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「私に向けられた言葉」(2023年12月)

私が教会で洗礼を受けたのは、20年前のクリスマスです。牧師様から記念の本を頂きました。「聖書と共に愛読するように。」と手渡された本の裏表紙には、先生のサインと聖書の一節が丁寧な自筆で書かれています。

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそキリスト・イエスにおいて神があなたに望んでおられることです。」(テサロニケ信徒への手紙一5章17~18節 新共同訳聖書)

牧師様の温かい文字と一緒に、私はこの聖句が大好きになりました。どちらかと言うと能天気の私にぴったりの言葉だと思ったのです。どんなことにも感謝するということが、ほんとうはどれほど難しいことかなんて、その頃は考えもしません。聖書を開き「ふーん、ここに書いてある。テサロニケ5章か、いい言葉だね。」と感心して終わりました。

 それから20年。さすがに聖書も良く読むようになり、日曜日に教会で牧師様の説教を聞き「私はクリスチャンなの。」と周囲に言いふらしていました。読んで、聞いて、何だかわかったような気になっていたのです。
 ところがある日、何気なく開いた聖書のページの、何でもないような一行に、いきなり目が釘付けになりました。

「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。」(ルカによる福音書6章27節 新共同訳聖書)

と続くのですが、これまでに何度も読み返したはずのこの部分が、この時初めて私に迫り、やっと理解したのです。聖書はイエスのメッセージ、しかも私に直接呼びかけていると。聖書にはイエスの言葉が書いてあることは、クリスチャンなら誰でも知っている「いろはのい」です。そう、私は知っているつもりだっただけで。今、肉声のメッセージを受け取ったと強く感じました。大勢の仲間と共にイエス様を囲み教えに深くうなずいているイメージです。

 その日から聖書の読み方が変わりました。私に向けられた言葉を無視することはできません。表面だけなぞって適当にやり過ごすことも失礼でしょう。はっきりと理解できない部分があっても、私に訴える真の心を真摯に受け止めようと思います。20年もかかってやっと入り口に立っていますが、わけもわからぬままに教会に通い、聖書を読んでいたからこそ入り口に立てたのだと、ここに導かれたことをただただ喜び感謝するばかりです。

 皆さんも教会へいらっしゃいませんか。わけもわからぬまま私が20年も教会に通い続けたのは、教会が誰を責めることもなく、とってもゆるく、楽しく居心地が良かったからです。一緒に聖書を読みましょう、待ってます。

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