉や行為が、自分たちの伝統から逸脱しているように思えました。彼らのこれまでの考え方が、金科玉条のようになってしまい、がちがちに身動きが取れなくなってしまっている。「真理」というのは、本当はそうした状態から自由にしてくれるものなのです。
ただし「イエスは御自分を信じたユダヤ人たちに語られた」(31節)にもかかわらず、すぐその後で、主イエスは、「あなたたちはわたしを殺そうとしている。わたしの言葉を受け入れないからである」(37節)と語られました。彼らは主イエスの言葉によって自由になるよりも、かえって頑なになってしまったのでした。

(7)クリスチャンもまた、固定観念(古い教義)に囚われうる

しかしそのことを考える時に、クリスチャンもまた誤った解釈に囚われてきたことを知っておかなければならないと思います。キリスト教会は、この2000年の間、このような聖書の言葉、つまり「ユダヤ人」というひとくくりの言葉であたかもユダヤ人全体がイエス・キリストに対する殺意をもっているかのように受けとめ、それが「イエス・キリストを殺したのはユダヤ人だ」という根強い反ユダヤ主義を培ってきたのです。私たちは慎重に考えてみなければなりません。キリスト教会は、実はこの2000年の間、「イエス・キリストを殺したのはユダヤ人だ」ということをずっと悪意をもって語ってきたのです。20世紀に起きたアウシュヴィッツの悲劇というのも、ヨーロッパのポーランドの一角で偶然起こったのではなく、キリスト教文明の中だからこそ、キリスト教文明であるがゆえに、起こるべくして起こった悲劇でありました。そうしたことを考えあわせますと、イエス・キリストがユダヤ人に向かって「あなたたちはわたしを殺そうとしている」と語られた言葉をどう理解すべきか。私は、イエス・キリストは、ここで自分の属するコミュニティーを批判されたのだということを見落としてはならないと思うのです。その外に立って、「あいつらは悪いやつだ」と言われたのではない。イエス・キリストご自身もユダヤ人でありました。いわば自己批判の一環です。ですからクリスチャンが自分を抜きにして、ユダヤ人を他人として見ながら、「イエス・キリストを殺したのはユダヤ人だ」というならば、大きな思い違いをすることになってしまうでしょう。(自分の属するコミュニティーということで言えば、「教会がイエス・キリストを殺した」というようなことなのです。)イエス・キリストによって自由にされるということは、これまで当たり前のように考えていたことからも解き放たれて、真理に近づく。神様の御心に近づくということを意味しているだろうと思います。

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